十四

 本来ならば、禍々しい雲の到着と同時に、邸内は嵐に見舞われるはずだ。

 しかし、作宝楼は結界の障壁に囲われて現世から隔絶され、温室のようになっている。

 そのため、空は暗く曇っているものの邸内に雨風はなく、変わらず昼のように明るかった。

「……葛木、資人を出しなさい」

「!は、はい父様!」

 葛木王は懐から人形を六枚取り出し、自分の前に投げると、人形はたちまち資人に変化した。

「早くやれ、膳夫!」

「……承知しました」

 膳夫王は口をとがらせて返事をすると、真備の衣の襟をつかんで塀から引き離した。

 そして真備を指差すと、

「葬」

 とつぶやく。

 すると、地面から徐々に氷が真備を覆い、氷の棺が出来あがった。

「運ばせなさい」

「只今っ!」

 葛木王が返事をすると、資人達が氷の棺に駆け寄り、門の内まで運んだ。

「葛木、門を閉じなさい。そして、吾等が良しというまで決して開けてはならん。良いな!」

「で、ですが父様!吾だって」

「術を瞬時に破られた汝に何ができるというのだ、愚弟!吾等の足手まといになるようなことはするなよ!」

 膳夫王が弟を睨んで言った。

「心配することはない葛木。吾等の計画は上手く行く……全て、ではないかもしれんが。汝は他の家人を守りなさい」

「!!……はい、皆は吾が守ります!」

 葛木王はそう答えると、険しい顔で門扉を閉じた。

 ゴゴゥン!

 再び地震のような振動が起きた。

 空にいる禍々しい雲の塊が、作宝楼を覆う結界の障壁を攻撃していた。

 二人には、その雲の中にあるモノの姿が見えている。

 それは、上半身が青黒い肌をした四臂の人間、下半身が金色の蛇の姿をした、大極殿ほどの高さがある巨大なアラガミだった。

 頭はなく、斬られたような跡がある首から官人の朝服と同じ八色の蛇の頭が生え、それぞれがそれぞれに蠢いている。

 虹色に輝く領巾を纏い、上の両手には柄の輪金(柄の上部と下部を繋ぐ飾り)に金の鈴が幾つもついた大刀をそれぞれ持ち、下の両手には肉の腐った人間の首を幾つも持っていた。

 暴風雨の音にかき消されて聞こえにくいが、泣き叫ぶ大人や幼児の声、ケラケラと笑う声が微かに聞こえる。

 シャリン――

 幾つもの鈴の音が鳴ったと同時に、

 ゴゴゥン!

 衝撃音と共に地面が揺れる。

 空に浮かんだアラガミは、手に持った大刀を打ちつけ、見えない障壁を割り砕こうとしていた。

「父様、早く手筈通りに進めましょう!!結界陣が破られると作宝楼が現世と繋がり、吾等の居場所が知られることになります!!」

「逸るな、分かっている!」

 長屋王は手に持った剣の鋒を、空に向かって筆のように動かした。

 空に勿忘草色の咒文が浮かび上がる。

 そして、その咒文を剣で突き刺した。

 ビシッ!

 咒文が砕けて消えると、何もない空にガラスが割れたような亀裂が走る。

 作宝楼を覆っていたドーム状の障壁がすべて砕け、欠片は細氷のようにキラキラと幻想的に空を舞った。

 すると、アラガミはすぐさまぬるりと敷地の中に入った。

 長屋王はアラガミが入りきったのを確認すると、再び素早く鋒を筆のように動かし、浮かび上がった咒文を空に向かって鋒で押す仕草をした。

 咒文はスッと消え、空を舞う細氷が再び空に集まり、虹色のドーム状の障壁を成すと、すぐさま透明になり障壁は見えなくなった。

 アラガミが連れてきた嵐が敷地内を襲い、瓦礫が舞飛ぶ。

 長屋王は膳夫王に剣を投げて渡した。

 剣は強風の中でも真っ直ぐ飛んで、膳夫王はそれをしっかりと受け取る。

「父様!手出しは不要、吾一人で倒して見せます!!」

「……好きなようにやるが良い」

 長屋王は戦闘の邪魔にならないよう、敷地の隅に下がった。

 膳夫王は、剣の鋒を宙に浮かぶアラガミに向けた。

「悪龍よ!!父を殺し!弟達を殺し!吾を殺し!そして!!無関係の母をも殺した汝を!吾は決して許さん!!今日!ここで!吾の力で調伏する!!」

 膳夫王は絶叫すると、剣を振り上げる。

「隕ちろ!天降石!!」

 膳夫王が悪龍と呼んだアラガミの頭上が一瞬光ると、小山程の大きな氷塊が出現した。

 膳夫王が剣を振り下ろすと、氷塊は凄まじい速さで悪龍に激突した。

「!!」

 頭がないため悪龍は叫び声をあげることはない。

 代わりに、髪を掴んで持っている首達が今まで以上に泣き喚く。

 悪龍は地面に叩きつけられた。

「まだだ!!」

 膳夫王は剣を思いきり地面に突き刺すと、突き刺した剣を中心に、地面に再び厚い氷が張る。

 氷は地面に伏した悪龍をも凍らせていく。

「!?」

 氷に腕と下半身を拘束された悪龍は、もがいて氷を砕こうとするものの、氷結する範囲は徐々に広がり、身動きが取れなくなっていく。

 膳夫王は剣を引き抜くと、再び剣を振り上げた。

「もう一度だ!!隕ちよ!天降石!!」

 先程と同じ場所に同じ大きさの氷塊が現れ、再び悪龍に激突した。

「!!」

 氷塊は拘束していた氷ごと悪龍を押し潰す。

「ぎぃゃああああああああ!!」

「イヒヒヒヒイヒヒヒヒイヒヒ!!」

 押し潰された悪龍の代わりに、手に持った首達の絶叫が響いた。

 膳夫王は力尽き、その場に崩れ落ちる。

 しかし剣を支えに何とか身を起こすと、

「ど……やった!!どうです、父様!吾ほどの……吾ほどの才を持つ者こそ、大君に相応しい!あの下人如きに、この、長年大君を苦しめ続けた悪龍を倒した吾を、見下される筋合いなど!」

 と叫んだ。

「……膳夫。まだだ」

「!?」

 長屋王の指差す先には、氷の拘束が解けて自由になった悪龍が起き上がろうとしていた。

「クソ、まだなのか!?」

 膳夫王は震える足で立ち上がろうとした。

 その時、上半身を起こした悪龍が身体を伸ばし、素早く大刀を横に薙いだ。

 大刀が膳夫王に激突し、身体を宙に振り飛ばした。

「!?」

 無抵抗な膳夫王の身体は嵐の中枯葉のように空を舞い、塀の上を飛び越えて御殿の方へ行きそうになる。

 しかし、膳夫王の身体はまるで壁の上に透明な壁があるかのように中空で跳ね返ると、敷地の上に落ちた。

 膳夫王の攻撃で、悪龍にダメージを与えることができたのか、見た目では判別できない。

 嵐は止まない。

 相変わらず首から生えた蛇達は好き勝手に蠢き、首達は泣き叫び、笑っている。

 膜のような水の壁を作り、飛んでくる瓦礫や氷片を防いでいた長屋王は、動かない膳夫王を見てため息をついた。

「……やはりこの程度だったか。万全の状態でも勝てぬのに、あれだけ下道真備に力を削がれた状態で勝てようものか!詰めが甘かったな。大体、膳夫の力のみで何とかできる程度のお方なら、吾と氷高(元正天皇、天平七年の時点では太上天皇)でとっくに調伏できていた!」

 長屋王はそうつぶやきながら、膳夫王の傍に落ちていた剣を拾いに行く。

「相変わらず叔父様には調子を狂わされるな。せめて軽(文武天皇)のように涙を流しておれば、戦意も掻きたてられるというものだが、ああもケタケタ嬉しそうに笑われると……」

 長屋王は、体勢を立て直して大刀を振り上げた悪龍の前に進み出た。

「……次は吾の番だ。昨年の屈辱、今だ忘れてはおりません。次は吾がみましを殴りつける番だ!叔父様!!」

 長屋王はそう言って、剣の鋒を悪龍に向けた。


 天平六(七三四)年の春、厲鬼となり阿部内親王の命を奪おうとした長屋王達が、これまた厲鬼である皇子に撃退されて内裏を追われた。

 これは、春に皇子の居場所を探していた際、皇子という存在を知る上での参考にと玄昉から聞いた話だ。

 その場にいた僧行基の話によると、厲鬼は正気を保てず怨言を口にしながら彷徨っていたということだったが、今日見えた長屋王とその子息達はどうだ。

 幼い王二人は才があっても力は弱く、一人は瘴気塗れではあるが仙境だからこそ血肉ある人の姿をしているのであって、仙境の作宝楼を出れば魂魄のみの鬼となるはずだ。

 由利殿を攫った若い男も幼い王同様超常の才はさほどなく、長屋王によって特別に実体を与えられたのだろう。

 しかし、己を叩きのめした長屋王と長子の膳夫王ならば、皇子と全く同じように、実体を持ち自由に現世の日輪の下を歩くことができる。

「クソッ!」

 真備にしては珍しく悪態をついた。

 今、仕留めなければならなかった。

 あの二人ならば、その上残りの三人とも力を合わせれば、大君に危害を加えるどころか、大君の首を獲り国家を転覆させることが可能だ。

 主君に仕える臣として、いや、かつて人でないモノに極限の苦しみを味わわされた者として、あの黄丹の衣を着た謀反の意のあるモノを見逃すわけにはいかない。

 心は正しくある。

 しかしどこかが、どこかが真っ直ぐではなかった。

 詰めの甘さか、非情さが足りないのか?

「……真備はまた一人で突っ込んだのか!こんな戦い方では、命が幾つあっても足りんぞ!!」

 呆れ声で話すのは玄昉だ。

 しかし、声が今より若干若い。

 夢を見ているのか?

「毎回毎回無茶ばかり。全く、これから先、吾等がいなくなったらどうするつもりなのだ!こうやって傷を治せる者は数少ないのだぞ、吾のように!!」

 こんなこと、言われただろうか?

 五台山に行く旅の途中で、言われたような言われないような――

「大丈夫だよ玄昉。これからどこに行っても、真備を支えてくれる人がちゃんと集まってくるよ。これだけ一生懸命皆のために頑張ってくれるのだもの」

 あぁ、仲麻呂!

 仲麻呂の声が聞こえる。

 仲麻呂がいてくれさえすればよかったのに!

 仲麻呂の助言があれば、今だってこのような無様な姿を晒すことなどなかったのに!!

 何故己が唐に残ると言った!?

 何故吾と仲麻呂が分かたれる必要があったのだ!!

 何故そんな、「どこへ行っても人は集まってくる」などと他人事のように言う?

 吾には、仲麻呂がいてくれさえすればよかったのに――

 ガタガタン!!

「!?」

 突如物が壊れる大きな音がして、真備は地面に投げ出された。

 顔は焼け爛れていたが、辛うじて腕で目を庇ったので、何とか瞼を開けることができた。

「!」

 目の前には、今にも泣きそうな顔の葛木王がいた。

「今お運びします故、博士は裏から隣の宮へお逃げ下さい!氷棺が砕けてしまいました。兄は破れたのです!父様も……」

 ゴガン!ゴガン!!

 衝撃と振動があたりに響く。

 真備が首を動かして何とか上を見ると、悪龍が塀の向こうで見えない障壁を破壊すべく、折れた大刀を叩きつけている。

 真備は門から少し離れた、庭のような敷地に横たわっていた。

「……あれは、邪竜ナーガだ。そうか、勾陳とは、邪竜なのだ」

 焼け爛れてよく動かない唇で、そうつぶやいた。

 真備にも禍々しい霧の向こうの姿が見えていた。

「どうされました?」

 葛木王は心配そうな顔で真備の顔をのぞき込む。

「なるほど、これが典薬頭殿の仰っていた……しかし、仲麻呂の力では到底対抗できまい!分かっていて立ち向かったのだろう。恐ろしかったろうに……?待て、首が?」

 真備は、頭の代わりに首から生えている蛇達に気がついた。

「何故首がない?普段の皇子には首が……!!」

 蛇達の様子を凝視した真備はぎょっとした。

 蛇の中の一匹、濃い緑色をした蛇の頭と目が合った。

 そして信じられない話だが、その蛇はとても嬉しそうな顔をしたように見えた。

「!?気付かれたのか?」

 そして蛇は、突然鼻先から黄色い砂となって崩れ始めた。

「どういうことだ!!」

 真備は声にならない声で叫ぶ。

「え?どうされました博士?」

 その時勢いよく門扉が開かれ、背中に膳夫王を担いだ長屋王が現れた。

 髪も衣裳も乱れ、血で汚れている。

「何をしている葛木!早くここから逃げろ!!」

「い、今!今、母様の宮へ」

「違う!この作宝楼そのものから逃げろと言うのだ!悪龍はこの屋敷を真っ平らにするつもりだぞ!」

 叫ぶ長屋王の頭に黄色い砂が流れ落ちる。

「?……な!?」

 頭上を見た長屋王が慌てて門を潜って逃げてくる。

 悪龍は、最初は蛇が崩れ、次は上半身、そして下半身と全て砂となって崩れ落ちた。

 嵐は止んで晴れとなり、その代わりにすさまじい量の砂塵が舞う。

 砂塵は門を潜って真備達の所にまで勢いよく吹き込んだ。

「わあっぅ!!……うぷ!!」

 葛木王は真備の頭を抱え込み、砂から守る。

 砂嵐はやがて収まり、砂塵自体も幻のようにどこかに消えてしまった。

 真備はなんとか体を起こして門の外を見た。

「!!」

 厲鬼の姿をした皇子が、全裸で地面にうつ伏せに倒れていた。

 ピクリとも動かない。

「……はぁ、力尽きたか。今回は早かったな。いつもこうだったろうか?ずいぶん昔のことに思えて思い出せない……!?待て、膳夫!」

 長屋王に担がれていた膳夫王は、突き放すように長屋王から離れると、皇子に向かって一直線に走った。

 走りながら手の中に氷の剣を作り出す。

「この時、この時を待っていた!!」

 膳夫王は皇子の所に駆け寄り、剣を振り上げた。

「汝が命!吾が潰す!!」

「皇子!」

 真備は叫びたかったが、大きく口を開けることができず、つぶやくことしかできなかった。

 その時、皇子の身体がビクッと波打った。

 次の瞬間、金色の驥尾がしゅるんと膳夫王の足に絡みつく。

 そして、思いきり投げ飛ばした。

「!!う、わあぁぁああ!!」

 膳夫王の身体は宙に舞い、遠くの地面に激突した。

「……ん?何だかちびっこいのがちょろちょろしたようだが、気のせいか?」

 皇子はそう言って身を起こす。

「!!……ちびっこいとか……言うな!」

 膳夫王はそう反論するとばったり倒れた。

「それより真備の声がしたような……」

 皇子は大きく伸びをすると、辺りを見回す。

「……!!ふぉわっ!!」

 皇子は門の向こうに真備の姿を見つけると、全速力で駆け寄った。

「ま、まままま真備!?真備ではないか!!心配したのだぞ!急にどこかに行ってしまうし、そうだ!汝の庭に血溜まりがってうおおおおぉぉおお!!瀕死の大怪我ではないか!!い、いいい今治してやるからなぁあ!!」

 真備の負傷に気がついた皇子は、慌てて真備に向かって両手をかざした。

 バチバチと薄緑色の火花が真備の体を覆う。

「……真備を支えてくれる人がちゃんと集まってくるよ」

 眩しい光の中で、真備は仲麻呂の言葉を思い出した。

「このお方がそうなのか?まさか……」

 真備が逡巡しているうちに、見える所の焼け爛れた皮膚は、あっという間にすべて元通りに治った。

 真備は起き上がって胡坐をかくと、両手を握ったり開いたりした。

 痛みはなかった。

「ありがとうございます。今回も、ご迷惑をお掛けすることになって……!?」

「ふぅ――まったく、しぬかとおもったぞ!」

「……皇子」

「きのうもいっただろう、われのいないとおいところでしんでくれるなと!こんかいはみつけられたからいいものの、そうでなければておくれになるところだったぞ!!」

「皇子」

「ん?なんだ?かんしゃのほうようか!?」

「皇子、小さくなってます」

「え!?」

 皇子は己の下半身を見た。

「……おぅ!!……さきほどちゃんとなおしたはずなのだが、しっぱいしたのかな……まきびはすでにしっているとおもうが、われのものはこんなものではないぞ!みながよろこぶうまなみの」

「皇子。全部小さくなってます」

「なん……だと!?」

 皇子の身体は、幼児並みに小さく縮んでいた。

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