十二

 不思議なことに、辺りは昼のように明るく、青空が広がっていた。

 訳語田宮のように広大な園池もなく狭い敷地ではあったが、隅には松や柳などの木々が植えられ、中央には訳語田宮の客殿のように廂(屋根付きテラス)が付けられた、横長で高床の御殿が建てられている。

 その場所もまた、高貴な者のみが立ち入ることのできる場所だった。

 三つ横に並んだ扉はすべて開け放たれているものの、母屋の中は日の光が入らないのか真っ暗だ。

 その真ん中の扉の前、廂の真ん中に、黒い霧の塊が竜巻のように渦を巻いて留まっている。

 よく見ると、塊は五歳児が座り込んだ位の大きさだ。

 幼子の身体に、ドス黒い瘴気が纏わりついているのだった。

 瘴気を纏った幼子の前で、木製の独楽が一つ勢いよく回っていた。

 幼子は、先に細く裂いた布切れが何枚も結びつけられた枝を握っている。

 枝を振ってしなる布を独楽の側面に叩きつけ、独楽を回す。

 ぶちゴマと呼ばれる、現代では珍しくなった独楽だ。

「……う……」

 苦しそうな呻き声が微かに聞こえ、幼子の手から枝が板間に落ちた。

 その場にうずくまり、苦しそうに肩で息をしている。

「鈎取お待たせ!」

「!」

 幼子が体を起こす。

 艶やかな黒髪を角髪みずらに結った少年が、左の扉からたれ目で人の良さそうな顔を出し、幼子に向かって声を掛けた。

「さぁ、郎女殿」

「!?」

 綾衣を朱華色に染めた盤領袍を着た少年に手を引かれ、廂に現れたのは美しく着飾った由利だった。

 顔には化粧を施し、双髻そうけい(頭の上に髻が二つある髪型)に結い上げた髪には金細工の飾りをつけている。

 袖の長い左伊多津万色さいたづまいろ(濃い緑色)の衣に桃花色の背子からぎぬ(袖のない短い上衣)、藤黄とうおう(若干濃い黄色)のに左伊多津万色の紕帯そえひも(縁取りをした帯)を締め、白地に藤色の倭文織しずおり(滲んだ縞柄の織物)の領巾ひれを肩にかけていた。

 京師から離れた里に生まれ育った由利にとって、女官の朝服など見たことも聞いたこともなかった。

 しかし、己には過ぎる高価な品を身につけていることは把握できたのか、動きはカクカクと非常にぎこちなかった。

「どうだい、吾の術は!郎女殿がまるで采女のようだろう?」

 少年は幼子に向かって自慢げに胸を張った。

「!」

 鈎取と呼ばれた幼子は、瘴気の奥から赤黒い光を二つ灯らせ、しばらく由利を見ていた。

「……う……美しくなったな……先程と全然違……み、見違えたじゃないか!」

 幼い男の子の声で呟く。

 しかし、

「……けっ!!采女のようだとか抜かしても、どうせ宮から一歩出れば元通りのまやかしじゃねぇか!見た目だけ取り繕いやがって、どうせなら襤褸ぼろを本物の綾衣に変える位やってみろ!!」

 と、少年に向かって毒づいた。

 鈎取王かぎとりおうは何が気に入らないのか、枝を手に取ってバシバシと独楽を叩く。

 独楽は転がらず、叩かれた衝撃でダンダンと板間の上を跳ねた。

「おい、いまし、独楽はできるか?」

「いつも遊んでやってるじゃないか」

なれじゃねぇよ葛木ぃ!そっちの女の方だ!」

「あ……」

 枝先で指された由利は、緊張で固まりしばらく返事が出来ずにいたが、なんとか首を縦に振った。

「!!そ、そうなのか!よし。吾の相手しろ」

「はぁあ!?郎女殿は大事な客人なんだ、そんな侍女まかたちみたいな扱いできないよ!」

 葛木と呼ばれた少年は目を剥いて驚いた。

「博士、いや、大学助殿がいらっしゃるまで心を込めて歓待せねば。誰か!菓子を!」

 葛木王かつらぎおうは階下に向かって声を掛けた。

 すると、すぐに采女のように華やかな衣裳を纏った侍女達がやってきて、白地に紺と紅の花の文様が美しい花氈(文様をはめ込んだ毛氈のこと)を板間の上に引いた。

「うわー……」

 由利は初めて見る花氈の美しさに目をみはる。

「どうぞお座りくださいませ、郎女殿」

 葛木王に促され、由利は恐る恐る花氈の上に座った。

 由利の前に、先程とは違う侍女が高坏を置く。

 高坏には、粔籹米おこしこめ(米を煎って蜜と和え固めた菓子、現在のおこし)が数個、山になって盛られていた。

「遠慮するな、大したもんじゃない」

 鈎取王は、何か分からず警戒して粔籹米を観察する由利を促す。

「そうだ!郎女殿なら、もっといろいろな菓子についてもご存じなのでは?」

 葛木王はそう言って由利の隣に座った。

「え?」

「博士から、唐のお話を沢山お聞きになられたのでは?是非、吾にも教えてください!」

 葛木王はニコニコして、期待のこもった眼差しを由利に向けている。

「え?お……話?」

 由利は何の話をされているのか全く分からず、目を点にした。

「唐の国の人々の暮らしとか、風景とか、食べ物とか!唐の山は不二の山より高いというのは本当ですか?黄河をご覧になったことは?あぁ、いや、もう色々お聞きしたいことが沢山あるのに、質問がまだまとまらない~~!」

「落ち着け葛木ぃ!此奴は何とかの助じゃないんだぞ!!」

 鈎取王が嬉しそうに頭を抱える兄王をたしなめた。

「あぁ、そうだった!」

「……お見えになりました」

 葛木王が照れ笑いを見せたその時、侍女の一人が葛木王に声を掛けた。

「お!来たのか、何とかの助」

「何とかじゃない、大学助殿!……郎女殿、しばしお待ちください。今すぐお連れしますから、お話は後でたっぷり聞かせて下さい!」

 葛木王と鈎取王は立ち上がると、階段を降りていく。

 しかし、鈎取王は足を止めると由利の所まで戻ってきた。

「寝所にいらっしゃる母様のお相手をしてくれ」

「かぁ、様?」

「独楽でも、ノスケの話でも何でもいい。そばに居てくれると助かる」

 鈎取王はそう言って、由利に枝を手渡した。

「ノスケじゃない、大学助殿!」

 二人の王は階下で用意された沓を履くと、足取り軽く敷地を横切り、資人達が開けた門を潜って出ていった。


 真備が門を潜ると、掘立柱塀に囲まれた、広い前庭のような敷地が左に広がっていた。

 目の前の塀沿いに棟門が二つあり、手前にある門の方が若干大きい。

 玉石を敷いた道が正門とそれぞれの門を結んでおり、門のそばには屯所のような役割を果たす建物がある。

 反対の右側に目を向けると、小路の向こうに木立が見えた。

 そして、この邸宅の象徴ともいうべき楼閣。

 この邸宅こそ、真備が『作宝楼』と呼んだ長屋王の仙境だった。

 真備が一歩足を踏み出すと、奥の方の門が開いた。

「――心が真っ直ぐ正しくあれば、恐れるものは何もない。行くぞ!」

 険しかった真備の表情が、ますます険しく酷薄なものに変わった。

 門を出た二人の王は、真備の方に向かって駆け寄る。

「お待ちしておりま――」

 真備は黙って手に持っていた物を投げた。

 ドスッ!

「え?……ぃ……ひ、ひいぃ――――!!く、桑田の兄様!!」

 葛木王が絶叫する。

 急停止した二人の王の足元に転がったのは、兄王である桑田王の顎のない頭部だった。

 顎がないので意思の疎通はできないが意識は断たれていないのか、桑田王は血の涙を流し、懇願するような眼で二人を見た。

 涙目の葛木王は、慌てて桑田王の頭を抱きかかえ、

「な……な……何故です!何故このような仕打ちを!?吾等は何もしておりませんのに!!」

「何も?」

 真備は訊き返した。

「人ならざるモノが人を攫う。それのどこが「何もしていない」?」

 大学寮にいる時とは真逆の、冷え切った口調だ。

「違います!!攫ったわけではありません!郎女殿は今、吾等が宮で歓待を」

「ウオーン!」

 低い鳴き声が葛木王の言葉を遮った。

 そして、青白いモノが水中から上がるかのように地中から飛び出ると、葛木王を突き飛ばした。

「!?」

 青白いモノは続いて鈎取王に突進すると、鈎取王は後ろに飛ばされてしまった。

 すると、二人のいた場所の地面から、鎗の穂先がそれぞれ一条ずつ勢いよく飛び出した。

 空を切った穂先達は中空を舞ったが、すぐに向きを変え、二人の王に向かって飛んでいく。

「ウォウ!」

 青白いモノが吠えると、地面から拳大の石が二つ飛び出し、それぞれ穂先に激突した。

 石は粉々に砕け、穂先もカランカランと音を立てて地面に落ちて砕けた。

「え?何?何なの!?」

 状況を飲み込めない葛木王は、地面に倒れ込んだままキョロキョロした。

「下がれ愚鈍!巻き込まれるぞ!」

 出てきた門の前に戻った鈎取王が叫ぶ。

 葛木王は慌てて立ち上がると、兄の頭を抱えて走る。

 青白いモノは、真備と二人の王のちょうど中間の位置に立ちふさがった。

 それは大きな犬だった。

 身体は細く、鼻は長く、長い耳は垂れている。

 唐よりもまだ遠い西の国からもたらされた、サルーキという犬種だ。

 美しく輝く毛並みはまるで絹のようだったが、その色は犬にはあり得ない青白さだった。

「な!なんで?何で博士と戦うの?」

「気づかなかったのか!?ノスケは吾等を殺そうとしたんだぞ!!」

「吾等を!?あの優しい博士が?まさか!」

まし分からねぇのか!?この期に及んで!」

「え……どういう意味?」

 持っていた手巾で兄の頭の傷が痛まないよう包みながら、葛木王はキョトンとした顔で聞き返す。

「ケッ!とことん呆けた愚兄だぜ……もういい。行け、瑤光ヨーコー!これ以上吾等の宮を余所者に好き勝手させるな!」

 瑤光と呼ばれた犬は、真備に向かって低く唸る。

「!!待って鈎取!駄目だよ、博士に怪我させちゃ!」

「分かってる。無傷は無理だが、殺しゃしねぇよ。彼奴には絶対にアレをやってもらわなきゃならねぇからな。とにかく動きを止めて、話はその後だ。瑤光!!」

 瑤光はウオーンと鳴いて鈎取王の声に答えた。

「!!」

 真備の足元から砂が舞い上がり、たちまち周囲を砂混じりの竜巻が覆った。

「目が!前が、見えない……」

 真備は目に砂が入らないよう、両腕で目を庇う。

 瑤光は、まるで池に飛び込むかのように地面に飛び込むと、土の中に姿を消した。

「くっ!どこに……」

 真備は砂竜巻の中、佩いた剣を抜こうと柄を握った。

「!?」

 その時、先程と同じ大きさの石が、中空から真備に向かって勢いよく降り注いだ。

 ガッ!ゴッ!

 荒れ狂う風の音に混じって、真備に石が当たった音が響く。

「ガッ!!」

 砂竜巻の中の影は、その場に倒れた。

「やった!」

「博士!?」

 鈎取王と葛木王が同時に叫ぶ。

 しかし石の嵐は止まず、今度は手前の門のそばに建つ屯所に向かって降り注いだ。

「え?何で?博士はもう」

「見ろ、ノスケがおらんぞ!」

 鈎取は、真備がいた場所に向かって腕を伸ばす。

 砂竜巻がおさまると、そこに倒れているはずの真備の姿はなかった。

「え?え!?」

「上だ!屋根の上!!」

 真備は石が降り注ぐ屯所の屋根の上にいた。

「分身の術で逃げたのか!」

「博士って分身の術も使えるの!?何それすごい!!」

 悔しげに呻く鈎取王に、葛木王は顔を輝かせて言った。

 ボスッ!ゴッ!ガンッ!

 石は真備だけでなく屯所の屋根にも降り注ぎ、穴を開ける。

「くっ!!」

 攻撃を受けて額から血を流し、衣に血が滲む真備は耐えきれず、屋根の上から石の降らない地面に飛び降りた。

「!?」

 着地した真備の身体がバランスを崩してよろけた。

 足元の土が砂泥となり、両足がズブズブと砂の中に沈んでいく。

「しまっ……!!」

 その時、地中から瑤光が勢いよく飛び出し、砂泥から足を抜こうともたつく真備の喉元に噛みついた。

 どうとその場に倒れ込む。

「よくやった!そのまま咥えて離すな!」

「もうやめて!博士死んじゃうよ!!」

「葛木ぃ、なれの術でノスケを縛り上げろ!」

 鈎取王は嬉しそうな声で兄王に指示し、真備に向かって歩き出したその時。

「――ギャン!!」

 地面から勢いよく射出された槍の穂先が、何条も瑤光の身体に突き刺さった。

「!!」

「瑤光!!」

 瑤光は刺された衝撃で跳ねあがり、地面にどうと倒れ込んだ。

「嘘だろ、瑤光!!……しっかりしろ!!」

 鈎取王は動揺した声を上げ、瑤光の所へ走り出した。

「ワ……ウォゥ!」

 瑤光はなんとか首を上げ、鈎取王に向かって弱々しく吠えた。

「今抜いてや……!?」

 ドスッ

 鈎取王の足元から鎗の穂先が飛び出し、腹に突き刺さった。

「鈎取ぃ!!」

 葛木王が悲痛な叫び声をあげた。

 鈎取王は震える足で、しかし倒れることなく歩を進める。

「ここで……死ねるか……何度も、死んで……たまるもんか……」

 ドスッ

 もう一条、腹に刺さった。

「母様!」

 鈎取王はそう小さく叫ぶと、地面に突っ伏した。

「鈎取!!」

 葛木王は鈎取王に駆け寄ると、瘴気の消えない体を片手でなんとか抱え上げようとした。

 鈎取王に刺さった鎗の穂先が、パリパリと砕けて消える。

「に、げろ兄様達!次は、汝……」

「鈎取!」

 抱え上げられた鈎取王の腕が、だらんと落ちて地面についた。

「ウ、ウォウ!」

 瑤光が再び弱々しく吠えた。

「!?」

 瑤光に噛まれて倒れたはずの真備の姿は、そこになかった。

 葛木王は慌ててあたりを見回す。

「いつの間に!?」

 真備は、奥の方の門の前に立っていた。

 手には栻盤を持ち、その上には指南が置かれている。

「いけない!誰の何の願いも叶っていない今、郎女殿をお返しする訳には!!」

 葛木王は桑田王と鈎取王を地面に寝かせると、自分の懐を探った。

 懐から引き出したのは、紙製の人形の束だ。

 葛木王は人形の束を目の前に撒くと、人形はあっという間に挂甲けいこう(小さな板を紐で繋ぎ合わせた鎧)に兜を身につけた兵士に変化していく。

 弓を手にした兵士十人が、葛木王を守るようにして真備の前に立った。

「何故……何故吾等に温情をかけて下さらないのです、大学助殿!!学生のため、この国の将来のために命を懸けられる、慈愛に満ちた心の持ち主であるみましならば!吾等の話に耳を傾け、理解して下さると思っておりましたのに!!……そして……吾の願いも、叶えて下さると……どうか、どうか吾の話をお聞きください!!」

 葛木王は立ち上がって涙ながらに叫ぶ。

 しかし、真備は葛木王の方を振り向きもせず、栻盤と指南を革袋にしまっていた。

「!!言葉が届かないのか!?……しかたない!ここは武をもって止めるしか!」

 兵士達が矢をつがえる。

「!?」

 兵士全員が、一瞬にして細かく引き裂かれた。

 兵士達は元の人形に戻り、バラバラと地面に落ちる。

 何がどうなって兵士達が引き裂かれたのか、葛木王には全く見えなかった。

「え?」

 呆然として立ち尽くす葛木王の足元から、鎗の穂先が鋒を覗かせた。

 ガガッ!

「何っ!?」

 真備が振り向いた。

 地面から飛び出て葛木王の身体を貫くはずだった鎗の穂先が、地面から半分出た状態で止まっている。

 地面の上に氷が張り、一緒に凍り付いた穂先は身動きできなくなっていた。

 氷は穂先から真備に向かって扇状に広がり、敷地の地表を凍らせていく。

「!!」

 真備は抜剣すると素早く動いて、傍らに建つ屯所の屋根に飛び乗る。

 真備のいた門前は、足が離れた瞬間に凍り付いた。

「声が届かない?当然だろう。元から聞く耳など持ってはいないのだから」

 手前の大きい門が開く。

「あ……あ……兄様!!」

 葛木王が驚愕の声を上げる。

 門から現れたのは、皇子と同じ白い髪をなびかせた青年だった。

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