十五

「……鈎取と変わらない大きさですよ!どうしてこんなことに!?」

 真備の傍らで皇子の行動に面食らっていた葛木王が、興味津々と言った面持ちで皇子を眺めた。

「人のカタチを成すための最低限の妖力まで使った結果だ」

 三人の所にやってきた長屋王が説明した。

「……」

「久しぶりだな、下道真備。まぁそう睨むな。渡唐前より立派になったではないか」

「!?……吾を覚えておいでか」

「フフッ、当然のこと。汝を留学生にしたのはこの吾なのだからな」

「……」

「こら、なにをぼさっとしている!かがみをもて!!しんじられん、とおさまゆずりのりっぱなたいくがじまんだったのに、ちぢむ!?ありえん!!」

 小さくなったせいか、皇子の話し方はたどたどしい。

 納得のいかない皇子は地団駄を踏み、葛木王に命令した。

「はい、只今!誰か、鏡を!」

 葛木王は慌てて侍女を呼ぶ。

「叔父様は先程まで吾等の敵だったのだぞ。そうかしずくな」

 長屋王は呆れてため息をついた。

 皇子は侍女が持つ白銅鏡まそかがみで己の姿を映し、

「ふむ。ちょうどかあさまがおかくれになったころのわれだな……しかしまぁ、これはこれでいつもとちがったたのしみかたができるやもしれん。なによりあいらしさがました。まきび!だっこしてくれぇ」

 そう言って、皇子は真備の胡坐の上に座った。

「気持ちの切り替え早すぎませんか?」

「ふぃ――さいこうのすわりごこち!しかし、しりのしっぽがじゃまだな。こうすわろう」

 皇子はそう言うと、クルリと回って真備の胸に顔を埋める。

「むふぅおー!!まきびのむね――!!いい!じつにいい!!えいごうこうしていたい!!」

 皇子はご機嫌で驥尾をうねらせた。

「下道、今すぐ叔父様を止めろ!見るに堪え……!」

 渋い顔をしていた長屋王が、ふと門の方を見てギョッとした。

「膳夫……汝まだ立てるのか!」

 門には、息も絶え絶えの膳夫王が、氷の剣を握りしめ門に向かって歩いてくる。

「しかしどろとみずでぐちょぐちょではないか!だれか、かわりのころもをもて!!」

「皇子!」

「もっともんでいい?いいか?どうした?」

 真備に促され、皇子も門の方を見た。

「……まきび、あたまなでてくれ」

「はぁ!?」

「よしよししてくれ!してくれればそれでいい!!」

「……殺す……誰が何と言おうが、吾を侮蔑した者は、許さん……二人とも、まとめて……殺す!」

 膳夫王は聞こえないほど小さな声でブツブツ呟きながら歩いてくる。

「たのむまきび!」

「はぁ。こうですか?……よしよし」

 角を避けるようにして、真備は皇子の頭を撫でた。

「ふひぃ――!!よしよし!よしよしよし!よしよしよしよしはぁ――よしよし!!」

 皇子は真備に頭を撫でられると、外に出された子犬のように大喜びで辺りを転がり、駆けまわった。

 そして瞬時に元の大きさに戻ると、力を振り絞って剣を振り上げ駆けてきた膳夫王の顔面に、思いきり拳を喰らわせた。

「ブファッ――!?」

 膳夫王の身体は門を超え、向こうの敷地にまで飛んでいった。

「戯け――!! 吾が命を潰すぅ!?義淵や小角でさえできなかった大業をましのような小人しょうじん(徳のない、品性の卑しい者)がやろうとは、図々しいにも程がある!!千年修行積んで出直してこい!!」

 皇子は全力で膳夫王に向かって怒鳴りつけると、

「……いやぁすまん、はしたない所を見せてしまったな」

 と、真備に向かってはにかんだ。

「……今日は終始はしたないですよ。今も衣を着ておられませんし」

「ンンッ!」

「あ、お二人の衣をご用意しますので!」

 葛木王が遠慮がちに声を掛けた。

「吾は結構。それより妹を返して頂く」

 真備は立ち上がって答えた。

「お待ちください!それは」

「それは困るな下道。吾等はいましと殺し合いがしたくてが郎女を吾が楼に招いたわけではない」

 長屋王が葛木王の言葉を遮って言った。

「術をかけて強引に攫っておいて?」

「そうでもしなければ汝は来なかったろう。まさかここまで抵抗されるとは、正直予測の外だったが」

「お、お願い致します博士!ではなく大学助殿!!」

 葛木王がそう言いながら平伏しようとした。

 しかし長屋王は葛木王の腕を取り、葛木王が地に膝をつくのを止めさせた。

「童が余計な事をして出しゃばるな!今は駆け引きの最中なのだ!父に任せておけ」

「何だ?何か目的があって真備を呼んだのか」

「……如何にも叔父様。下道よ、吾等の願い、聞き入れてくれれば汝の妹は返す。吾等は賎陋せんろうな賊ではない。郎女は丁重に扱っている。ただ」

「ただ、ここで真備が暴れれば命は保証しないと?」

 皇子がニヤニヤしながら尋ねた。

「如何にも」

「……クッ!」

「真備焦るな!事情は大体飲み込めた。吾と戦いたい奴、真備を利用したい奴、思惑は親子兄弟それぞれ違うという訳か。一度に二人とも呼んで一網打尽にしようとは都合がよすぎないか?……ってアレ?葛木、他の兄弟はどうした」

「え!?わ、吾が名をご存じなのですか!?……あ、いや、そうじゃない!実は大叔父様にお願いがあるのです!……あぁあ平伏は駄目なんだった!」

「落ち着け葛木、頭など下げずともよい。言うだけ言ってみろ」

「あの、桑田の兄様と弟も、大学助殿のように治して頂きたいのですが……吾の力では到底間に合わず……瑤光、犬は何とか吾の力で癒しますから!」

「なにぃ!?あの子等まで巻き込んだのか!長屋なんてことを!!」

「ですから、予測の外だったと申し上げました!」

「皇子お待ちを!このモノ達を回復させれば、将来大君と国家に甚大な被害を及ぼす可能性があります!」

「真備よ。あの生白いのは別として、長屋と葛木の二人は汝の怪我の治療を黙認していたではないか。そこは大目に見ろ」

「大学助殿!吾等ではそのように大それたことはできません!」

「胸を張って情けないことを言うでない、葛木!」

「申し訳ありません父様……」

「……それは、そうではありますが……」

 顎髭をしごいて黙り込んでいた真備が、ようやく口を開いた。

「ふふっ、だろう?」

「しかし、力なきものとて力を合わせれば……それによろしいのですか?治癒の術を使えばまた小さくなるのでは?」

「二人を見殺しにするわけにはいかない。鈎取はともかく桑田は完全な部外者だからな。いいな、真備?」

「……」

「よし。では、連れてきなさい」

「只今!」

 真備は黙って顎髭をしごいていたが、

「……ところで、どうして部外者なのですか?」

「んー、それはなぁ……」

 真備の質問に皇子は言葉を濁す。

 すると、資人達が板戸の上に乗せられた鈎取王と、錦を敷いた坏の上に乗せられた桑田王を運んできた。

「!?うぉわあああああ!!桑田ァ!!何という姿に!!」

 皇子は、顎のない頭部だけになってしまった桑田王の姿に驚愕した。

「待て待て、今すぐに治してやるからな!泣かずともよい!!」

 皇子はすぐさま両手をかざすと、地面に置かれた坏の上の桑田王は火花に覆われ、辺りはフラッシュが焚かれたように光り輝いた。

 しばらくして光が消えると、全裸の桑田王が皇子に抱きついて涙を流していた。

 皇子はなだめるように桑田王の頭を撫で、

「身体が治っても、すぐさま元の通りには動けん。しばらく休んで養生しなさい」

「……感謝いたします……」

 桑田王は衣をかけられ、資人達に背負われて、奥の御殿の一つに入っていった。

「……真備か?桑田の怪我は」

「殺しはしませんでしたよ。殺すと穢れを撒き散らされて、家に住めなくなりますからね」

 真備は平然と答えた。

「……ちゃんと思い出しましたよ。皇子のお言葉も」

「!?まことにぃ!?」

「手を止められて、腹立たしいことです」

「ンンッ!まぁ、殺さないでいてくれただけ良しとするかぁ」

 皇子は鈎取王に向かって両手をかざす。

 火花は鈎取王の腹部のあたりに飛び散った。

「……こっちはじゅうしょうじゃなかったようだなぁ。すぐおきてもだいじょうぶだぞ」

「皇子は大丈夫ではありませんでしたね」

「んんっ!かつらぎはわれによいていあんをしたぞ!まきび、だっこ」

 また小さく縮んだ皇子が、嬉しそうに抱っこをせがんだ。

「頭撫でましょうか?」

「いやいや!もうすこしまきびのちちをたんのうしたいー!!」

「……何だ此奴」

「大叔父様だよ、鈎取」

「大叔父!?……なんだ、全員計画失敗かよ!」

 起き上がって真備と皇子の方を見た鈎取王が毒づいた。

「膳夫は失敗だ。吾は一応、一矢報いた。汝等はこれからだ」

「一矢ねぇ。そのザマでかぁ?」

「シッ!!鈎取、口が過ぎるぞ!」

「……まきびぃ、とりかえすきかいはまだあるとおもうぞ」

「は?」

「とりあえずはなしをきいてやってくれ!ながやはわれのとしうえのおとうとが、いちばんかわいがっていたこなんだ!あんまりいためつけないでやってくれ!」

「年上の弟は余計です叔父様」

「けがをなおしたれいとおもって、われのいけんをきいてくれないか?りふじんなことをいいだしたら、われがいためつけるから!な!!」

「……皇子はお優しいですね。仲麻呂も……どちらかというと戦うなと言う方でした」

 真備は大きく深呼吸をした。

「……では、伺うだけ伺いましょう」

「わあっ!!ありがとうございます博士!!」

「ケッ!郎女と違って、可愛げのねぇ年寄りだぜ!! 素直じゃなくてよぉ!!」

「……では皆衣を替えるように。吉備の前で乱れた装いは許さんぞ」

「吉備?」

「……」

 抱きかかえられた皇子は、キュッと顔を真備の胸に埋めた。

「では皆様こちらへ!」

 葛木王は嬉しそうに皆を御殿の方に導いた。


「……抱っこしましょうか?」

「多分に魅力的な話だが、今それをやると腰を痛めるぞ、真備」

 真備の提案に、皇子は憮然とした表情で答えた。

 皇子は衣を着替えている時から、ずっと機嫌が悪かった。

 幼子用の衣が鈎取王の物しかなかった上に、鈎取王が頑として己の衣を貸さなかったため、皇子は仕方なくまた頭を撫でられて、元の姿に戻って衣を着たのだった。

 真備と葛木王はそれぞれ翠緑色(青みの濃い緑)と長春花色(薄い赤紫)の綾衣でできた盤領袍に白袴を纏い、皇子と長屋王は十様錦色(黄みがかったピンク)と青蓮紫色(あざやかな薄い紫)を基調とした上衣下裳の一式を身につけている。

 皇子に衣を貸すのを渋った鈎取王は、相変わらず瘴気を纏っているため、どんな衣に着替えたのかは分からなかった。

 全員が着替え終わり、五人は二人の幼い王が出てきた奥の門の前にやってきた。

「……左大臣殿が発した吉備という言葉。妃の吉備内親王のことだろうが……皇子はあの時から機嫌が悪いのか?何か関係があるのか?」

 真備は顎髭をしごきながら考える。

 門が開けられる。

「――れか――!!居りませんか――!?」

「!?」

 門の内を見た全員が目を向いてギョッとした。

 御殿の一棟の陰から、由利が走り出てきた。

 裸足で、裙を太腿までたくし上げ、走りながらキョロキョロしている。

「誰か!!誰かおりませんか!?……!!あっ!!」

 由利はしばらく敷地内を走り回り、辺りを見回してようやく門が開いていることに気がついた。

 裙をたくし上げたまま、必死の形相で皆に向かって駆けてくる。

「うわぁ!!」

「はぁああ!?」

「おおっ!?」

「!!」

 少女の露わになった太腿に、皆驚きと戸惑いの叫び声をあげた。

「きゃわわあわああやはりゆゆゆ由利殿おおお!!なん、なん、なんとぉ!?どどどどういう!?」

 由利のあられもない姿に、真備はいつものほわっとした顔になってバタバタと混乱する。

「!」

 しかし、すぐに今まで通りの真顔に戻ると、素早く隣にいた皇子の腹に思いきり膝蹴りを喰らわせた。

「うごっ!?」

 顔を輝かせていた皇子は、蹴られた腹を押さえて思わず地面に突っ伏した。

「見てませんよね!見てませんよね!?」

「……見た……とは言い難いなぁ……」

「何ですか!?」

「……見、てません……」

 皇子は蚊の鳴くような声で答える。

 由利は皆の前で急停止すると、葛木王に向かって、

「水!水を下さい!!」

 と、声を振り絞って叫んだ。

「!?え?水?……あ、そうか!菓子だけ用意して白湯を忘れておりました。喉が渇きますよね。ご用意しますから戻りましょうか!戻って皆様とお話でも」

「ううん、今!今すぐ!すぐ欲しい、です!」

「えっ?今すぐですか?よろしいですが……誰か!」

 すぐに須恵器の碗を持った侍女がやってきて、怪訝な顔の葛木王に手渡した。

「ど、どうぞ?」

「ありがと、ございます!!」

 由利は奪うように受け取ると、片手に碗を、片手に裙の裾を持ち上げて、全力で御殿の方に向かって走って行った。

「何なのだあの少女おとめこは!はしたないにもほどがあるぞ」

 長屋王が呆れ顔で言った。

「……母様の所だ」

「!?」

「何だって鈎取?」

 鈎取王は黙って由利の後を駆けた。

 由利の勢いに圧倒されていた葛木王達も後を追う。

 由利は何度もつまずきそうになりながらも地面を駆け、階段を上り、廂を横断し、母屋の寝所の中にいる女性の所に息荒くたどり着いた。

「お、遅なってすいません!あの、水です!!」

 そう言って、こぼして水が減ってしまった碗を両手で差し出す。

 女性は震えながら碗を受け取ると、中の水を一気に飲み干した。

「……う……うま……美味い……」

 女性は碗を大事そうに両手で抱えてつぶやいた。

「!!……母様が、白湯を口に!……」

 後から息せき切って駆け付けた鈎取王は、ぽつりとつぶやいたまま棒立ちになった。

 そして、洟をすする音が聞こえた。

「……!!郎女殿!!……母様が白湯を?あぁ、本当に!?……」

 葛木王も二人の様子に目を潤ませた。

「へ?母様?」

 由利は不思議そうな顔で二人の王を見たが、

「!!あ!ご、ごめん、なさい!」

 無断で室内に侵入していることに気づいた由利は、慌ててバタバタと廂に出た。

「!!」

 すると、丁度階段を駆け上ってきた真備とぶつかってしまった。

「!?」

「きゃっ!!」

 由利はぶつかった反動でひっくり返り、また裙がめくれて足が露わになってしまった。

「!!!?!!」

 再び由利の太腿を見てしまった真備は、いつものほわほわっとした顔でパニックを起こし、由利から距離を取るべく慌ててバタバタと後ずさりする。

 後ずさりし過ぎて、足を踏み外した。

「キャ――!!」

 真備は思わず叫んで、そのまま地面まで階段を転げ落ちてしまった。


「戯け!!ちょっとのことで何だその情けない騒ぎようは!!汝は童男おぐな(未婚の男、童貞)なのか!?」

 長屋王が呆れた顔で廂から叱責する。

 真備は階段の下で平伏していた。

「申し訳ありません……」

 いまだ心を許せない敵の前での失態に、立ち上がれない程打ちひしがれていた。

「そんなことお気になさらないで下さい、大学助殿!こちらに来て頂かないとお話ができません!」

 葛木王が心配そうな顔で欄干から身を乗り出して声を掛ける。

 一人を除き、王達と由利は寝所の前の廂に敷かれた花氈の上に、胡坐をかいて座っていた。

「いえ、もう吾はここで……」

 真備は頑なに拒否し、頭を上げない。

「……ムフッ!!」

 皇子は相変わらず不機嫌そうな顔で袖手をして一人欄干に腰かけ、顔を背けていたが、突如噴き出した。

 そして、振り返って皆に見せた顔には、いつもの優しい微笑みを浮かべていた。

「あぁ――あ、そうかそうか!そうかと思っていたが確信を得たな。落とした時が楽しみだ!……は、ともかくとして長屋よ!真備は女子衆を大切にする心優しい男なのだ。汝とは違う」

「な!?叔父様!わざわざき、吉備の前で言うことではないでしょうがぁ!!」

「何で急に怒りだすのだ。別に汝は女癖がひじょ――に悪かった、とまでは言ってないだろう?」

「!?」

「ムフフッ、親子してからかい甲斐があるな!いい暇つぶしが見つかったぞ」

「……誰か!吾に酒を……いや、白湯を持て!!」

 長屋は顔を真っ赤にして叫んだ。

「……すごい。誰も横から口出しできない、と百官に恐れられた父様をあんなにおからかいになって」

 長屋王と対面する形で由利の隣に座っていた葛木王は、感心して隣の鈎取王に話しかけた。

「当然だろ。太政大臣だった爺様だって、死ぬまでしょっちゅう小突かれとったらしいからなぁ」

「二人とも喧しい!」

「!も、申し訳ありません父様」

「だがこれは好機だ。ノスケの心が折れた今なら、吾等の要求を呑むかもしれん」

「まことにぃ!?」

「……長屋」

 皇子が、切子の瑠璃碗に入った白湯をごくごくと飲んでいる長屋王に声を掛けた。

「何です?」

「早く話を続けろ」

「汝が話の腰を折ってきたんでしょおがぁ!!」

 長屋は白湯を飲み干すと、咳払いをした。

「で、下道。吉備の姿は見たか?」

 真備はがっくりと地に伏せたままだったが、長屋王の問いかけにやっと頭を上げた。

 その顔は、この屋敷に来た時と同じ厳しい表情に戻っていた。

「……拝見しております」

 真備はそう言って、胡坐をかいて座り直した。

「先程の様子を見て確信した。厲鬼は人の施しがなければ救われることはないと」

「施餓鬼供養された食物しか口にすることのできない餓鬼と同じ、ということでしょうか?」

「餓鬼と同じにされるのは堪らんが」

「失礼致しました」

「だが事実なのだ。受け止めねばならん。吾等もそうだったのだから」

「何方かに施しを受けられたのですね」

「汝だ」

「はぁ?」

「汝の琵琶の音を聞いた」

「!!」

「藤原麻呂の館から漏れ聞こえてきた琵琶の音を、聞いた」

「……あの場にいたのか?狐共が厚く結界陣を張っていたはずだが」

 真備は聞こえない程の小声でつぶやく。

「そこの叔父様に宮城を追い出されて後も、吾等は宮城の周りを空しく這い回ることしかできなかった。しかしあの時、汝の琵琶の音を聞いて奮い立った。左大臣にまで上り詰めた吾が、いつまでも下賤な魑魅魍魎のままではいられない、と」

「吾は『鴻門の会』が目に浮かんだよ。漢王と楚王の前で項荘と項伯が剣舞をする様がありありとね!」

 葛木王はうっとりした顔でつぶやいた。

「鈎取は?」

「……フン」

「そのおかげで吾等は正気に戻ることができたのだ。感謝している」

「感謝?……クッ、墓穴を掘ってばかりだな、吾は……」

 真備は険しい顔をますます険しくしてつぶやく。

「今回の依頼は他でもない。汝の琵琶の音を、吉備にも聞かせてやって欲しい。そうすれば吉備も正気に戻り、苦しみから解放されよう」

 長屋王はそう言うと、寝所の中を見やった。

 皇子はニヤニヤしながら足を組み、肘をついてその様子を眺めている。

「どうだ?大したことではないだろう?生き死にのやり取りをしてまで抵抗する内容ではないだろうが。ただ一度弾いてくれればそれでよい。琵琶はこちらで用意する」

「承服しかねます」

 真備は即答した。

「何だと!?」

「博士ぇ!?」

 幼い王二人が欄干から身を乗り出した。

「人一人救うのがそんなに気に入らないか?」

「理由は二つあります。まず、確証がありません。吾が調べは僧伽の声明しょうみょう(仏典に節をつけて歌うように読むこと)とは違います。調伏も救済ぐさいも不可能です」

「確かに調伏も救済も今のところ不可能だが、そこまで望んでいるのではないのだろう?」

「如何にも。黄泉路へ導けと言っているのではない。ただ瘴気を祓い、苦しみを除いてくれと言っているのだ」

「しかし。一昨日は偶然で、今日弾いたとして同じ結果が出るとは限りません」

「それでもかまわん」

「はぁ?」

「汝の琵琶の音は吾等には届いたが、吉備までには届かなかった。吉備は吾等と違って超常の才を持たない。そこも見極めたいのだ」

「で、もう一つは何だ?真備」

「勿論、吾はみましを正気に戻した責任を取る必要があります。先程の長子膳夫王の出で立ちを見れば、大君と朝廷に弓引く意志は明らか。吉備内親王も正気に戻れば、善き補弼となり謀反貫徹は確固たるものになるでしょう。吾も端ながら臣僚の一員として、謀反の意のあるモノを見過ごす訳には参りません」

「あの吉備が補弼だと!?フハハハハハ!!今日の真備の冗談は冴えているな!実に冴えている!!気位だけは高い中身が空っぽの媼だぞ。何の役に立つっていうんだ!! フハハハハハ!!」

 皇子は腹を抱えて大笑いした。

「吉備を愚弄することはお控え願いたい!」

 長屋王が立ち上がって皇子に怒鳴る。

 皇子は口の左端を上げて憫笑した。

「汝は吾のことを知っているのだろう?知っていて吉備を妃として娶ったのだろう?ならば覚悟すべきだな」

「!」

「……分かるぞ、正気に戻したら説得してお引き取り願うのだろう?あの者は補弼どころか口煩いだけの足手纏いでしかないからな」

「止めろ!!母様を悪く言うな!!」

 今度は鈎取王が立ち上がって叫んだ。

「泣くなよ鈎取!親を選べぬ汝の不幸、吾は十分に理解している」

「不幸じゃねぇ!!吾だ!!吾が不幸にしたんだ!!母様を!!」

「長屋見ろ!妃を選び間違ったばかりに子が泣く悲しい事態になっているではないか」

「だから!!」

「鈎取我慢して!大叔父様に勝てるわけないんだから!!大叔父様も、もうお止めください!!」

 葛木王が鈎取王の身体を押さえて、突っかかろうとするのを止めながら懇願した。

 真備は顎髭をしごいて廂の様子を観察していたが、

「……お話はお伺いしました。では由利殿を返して頂く」

 そう言って立ち上がった。

「お待ちを大学助殿!!まだ話は!!」

「……苦しまんで済むん、ですか?」

 由利がぽつりとつぶやいた。

「え?」

「あの人、ううん、あの、お人?苦しまんですむようになるんですか?」

 由利は葛木王に尋ねた。

「!!そうです、そうです郎女殿!!それで博士にお願いしているのです!!」

「ほんと、ですか!?じゃ、じゃあ、してほしい!!」

「え!?」

「あのお人、助けてあげて欲しい!苦しまんで済むんだったら、そうして欲しい、です!!」

「郎女殿。吾が国には沢山の病があり、全ての病を治すことができる者はほぼいない。一人二人病で苦しむ人を見ただけで同情し悩み苦しんでいると、これから地獄を見ることになるぞ」

 皇子が優しく微笑んで言った。

「……吾ぁは……吾ぁは、死んだ母を山に、山に置いてきた、んです。生きるために」

「!?」

 一同がぎょっとした顔で由利を見た。

「ど、どういうことです?博士の母様を!?」

「ち、ちがいます!!吾ぁは、妹やないんです!!吾ぁは本当は」

「腹違いなので」

「!?」

 階段を上ってきた真備が説明した。

「あぁなるほど!浅慮でした」

 葛木王は恐縮して謝った。

「腹違いだろうか無かろうが、山に親を捨て置くとは、子としてあるまじき酷い仕打ちではないか!考えられん!!」

 と、長屋王は由利を睨みつけた。

「!!……う……ごめ……そう、です……」

 由利は肩を震わせて泣きはじめた。

 真備は階段を上りきった床の上に胡坐をかくと、長屋王の方に向き直った。

「左大臣殿。吾が妹は病で家人をすべて失くし、今まで全く面識がなかった吾を頼って山を越え、一昨日やっと京師に辿り着いたのです。思い出すと妹を苦しめることになる故こちらからは聞きだしませんでしたが、暮らしは楽ではなかったと推測しております」

「病で家人を!全員か!?」

 驚いた声で鈎取王が訊いた。

 由利は泣きながら黙ってうなずく。

「それは……辛いなぁ」

 鈎取王は由利の隣に寄り添って言った。

「そんなことが言い訳になるものか!今すぐにでも山へ行って」

「止めろ長屋!」

「!!」

 叱責を続けようとする長屋王を皇子が制した。

「己が尺で他人を測るな。貧しい者は亡骸を川に流すことすらままならないのだ。汝は百官の長でありながら百姓のことを慮ることができないのか?それでは誰も汝を認めはしないぞ」

「!!……ギッ……」

 長屋王は歯ぎしりした。

「由利殿。実は、吾も下道の父の子ではないのですよ」

 真備は由利の方を向いて言った。

「ええっ!?」

 一同ぎょっとした顔で真備を見た。

「母が嘘をついているとは思っておりません。ですが、初めて父に出会った時に思いました。「あ、これは血の繋がりがないな」と」

「!?……な、なんで?」

 由利が涙と洟を袖で拭って尋ねた。

「フフフ、父とね、全然顔が似てなかったんですよ。一つも」

「!一つも?」

「はい。不思議なことに八木氏の者は全員同じ顔をしていると言われるのですが……最初はそれで下道の家人にも当の父にも信じてもらえなかったのですが。でも父は、最後に吾を子として迎え入れてくれました。そのおかげで、今の吾があるのです。由利殿、よろしいですか」

「……へ?」

「兄妹とは、なっていくものだと思います。例え血は繋がっていなくても、黒麻呂殿が「父の子だ」と言って汝を吾の所に導いた。それでもう十分兄妹としてのゆかりはできたと思います。吾は、父が本当に己の子なのか分からない吾を吾が子として受け入れたように、汝を妹として受け入れたい。そして、汝の力になりたいのです」

「そうだな……例え血が繋がっていても、憎しみ合い殺し合う兄弟もいる。兄妹であることそのものよりも、兄妹として支え合い、慈しみ合おうと思う、その方が重要なのだ」

 皇子は皆から顔を逸らし、遠くの庭木を眺めながらつぶやいた。

「あ、兄様……いいん、ですか?吾ぁはなんも知らんし、あんな立派な官人様の家で住める、ようなモンではない、ですけど……」

「まだ至らぬところが多々ある故、ご迷惑ばかりおかけすることになると思いますが、よろしくお願いいたします」

 真備は由利に向かって頭を下げた。

「わ、吾ぁもよ、よろしくお願いです!」

 由利も真備を真似て、床につくほど深く頭を下げた。

「距離が遠すぎんだろ!兄妹ならもっと近づけぇ!!」

「汝が郎女殿にべったり過ぎて近寄れないんだよ、鈎取!」

 葛木王はそう言って、詰る鈎取王を由利から引き剝がした。

「……では、郎女殿の願いを聞き入れるんだな?真備は」

 皇子が微笑んで尋ねた。

 真備は顎髭をしごいてしばらく考え込んでいたが、

「……吾は妖厲が、アラガミが憎い。超常の才を持つ者が年々減少していく現在、今生きている吾等が力あるアラガミを殲滅しなければ、後の世の人々では対峙すらできず、百姓が滅びてしまうかもしれない。だから……」

「じゃあ、由利の言うこと無視すんのか!?今「力になりたい」っていったばっかりじゃねーか!」

「……」

「ノスケ、母様助けてくれ!」

「お願いします、大学助殿!!」

 頭を下げる二人の王を見て、由利も慌てて頭を下げた。

「……吾ぁは、あの時母のこと、どうにもできんかった……吾ぁでは何もできん、それは吾ぁでもわかります……でも、辛いんです。とっても……今はまだ、くよできる歳と違うけど……でも、今、なんとかできるんなら、なんとかしたい。して欲しい!やっぱり、母と同じように苦しむ人、もう見たくないんです!!」

 由利は真備に向かって懇願した。

「!!」

 真備はいつものほわほわっとした顔に戻った。

 そして、奥二重の両眼に涙をいっぱいに溜めると、その場に突っ伏した。

「……ううっ!」

「博士!?」

「……なんと心優しく、強いお方なのだ。この年で人でないモノまで救済したいと……うぅ……」

 真備は伏したまま嗚咽していたが、しばらくしてようやく顔を上げた。

「……確かに妖厲は憎い……のですが、由利殿の想いを押し潰してまで吾が意志を通すこと、吾にはできません……本当に効力があるのか甚だ疑問ではありますが、演りましょう」

 真備は泣き腫らした顔で答えた。

「……やった、やったぁ!やったぞ!!」

「ありがとうございます、博士!あ、いえ大学助殿!!」

「やれやれ、やっとここまで来たか。一つ頷けばすべて事足りた昔が懐かしい」

 鈎取王と葛木王は抱き合って喜び、長屋王は安堵のため息をつく。

「え……えと、ええのかな?これで」

 状況がよく呑み込めない由利はポカンとしている。

「……吾の思った通りの男だよ、真備は」

 皇子は真備の様子を見て満足そうに微笑んだ。

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