十三
門の外での喧騒は全く聞こえない。
二人の王がいた時は侍女や資人の姿があったが、二人が門を出た途端に誰もいなくなってしまった。
「夢、かな……これ……」
一人残された由利は、今日吾が身に起きたことが目まぐるしすぎて、目を回して横座りしていたが、
グゥー
と、お腹の音が鳴ってしまった。
夏のように日は高いが、もうそろそろ夕餉の時間のはずだ。
由利は辺りを見回して人影がないことを確認すると、犬のように顔を粔籹米に近づけて、クンクン嗅いだ。
「……!!え、ええ匂いがするぅー!!」
京師から離れた里に住む庶人には滅多に嗅ぐことができない馨しい蜜の香りに、由利は顔がとろけ、涎が垂れた。
「!!」
慌てて袖で口を拭う。
「……!大変!よ、汚してしもうた!!」
今度は袖の汚れを落とそうと布を叩いてバタバタした。
「……い……」
「!?」
突然、どこからか微かに人の声がした。
人がいるとは思っていなかった由利は、慌ててあたりを見回す。
「……あつ……い……」
由利の座っている廂の隣、暗い母屋の中から声が聞こえた。
「!!」
由利は恐る恐る中を覗き込む。
中には、暗い中よりなお暗い瘴気を纏った塊がいた。
よく見ると、鈎取王と同じように人のカタチをしている。
由利には、その人は床に這いつくばり、長い髪を振り乱してもがいているように見えた。
「……水……水を、おくれ……」
手を伸ばし、しわがれた女性の声で呻く。
「……」
「……熱い、苦しい!水……水……持って来……ゆりぃ――!!」
女性の声が、母の声に重なる。
「!!母ぉ!!」
山中に置き去りにしてしまった、死んだ母の姿がフラッシュバックし、絶叫した。
家族が知らない病に侵されたため、里を出ざるを得なかった由利達は、皆治るまで他の人に病をうつさぬよう山に隠れているつもりだった。
しかし、病に罹って回復した者は由利だけで、家族は次々と死んでいく。
最後に残った母は、由利が高熱に苦しむ母のため、川へ行って水を汲みに行った間に命を落としてしまったのだった。
「熱い……寒い……苦し……み、ず……」
床の上でもがく女性は、胸のあたりを掻きむしって呻く。
「!!……この、人も。死にそう!?」
由利は我に返ると、
「今!今、水、持ってくる、ううん、きます!!」
女性に向かってそう声を掛け、廂に駆け出た。
裙をたくし上げてバタバタと廂を走る。
「!!」
角を曲がってすぐの所に、先程の侍女達が座って控えていた。
「あの!!水!!熱くて寒くて苦しいって、そこの人、ううん、そこのお方が!!」
由利は駆け寄って説明するが、侍女達は由利の顔を見るどころか、眉一つ動かさない。
「お願い!お願いします!!死にそう、なん、です!!」
由利は侍女の一人の身体を揺すって叫ぶように話しかけるが、反応はなかった。
「早うせんとあ、あの人し、死んでしま……!! もう嫌や!目の前で人が死ぬんは!!」
由利は立ち上がると、廂の欄干から身を乗り出して、
「誰か!誰かおりませんか!?水を!!水を下さい!!」
と、敷地中に響き渡る大きな声で叫んだ。
「弟の鈎取は既に把握していたぞ!兄である
青年は葛木王に向かって叱責した。
ややつり目の容姿は端麗、肌はぬけるように白い。
身長は真備よりも低く、華奢な体を少しでも大きく見せようとしているのか、顎を上げ、胸を張って立っていた。
頭には白い木綿の抹額を巻いている。
そして、真備と同じ六合靴を履き、白い袴に黄丹の袍を纏っていた。
「か、
「無論だ!大事の前にこう騒ぐとは。それにこの有様!汝等は使いの一つもろくにできないのか、無能共め!」
葛木王が膳夫と呼んだ青年は毒づいた。
「大事?」
真備は二人のやり取りを見ながら、素早く全ての戒指を抜き取り、革袋にしまった。
代わりに手巾を取り出し、剣の柄に巻き付ける。
万物を凍らせる術を使う者に対して、金属を肌に直接身につけることが危険であることを、真備は経験上理解していた。
「邪魔だ、二人と共に下がれ!あの
「は!はい!只今!!」
葛木王は両腕に二人を抱え上げると、慌てて開いた門まで駆ける。
葛木王の様子を目で追っていた瑤光は地中に沈む。
葛木王が門を潜ると同時に、敷地内の地面はすべて氷に覆われた。
「東宮である吾を見下ろすとは不敬にも程がある!口を慎め!
「……不敬?平伏?不敬なのは
真備は変わらず冷徹な表情で答えた。
「吾が東宮だ!!」
膳夫王は張った氷を割らんばかりの大声で怒鳴った。
「再び謀反の罪を侵すか。平伏すべきは汝の方だな」
「ふ、ふざけるな!!吾は誰にも平伏などしない!!汝を今すぐ地に這いつくばらせてやる!!」
膳夫王は真備に向かって指を差して叫んだ。
「!」
真備には、膳夫王の指先が微かに光ったように見えた。
咄嗟に懐から呪符木簡を取り出す。
キンッ!
「くっ!?」
木簡に書かれた術を発動させる直前で、木簡が氷漬けになる。
真備は素早く木簡を投げ捨て、辛うじて手ごと凍りつく事態を回避した。
「写し身の術は使わせんぞ!」
不敵に笑った膳夫王が真備のいる方に右腕を伸ばして手を広げると、掌の前にパキパキと音を立てて氷が生まれ、横に細長く伸びていく。
氷はあっという間に七色に煌めく剣の形を為すと、膳夫王は剣の柄をグッと握りしめた。
次の瞬間、普通の人ではあり得ない俊敏な動きで屯所に駆け寄り、屋根の上に飛びあがった。
足を置くと同時に、膳夫王の足元から扇状に屋根が凍っていく。
「速い!」
驚く真備に向かって素早く剣を横に薙ぐ。
真備の袍の前身頃が切り裂かれ、懐に押し込んでいた呪符木簡や人形がバラバラと屋根の上に落ちる。
「!?仲麻呂の衣がまた!」
真備が気を取られた一瞬の隙をついて、氷の剣の鋒が革袋に触れる。
パキパキ、と革袋が凍り付いた。
「!?」
「これで符術は使えまい!!」
ニンマリ笑った膳夫王が、好機とばかりに思い切り氷の剣を振り下ろす。
ガキン!!
真備は平然と手に持った剣で氷の剣を受け止めた。
同時に、指を差そうとする膳夫王の左手首を左手で掴んで止める。
そして、握り潰さん限りに力を籠めた。
「人を害する
「!!吾をモノだと!?」
膳夫王は必死にもがくが、振りほどくことができない。
骨がミシミシと音を立てる。
「ぐうっ!!」
痛みに耐えかねた涙目の膳夫王は、右膝で真備の左臑を思い切り蹴った。
「うぐっ!!」
思わず掴んだ手を緩めた真備の腹に向かって、渾身の力で蹴りを入れる。
「!」
突き飛ばされてバランスを崩した真備は、屋根の上を滑り落ちた。
「ハハッ!そのまま地に這いつくばるがいい!!」
しかし、真備は猫のようにクルリと体の向きを変えて、問題なく着地した。
膳夫王は不機嫌な顔で舌打ちし、
「フン、だが汝の術は封じた!もう地面から
そう言って剣の鋒を真備に向けた。
真備は膳夫王と同じ素早さで、氷に覆われた地面を難なく走って距離を取る。
「ハッ!走った位で吾が攻撃から逃げられるものか!」
膳夫王が鼻で笑うと、鋒が微かに光った。
「来る!」
真備は急停止すると、素早く六合靴の筒部分に押し込んでいた呪符を一枚取り出し、
「転」
と言って前に投げた。
バキバキバキ!
真備の眼前で火花が散り、小さな石礫が現れる。
石礫は一瞬にして岩塊となり、猛スピードで膳夫王に向かって飛んでいった。
昨日真備にかけられた咒文反転の術だ。
岩塊は大きな音を立てて、屯所の建物ごと膳夫王を押し潰した。
真備は素早く周囲を確認したが、地面を覆う氷は溶けない。
「……まだ生きているな」
真備は瓦礫に向かって剣を振ると、刀身から鎗の穂先が次々と頭を出し、瓦礫に向かって飛んでいく。
「ガハッ!!」
額から血を流し衣に血を滲ませて、瓦礫を押しのけ立ち上がったばかりの膳夫王に、穂先が当たった。
膳夫王は当たった衝撃で倒れそうになるが、足を踏ん張って何とか耐えた。
「……何故だ!?地面は封じたはず!!」
悔し涙を流し憎々しげな顔で真備を睨む。
真備は膳夫王に向かって駆け寄りながら、剣を振り上げた。
「吾に
膳夫王も瓦礫の山から飛び出して、素早く剣を構える。
真備の持つ剣が白く光った。
「!?」
真備の剣は受け止めた氷の剣の刀身をスパッと斬り飛ばした。
カン、カン、と音を立てて刀身が凍った地面の上に落ち、回転しながら滑っていく。
「!!……あり得ん!今までこんなことは……!?」
バシィッ!
驚愕する膳夫王の顔に、真備は回し蹴りを喰らわせた。
靴裏には、金属製の鋲のような突起が滑り止めとしてびっしりくっついている。
「ガッ!!」
膳夫王は、頭から氷面に叩きつけられた。
「く……そが……どい……つも此奴も、吾を愚弄しおってぇぇぇええ!!」
なんとか起き上がろうともがく膳夫王の姿は、地面に這いつくばり、真備の言葉の通り平伏しているように見えた。
真備は剣を振り上げる。
「!!……ここでは、死ねん!まだぁ!!」
顔を腫れ上がらせた膳夫王は、真備の足首を掴んだ。
掴んだ手が一瞬光る。
「!」
足首から爪先と胴体に向かって、パキパキと氷が覆い始めた。
「終わりだ。次に行く」
真備が剣を振り下ろそうとした、その時。
ビシッ!
真備の足元、氷の下の地面に亀裂が入った
「!?マズい!!」
亀裂を見て驚愕したのは膳夫王の方だった。
思わず手を離し、亀裂から距離を取ろうと起き上がった。
「!?これは!」
真備が膳夫王の反応に気づき、距離を取ろうとした瞬間、亀裂から水が噴き出した。
水の量は瞬時に増し、幅二メートルはある水の柱が中天まで噴き上がる。
「グアァッ!!」
真備は真上に飛ばされた上、落ちたところを噴き上げる水の柱に再び弾かれて塀に激突した。
膳夫王は柱の直撃は避けたものの、落ちてくる柱の水を被り、
「熱い!!熱、熱いぃー!!」
と、のたうち回った。
噴き上がる水は熱水だ。
水行を操る鬼道の中でも高い攻撃力を持つ大技、間欠泉の術だった。
熱水はまだ収まらず、二人の上に降りかかる。
膳夫王は転がって逃げ回り、真備は熱水から少しでも身を守るため、間欠泉に背を向け、塀に貼り付くように身体を丸めている。
「……あ、兄様……博士ぇ!」
門の内から恐る恐る外の様子をのぞいた葛木王が驚いて叫ぶ。
しかし、門の外に出ようとした葛木王の腕を大きな手が掴んで止めた。
「
「父様!」
振り返った葛木王の前には、たれ目で肥満気味の中年の男が立っていた。
宝石藍色を基調にした、小冠に飾りの壁をつけた上衣下裳、舃といったいで立ち。
彼こそが作宝楼の主、長屋王だった。
膳夫王のような戦に向いた装束とは言い難い。
しかし、長屋王は平然と門の外に一歩足を踏み出した。
すると、噴き上がる間欠泉の水の量が減り、あっという間に収まる。
亀裂も塞がり、地面は元の姿に戻った。
長屋王は熱水で氷が溶けた地面に転がる真備の剣を手に取り、しげしげと眺める。
「……なるほど。これは菖蒲剣だ。出来合いの氷柱程度では防ぎきれまい」
「菖蒲の剣……ですか?」
葛木王が、興味津々といった顔で門から少しだけ身を乗り出し、長屋王に話しかけた。
「中原では古来より、剣の形に似た菖蒲の葉には魔を祓う力があるとされている。この剣はそれにあやかって作られた法器(道教のホーリーウェポン)だ。人ならざる
そう説明しながら、膳夫王の下へやってくる。
長屋王は懐から紙の呪符を一枚取り出すと、傷の痛みで息も絶え絶えの膳夫王の頭の上に置いた。
呪符がパンっと一瞬虹色の光を放って消えた。
荒かった膳夫王の息が穏やかになる。
すると、傷が癒えた膳夫王は跳ねるように起き上がった。
そして、まだ伏せったままの真備の所へ向かうと、その背中を思いきり蹴り始めた。
「クソが!!よくも、よくも!!」
「……見苦しい真似はやめろ、膳夫」
「父様ァ!!この男は卑しい下人の分際で大君が如く吾を見下し、平伏しろと抜かしたのです!!この恥辱を晴らさなければ吾の気が済みません!!」
「当然の対応だ。吾等は厲鬼、もはや人ではないのだからな」
「……だからこそ!だからこそ腹立たしいのです、父様!!吾等は、吾等は皇嗣、いえ、大君になるべき存在であったのに!!」
歪に顔を歪める膳夫王は、そう言って真備を蹴り続ける。
「止めて……兄様、止めて下さい!!」
「
「!」
膳夫王は、止めようと門から飛び出した葛木王を睨みつけてけん制した。
「ここまで自制が効かんとは……皮肉だな。長子がこれ程使い物にならないことを、死んでから知ることになるとは!」
真備を蹴り続ける膳夫王を見て、長屋王はため息をついて言った。
「父様は吾のやり方に賛同して下さったからこそ、術で打ち負かして下さったのでしょう?吾はそう判断しましたよ」
膳夫王はねじけた笑顔を見せた。
その時、丸めた背中を蹴られるがままだった真備が、頭を動かして膳夫王を見た。
目のあたりに目立った怪我はないが、頬の部分は庇いきれなかったのか熱水を浴びて焼け爛れている。
その焼け爛れた部分から、鎗の穂先が頭を出した。
ドスッ!
膳夫王の腹に穂先が突き刺さった。
「ゥグアッ!!」
「!」
「兄様!……博士!?」
真備はぐったりして動かなくなる。
穂先はすぐに砕け散った。
「こ……この、なぜ、なぜこのような卑しい者にまで汚辱を受けなければならないのだ!!吾が!!吾等が!!一体何をしたというのだ!!何を!!」
怒りで白い顔を赤黒くした膳夫王はそう絶叫すると、長屋王に向かって手を差し出した。
「……父様、剣を!!」
「何?」
「もういいでしょう!?この後大事が済んだとして、この下人が吾等の言う通り動くとは思えません!!これは打ち捨て、新しい手立てを考えることに致します!!」
「剣でどうする?」
「吾が手で!!斬刑に処します!!」
ゴゴゥン!
「!?」
「!!」
膳夫王が叫んだ瞬間、衝撃と共に地面が大きく揺れた。
「地、地震!?仙境なのに、何故!!」
葛木王が門柱にしがみつき、動揺して叫ぶ。
「地震ではない。予測通りだな……膳夫、下道真備を封じろ」
「父様!!ですから」
「
長屋王は膳夫王を睨みつけた。
「ヒッ!!」
強大な
「やれ!剣はその後渡す。今、吾等が戦うべきはあれだ!!」
長屋王は剣で空を指した。
「いつの間に!?」
空を見た葛木王が驚愕する。
その鋒の向こうには、真備邸に現れたどす黒く禍々しい雲の塊が、嵐を連れて浮かんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます