十一

 真備の目にまず飛び込んできたのは、見事な園池だった。

 度々勝手に酒席として使う宮城の庭園よりも広い。

 池は大海を模して作られたのか、緩やかに入り組んだみぎわの所々に不揃いに尖った石が立てられ、池の傍らには松など磯に生える木々が植えられている。

 池の向こうには、客殿らしき高床で廂を持つ建物が見える。

 また、客殿より少し小さな規模の建物が数棟、園池の三方を囲むように建てられていた。

 掘立柱塀で囲まれた敷地は一町(東京ドーム約一個分の広さ)か、それ以上の広大なものだ。

 内裏か、皇親または諸臣の屋敷か?

 下級官人の真備は当然のことながら内裏に足を踏み入れたことはないが、内裏に園地があると聞いたことがなかった。

 皇親か諸臣の屋敷ならば、この塀で囲まれた敷地だけが主の屋敷ではないだろう。

 他にも資人達が作業する場所や寝起きする場所、厩や蔵、畑なども含めれば全部で二町以上の広さであるに違いない。

 そう考えると、これだけの屋敷を構えることのできる人物は限られる。

 真備は塀の向こうを見た。

「どういうことだ!」

 京師ならば見えるはずの山々を見ることができない。

 その代わり自分の右手の方角に、見慣れない山が見える。

 だが、左手の方角は塀に遮られ山は見えない。

 京師ではないのか?

 左手の方の空は地に近い方がとき色(黄みがかった薄いピンク)に染まり、中天の瑠璃紺色(紫を帯びた深い青色)へ続くグラデーションが美しい。

 あたりは朱華色に染まり、まるで黄昏のようだ。

 そうだったろうか?

 確かに夕刻に近い時ではあったが、まだ日は沈んでいなかったはずだ。

 時間が進んでいるのか?

 本当に左手の方角は西なのか?

 もし西でないとすれば朝なのか?

 そもそもここは現世なのか――

 真備が顎髭をしごこうと手をあてたその時。

 ポッ、ポッ

 池の周囲の散策路に沿って、柔らかい明かりが灯っていく。

 誰もいないにもかかわらず、置かれていた灯明皿に火がついたのだ。

 ――誰もいない?

 そう言えば、人の気配が全くなかった。

「!?」

 池の前、真備の眼前に男の姿が浮かび上がった。

 金色の小冠を被り、白練と緑の色を使用した上衣下裳、腰には佩玉を下げ、せきのくつを履くという出で立ち。

 男は閉じていた眼を開くと両腕を広げ、

「よく来てくれた、吾妹子わぎもこよ」

 と優しく呼びかけた。

「!?」

 真備は目を剥いて驚く。

 古風な漢服を着て立っていたのは皇子だった。

 真備は素早く皇子に駆け寄ると、その股間のあたりに拳をあてた。

「夜は長い。今宵は二人で心ゆくm――!!!!!?」

 バシュッ!!

 話の途中で、何かが破裂するような音が響いた。

「◎▽×&◆♪――!!!???!!」

 皇子は何語にも聞き取れない叫び声をあげながらもんどり打って倒れると、地面を激しく転がり回った。

 小冠が外れて地面に落ちる。

 髻がほどけて広がった髪はみるみる白緑に染まり、頭から竜の角が二本生えた。

 問題なく着られるように工夫がされているのか、今回は布を裂くことなく腰の下のあたりから驥尾が伸びる。

 痛みの衝撃で変化が解けたのだ。

「ンーッ!!ンーッ!!」

 厲鬼の姿に戻った皇子は股間を押さえてゴロゴロ地面を転がっていたが、しばらくしてようやく停止した。

 息荒くうつ伏せに丸まっていたが、大きく息を吸い、顔を上げる。

「昨日の技ぁ!!枕吹き飛ばしたアレ!!」

 涙と洟でぐちゃぐちゃになった顔で叫んだ。

「治したのですか?」

 真備は平然として尋ねた。

「治さないでいられるか!!全部持っていかれたんだぞ!!股にあるものを、全部!!」

 皇子は話をしながらも、まだ荒い息を整えようと何度も深呼吸をしている。

「如何ですか、司馬遷の受けた苦しみは」

「このやり方じゃないでしょ宮刑はぁ!!」

「実に良いことです。正編以外の逸話まできちんと覚えておられて。で……」

 真備は酷薄な表情でそう言うと、袖で顔を拭き、ようやく立ち上がった皇子と間近に正対する。

 言葉選びはいつもと変わらず温かだが、語気は氷塊のように冷ややかだ。

「真備……今日は宿直の日ではなかったのか?帰りが早いじゃないか。やはり知らせが」

「吾は一昨日申し上げました。「これから慎んでくださればそれでよろしい」と」

「!?」

みましは「はい」と返事をなさったはずです。その舌の根が乾かぬうちに、しかもよりによって吾が妹を、その上邪な術を使って誑かすとは!」

「だからって宮刑はないじゃないか!」

「約束を果たせぬなら刑に処して然るべき!汝が人の姿を取っていたからまだこれだけに抑えたのです。その姿で現れたなら、胴体ごと吹き飛ばしておりました」

「んぅ!!」

 皇子は思わずのけぞった。

「怒っているのか真備……怒っているな。まぁ、吾が厲鬼の姿になると、いつもそんな顔をしているが」

「何故、妹を手にかけたのです?」

「!?まだ手にかけてはいない!手をつけようとしていたのだ。場合によっては手にかける可能性もあっギャアア!!」

 ドシイッ!

 真備は、素早く回り込んで皇子の尻を思い切り蹴り飛ばした。

「吾にとっては殺すも同じ!」

 皇子は反動で前に飛び、頭から地面に突っ込んだ。

「……っくぅ~!!……前ばかりでなく後ろまで駄目になっては、流石の吾も遊びようがないぞ……」

 ようやく起き上がって尻を擦る。

「遊ぶ?どういう意味か分かりませんが、やはり胴体ごと吹き飛ばすべきですね」

「早まるな!!すまん、反省している!!」

「では質問に正直にお答え頂きたい」

「正直に答えてこれだ」

「吾が妹を誑かして手をつけるとはどういう了見かと聞いているのです!」

「妹!?親子以上に離れているではないか」

「腹違いの妹に決まっているでしょう」

「腹違い!なるほど、ならばわからなくもない」

「話を逸らさないように!」

「むぅ……妹ならば手にかけることは決してない。これは確実だ」

「では、手をつけることは?」

「相手次第」

「!」

 真備は右の拳を固く握りしめた。

「いやいや待て!手をつけることもしない!約束する!!孔宣父に誓って!!」

 皇子は慌てて真備を両手で制した。

「安っぽい誓いに孔宣父を持ち出さないで下さい」

「な!ならば姉様に誓おう。姉様は吾にとって絶対的存在なのだ。アマテラスよりもな」

「どなたでもよろしいですが」

「そうか、良かった……実は講義の後、学生から真備に妻がいると聞いて」

「は?吾に妻が?」

「多分、なれの郎女(お嬢さん。奈良時代、女性の親族の名前は公表しなかった)を見て勘違いしたのだと思うが……それを聞いて、居ても立っても居られなくなって」

「遠慮などせず、吾に聞いて下さればよかったのに。まだ官衙に居りました」

「しかし、真備とてすべて話してくれるわけではないだろう?一昨日も家に入れてくれなかった訳だし」

「それは!その時も申し上げました通り、皇子のような高貴なお方を招き入れられるような家ではないと」

「そんなことは関係ない」

「しかし、吾は卑しい官位の者ですから」

「友垣の間に尊卑など関係ない」

「!」

「吾は真備の官位やかばねと友垣になった訳ではないからな。例え真備がどのような家に住んでいたとしても、決して軽蔑したり嫌悪したりなどしない……それよりも、隠し立てされて疑念を抱いたり心を乱されたりする方が辛い」

「……吾が事など、逐一報告する必要もないかと思いますが」

「真備!汝は己を軽く見過ぎだ。吾にとって真備とは、生きて吾のそばにいてくれる、宝珠のような存在なのだぞ」

「は!?……まぁ、そこまで仰るのでしたらお招き致しますが」

「それに、汝に妻ができるということは由々しき事態なのだ、吾にとって」

「は?」

「……やはり伝わらないか……」

 皇子は頭を押さえた。

「吾が汝に妹のことを知らせなかったため、家に押し掛けたことは分かりました。で、なぜ妹を誑かそうと思ったのです?」

「それは……久方ぶりに多くの若人と共にいたので……滾って」

「は?」

「吾、姉様が死んでからずっと一人だったから……一人寝に耐えられなくて。体が疼いて!」

「どういうことですか?」

「つまり!!真備が吾の相手をしてくれないから、郎女の身を危険に晒すことになるのだ!」

「!?……そうでしたか」

 真備はしばらく髭をしごいて考え込んだが、

「……承知しました。お相手致します」

「!?まことにぃ!!」

 皇子の顔がパアッと明るくなった。

「何でもお相手致しますし、お話致します。ですから、妹に手を出すことはやめて頂きたい」

「では、早速これからこの宮で!」

「それはなりません」

「な!?」

「これから夕餉の支度をせねば。あのお方は己のためだけに飯を作るということをなさらないのです。他にもやりたいこともありますし」

「やはりそうなるか……」

 皇子はガックリとうなだれた。

「明日の旬試の評価をつけ終わり次第、十五日田假(主に稲刈りのための休暇)を取ります。田假の頭五日間は故里へ帰る予定ですから、お相手するのはその後ということになります」

「な!?真備の故里!故里へ帰るのか!?」

「母がおりますので」

「故里見たい!吾も行っていいか?」

「構いませんよ。その代わり汝が不快な思いをなさったとしても、責任は負いかねます」

「良いのか!?それは楽しみだ!」

「理解して下さったのだろうか……」

 真備はため息をついた。

「……とにかく、絶対に妹に手を出さないで下さい!昨日命を助けて頂いたご恩があります。今日はこれで引き下がりますが、次はないですからね!」

「……承知した」

 皇子は口をとがらせて答えた。

「心から承服していないようですね……逢瀬を楽しむ汝はよろしいでしょうが、それに振り回される者もいること、どうか頭の隅に置いておいてください」

 真備は胡坐をかいて座り、座り込んだままの皇子に目線を合わせて説得した。

「振り回される者、とは?」

「楽しんだ結果、生まれてくる子のことですよ」

「!……そうだ、真備は庶子だと言っていたな。父に子と認めてもらえず苦労したと」

「その通りです。楽しむなとは言いませんが、できれば吾と同じような苦労をする子は無くしたいですね」

「……」

 皇子は神妙な顔をしてうつむいた。

「どうされました?」

「……思い返せば、多くの妃がいた父大王の子である吾も、真備と同じ立場なのだ。確かに吾は幸福ではなかった人生だったな。結局……」

 寂しそうな顔で微笑む。

「しかし!それは致し方ないことでは」

「真備の言う通りなのだ。無用な混乱を避けるため、子は成さないよう気をつけてはいたのだが、それでも確実だとは言い切れない。真備の言に従う」

「ご理解頂けましたか」

「あぁ。それに、今の吾には真備がいるしな!汝がこの宮へ来る日を楽しみにして待っていよう」

 そう言って、皇子は嬉しそうににっこり笑った。

「それは良かったです。では」

 皇子の言葉を聞いた真備は立ち上がり、踵を返して帰ろうとした。

「早い!もうちょっと話をしたっていいだろう!?夕餉ならこちらで用意して持っていかせるから!」

 皇子は慌てて真備の足にしがみついて引き止めた。

「お気遣いなく。急ぎますので」

 真備は力を込めて振り払うと、出てきた門を潜ってさっさと帰ってしまった。

「……無念だ。自慢の池を紹介したかったのに……」

 皇子は地面に座り込んだまま、残念そうにつぶやいた。

 泉水の水面に灯明の灯りが揺らめく。

 若い学生達を見て感じた昂りは、その根源を真備が根こそぎ磨り潰してしまったため、水面のように鎮まっていた。

「……ずっと滾ったままだったら、本気であの氏上の尻を襲っていたかもしれん。冷静になれて良かった。持つべきものは善き友垣だな……」

 皇子はしばらく庭を眺めて感慨にふけっていたが、

「あぁあ!!」

 叫び声と共に突然立ち上がった。

「言うことがあったじゃないか!瘟神が……真備に伝えないと!」

 皇子は後を追おうと門に向かいかけて立ち止まった。

「おっと、裳の中ドロドロなんだった……着替えねば」


 真備が門を出ると、そこは己が家だった。

 あたりはまだ明るく、目隠しに建てた柱塀の影が若干長く感じられる程度だ。

「宮?……そうか、あれは訳語田宮おさだのみや(大津皇子の居館)!敷地を丸ごと仙境(桃源郷のような異界、隠れ里)にして残したのだ。神仙でなければ不可能な技巧だぞ。やはり腕は完全に向こうが上回っている。典薬頭殿達は勾陳となった皇子をどうやって止めているのだ?……」

 真備は顎髭に手をやって考えこもうとしたが、

「いけない!」

 真備はいつものほわほわっとした顔に戻ると、慌てて主殿に向かった。

「由利殿、お待たせしました!先程の衣の件なのですが……!?」

 真備は、出入口の戸が開いたままであることに気づいた。

 中を覗こうとして慌ててやめると、オロオロして気配を探る。

「……いないようだ!」

 煮炊屋の戸を開け、その隣にある畑や井戸の中まで覗いたが、由利はいない。

 主殿を挟んで反対側にある自分の書庫の戸も開けてみるが、人の姿はなかった。

「ど、ど、どうしよう!外に出て行ってしまわれたのかな!?先程の件で傷つき、ここに居られないとお思いになったのだろうか?うわああ吾の戯け!アラガミのことを考えるといつも怖い顔をしているよ、と仲麻呂に忠告されていたのに!!」

 混乱した真備は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

「……はあっ!もうすぐ日が沈む。衛士の皆さんに気づかれたら……いや、もっと凶悪な者に目をつけられたら!大変だ!早く説得して、せめて今晩だけでも家に留まって頂かねば!」

 真備は慌てて書庫に入る。

 書庫の左半分は土間、右半分は板間という下級官人の家としては珍しい作りだ。

 土間には唐櫃がぎっしりと置かれ、板間には紙や木簡の典籍が収まった本棚がずらりと並んでいる。

 連子窓の前のほんの少し空いたスペースに几が置かれ、真備の書斎になっていた。

 几の横に置かれた包みを手に取り結び目を解くと、中から楊筥やないばこ(柳の細枝を編んで作った箱)を取り出し、蓋を開ける。

 中には、正方形の青銅の板と、同じく青銅製の小さな匙が入っていた。

 六壬神課という式占で使用する栻盤ちょくばんと指南だ。

 真備はこの道具を使うことで、非常に高い確率で目標の居場所を探知することができる。

 真備は板間の床に栻盤を置き、その上に指南を乗せようとした。

「下道朝臣真備ですね?」

「!?」

 真備が振り返ると、書庫の前に黄色の袍を身に纏った若い男が立っていた。

 皇子ではない。

 先程由利を連れ去った男だった。

いましの郎女は吾等が宮で預かっております。ご心配なく。今頃弟達が歓待……」

 真備は、男の姿を見た瞬間に全てを把握した。

 皇子によって妖厲阻止の結界が破られ、己が訳語田宮に出向いているほんの僅かの隙を狙ってこの『魔』に入られたのだ。

 そして、由利殿は攫われてしまった――

「ま、きび……ま、き、び」

「!!」

 真備の耳に、少女の声が聞こえてきた。

 聞こえるはずのない声だった。

「助けて!!助けて真吉備、真吉備、真吉備ぃいいいいいやあああああああああぎゅえっ!!」

 小さかった声は、リフレインされるたびに大きくなり、最後は絶叫となった。

「!!!?」

 真備は思わず目を瞑り両手で耳を塞ぐ。

 目を開ければ、姿まで見えそうだ。

 己は、己は同じ失態を繰り返したのだ。

 死ぬ思いをして唐へ行き、この国の誰もが持ちえない程の膨大な知識を抱え込んで帰ってきたにもかかわらず。

 道術の師だけでなく、鬼道の師である仲麻呂も舌を巻くほどの超常の才を開花させたにもかかわらず。

「何をやっていたのだ、吾は――!!!!」

 皇子に恨みはない。

 とにかく、とにかく己が腹立たしい。

 真備の顔は、今まで見せたことのない、仁王像の如き憤怒の相になっていた。

「……吾等の願いを聞き届けさえすれば、郎女は解放します。ご安し」

 ――ザンッ!!

 土間から環頭刀が一振り、勢いよく突き出た。

 真備は素早く土間に下りて刀の柄を握りしめると、目にも留まらぬ速さで男に駆け寄り、その首を刎ねた。

 ドッ!

 男の頭が、斬り口から血を撒き散らし地面に落ちる。

 同時に、男の首から下は煙のようにスウッと掻き消えてしまった。

「な!!何故だ!?吾は礼を失してはいないのに!!」

 首だけになった男は血を吐きながら叫んだ。

「吾はいましに何もしていない!!何故首を刎ねる必要があるのだ!吾はただ汝に事情を伝え宮へ導くだけの」

「喧しい」

 真備は無理矢理男の口に刀の刀身を咥えさせると、柄を持った右手を地面に固定し、左足で思い切り刀の棟(刃のない方)を踏みつけた。

「ガッ!!」

 切断された顎が地面に転がる。

ましから聞き出す必要は何一つない。ここで誅滅する」

 激情が消えて酷薄な表情となった真備は、男の額に鋒を当てる。

 そして、頭蓋を真っ二つにしようと刀を振り上げた。

 男は信じられないと言った体で目を見開き、血の涙を流している。

「……良いか、吾を二度も殺すようなことをしてくれるな!吾を、いや、吾等を救ってくれ!殺す以外の方法で!!」

「!!」

 麻呂邸での皇子の言葉を思い出し、真備の手が止まった。

「何故ここであの言葉を思い出す!!」

 真備は忌々しそうな顔で歯ぎしりした。

「……しかし……ここで殺すと穢れが撒き散らされて、この後住みづらくなるな」

 そうつぶやくと、持っていた刀がパキパキと砕けて消えた。

 真備は男の頭を残し、書庫に戻る。

 しばらくして、深碧色(中国ではダークブルーをさす)の大きめな袍に手甲、革帯と紫の緒、腰に大きい革袋をつけ、六合靴を履くといういつもの戦装束で現れた。

 両手の人差し指・中指・薬指には銀の戒指を嵌めている。

 そして腰には京師で普及している横刀ではなく、漢剣(両刃の片手剣)を佩いていた。

「皇子もそうだが、これもまた(奈良時代では幽霊のこと)であるはずなのに血肉を得ている。もしや尸解仙(一旦死んで後生き返った仙人)なのか?唐に行く前は全く気付けなかったが、この国にも真人しんじん(高位の仙人)はいるようだな」

 真備はそうつぶやくと、男のもとどりを無造作につかみ、門へ向かう。

 血の涙を流す男の眼は何か言いたそうに真備に向けられていたが、顎がないためそれを伝えることはできない。

 真備は懐を探って小さい斎串を二本取り出し、本柱の根元に向かって投げた。

「作宝楼」

「!!」

 男の眼が大きく見開かれた。

すべを手に入れた今、あの時と同じ失態を繰り返す訳にはいかない。由利殿は必ず取り戻す!」

 真備は大きく息を吸い込むと、険しい顔で門を潜った。


「まーきびー!……来ちゃった」

 褪せた朱華色の古風な左袷の袍といういつもの衣裳に着替えた皇子が、門から嬉しそうな顔を出した。

 犬のように機嫌よく驥尾を振りながら、

「真備ぃー、吾も真備の作った夕餉を食べたいな。一口だけでいいから……じゃなかった。真備の家に気になる妖厲が……って、あれ?」

 奥に細長い真備の敷地を歩き回り、煮炊屋の連子窓から中をのぞいてみたものの誰もいない。

「ん?変だな。竈に火の気がないということは、まだ夕餉作りには取り掛かってないということか?」

 隣の主殿の窓ものぞくが、人の姿は見当たらなかった。

「真備も郎女もいない……ということは、市か?日暮れにはもう少し時間があるから何か……ん?」

 皇子は書庫に向かおうとして、足が止まった。

 ――死の気配がする。

 相手を殺すことに対する強い覚悟と、己が殺されることへの強い恐怖。

 死を孕んだ強烈な思念の痕跡が二つも書庫の戸の前に残り、黒いつむじ風のように渦巻いている。

 そして、地面の血溜り。

「!!……誰かが、ここで殺された…えっ!?誰だ!……まさか!?」

 皇子は両手で自分の顔を覆った。

「ここで死ぬ人間は誰だ!他にいるか!?真備!!真備ぃー!!」

 大声で叫んだが、誰からの返答もない。

「……いましの術は、怪我は治せても病は治せん。しかも、この病は流行り病ではなく、身の内から湧いてくる病。己の命が尽きる時が来たことを、体が知らせているのだ。汝ではどうにもできん。受け入れよ」

「!?」

 いつの間にか、狭く薄暗い寝所にいた。

 目の前で皇子を諭しているのは、年老いて痩せ細り、筋骨隆々だった往時よりも小さくなった優婆塞、役小角だ。

 枯れ枝のようになっても、眼光の鋭さだけは変わりがなかった。

 小角はベッドに寝かされた人物の顔をのぞき込む。

 あぁ、小角、違う者であったと言ってくれ!

 顔を押さえていた十本の指が頬に食い込んだ。

 小角と共に恐る恐る確認する。

「ヒィッ!!」

 寝かされていたのは、姉大来皇女だった。

 彼女もまた痩せ細り、血の気が全くない顔は、誰が見ても死期が近いことは明白だ。

「な……何故だ!なぜ吾の大切な宝ばかり先に逝く!?母様も、姉様も逝ってしまった!!こんなにも早く!!他の者は生きながらえているというのに!彼奴も、彼奴も、彼奴も!!……あぁ真備!死んでくれるなと言ったのに……死なぬよう努力すると……なのに……」

 頬に食い込んだ指はいつの間にかみちみちと皮を引き裂き、肉に食い込んでいく。

 大来皇女も役小角もいなくなり、景色は元の真備邸に戻っていた。

「……嫌だ……認めぬ……大切……な……ド……コ……」

 突如皇子の首が黄色い砂と化し、ザアッという音を立てて崩れ落ちた。

 続けて体の肉も砂となって地面に流れ出て、着ていた衣がパサリと黄砂の上に被さった。

 残った骨が吸い上げられるように空へと昇っていく。

 衣の上にポツ、ポツ、と雨粒が落ちる。

 一天にわかに掻き曇り、雨が降り出した。

 弱い風が吹き出したかと思うと、すぐに強風となり、台風のような嵐となる。

 ゴオオオオ――

 そして厚い雲の下、皇子がいた場所の丁度真上に、もう一つどす黒く禍々しい雲の塊。

 その雲の奥で、赤い光が幾つも点滅していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る