八
翌日の午前中は平穏に過ぎた。
この日も真面目に講義を受けきった皇子は、終わった後も大学に残った。
寮内を見物するためだ。
明日が旬試(休みの前日に行われる学力テスト)ということもあり、大学内には多くの学生が残っていた。
講義終了後の大学は学生達のために日が暮れるまで開放されている。
講堂の几に向かい、次の旬試で出題されるだろう経文を読み、あるいは木簡に書写して暗記する者が多い。
しかし今日は晴れていることもあり、院内の往来の邪魔にならない場所で車座に座り、経の内容について議論したり、暗誦して互いに間違いがないか確認し合ったりする者も多く見られた。
屋外には他にも、書庫の蔵書を借りて読み耽る者や、これまた借りてきた琴を爪弾いて気分転換する者、運動不足解消と体力増強、そして官人になれば大君の前でその腕前を披露することになる
しかし、中には隅の方でこっそり独楽などの遊戯具で遊ぶ者がおり、かりうち(サイコロの代わりに専用の板を投げて駒を進める双六のこと、
「……瑞々しく溌剌な若人達を見ていると、枯れ果てていた心が潤うな!実に素晴らしい……身の方は実際に精を吸わないと潤わんが」
荷物の包みを抱えた皇子はそうつぶやいて、思い思いに青春の日々を楽しむ学生達の姿に目を細めた。
「……そうだ!吾も習学するか」
昨日入学したばかりの皇子が旬試を受けるのは来月、
しかし、生前同年代で集団生活を送るという経験をしたことがなかった皇子にとって、自習もまた興味深いものだった。
「試してみたい!大勢に囲まれた方が一人よりも理解が進むかどうか」
そう思い立った皇子は早速講義を受けている本寮の講堂へ向かったが、講堂は東も西も埋まってしまっていた。
皇子はがっかりした顔をしたが、
「……いや待て!空いている講堂があったはずだ」
自習する学生が少なかった講堂が一つあったことを思い出し、早速その場所へ向かった。
文章科は五年前に新設された学科で、院の建物も比較的新しかった。
廟堂の隣、本寮よりも少し離れた場所にあり、人の往来も少ないために静かで習学にはうってつけの場所だ。
「ん?」
文章院にやってきた皇子は、敷地の隅で壁に向かって座り込んでいる学生に気づいた。
「どうした
皇子が学生の背越しに地面を見ると、学生は地面に木簡や硯など一式を置いて、手本を見ながら字を書いていた。
「書の練習か。文章生?」
「まぁな。書博士がお帰りになる前に、字の悪い所を見てもらおうと思って……!あ、いや、思いまして」
文章生は皇子の顔を見て言い直した。
「地面の上では書きづらいだろう。講堂で書いてはどうだ?席はいくつも空いているぞ」
「いえ、あの……吾はいいんです」
周りを見ると、他にも地面に座り込んで字を書いている文章生が何人もいた。
「吾はその、
文章生はもじもじしながら答えた。
「しかし、文章院は汝等文章生が使う場所だろう?それに、そんな悪い姿勢で書博士に評価される字が書けるのか?」
「!……それは……でも、仕方ありません」
「そうか……」
皇子が黙ったので、文章生は再び書の練習に取り掛かろうとした。
「では吾が中の者に言って、汝等も利用できるように計らおう」
「えぇ!?でも後で……」
文章生は慌てて振り向き、困り顔で言い淀んだ。
「ん?報復が怖いのか?」
「!?いや、その!」
「心配するな。汝がやったなどとは言わないし、汝に報復するような輩は……吾が後で呪い殺そう」
「!!」
皇子はニヤリと笑って物騒なことを言うと、動揺を鎮めるようにオロオロする文章生の腕を叩き、講堂に向かった。
「礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓、か……あぁ」
大伴家持は手に持った木簡に書かれた歌を読みあげると、歌が書かれた木簡が何枚も散らばった文几に突っ伏した。
「吾が死んだ後も、これ位吾のこと想い続けてくれるような
「何を言ってるんだ。
隣の席で経文を暗記していた
家持と伯麻呂は講堂の中でも日が差す明るい席に陣取って自習をしていた。
二十名ほどが学ぶことができる講堂には、二人の他数人の学生が几に向かっているだけだった。
「彼奴がぁ?あの
顔を上げた家持は、まるでフレーメン反応をした馬のように歯をむき出しにして、さも嫌そうに呻いた。
「それよりちゃんと暗記しろよ。また旬試で落第したら、その大刀自殿にこっぴどく叱られるんだろ?」
「もう昨日叱られたわ!夜更けまでみっちりとぉー」
まともな顔に戻した家持の眼の下には大きなクマができている。
「いーよなぁ伯麻呂は。父様が嫌なこと全部引っ被ってくれるんだからさぁ。吾なんか」
「あーはいはい分かった分かった。自習中は静かにしよう」
伯麻呂は八つ当たりの矛先が自分に向かってくることを察知して、話を切り上げた。
家持はため息をつくと、再び手に持った木簡を眺め、
「……これが姉弟って言うのがなお切ない話なんだよなぁ。妹背(恋人)になれる関係だったら」
「なんだ習学してないじゃないか!だったら外の者に席を譲れ」
聞き慣れない声がして、家持は手に持っていた木簡を取り上げられた。
「!?何者だ!吾を大伴と知って……って……あぁあ!?」
いつの間にか家持の真ん前に胡坐をかいて座っていた皇子は、手に取った木簡の歌を一瞥すると、
「ふん……汝知ってるか?あの頃皇親の中でまともな歌が詠めたのは、志貴とあと数人だけだ。これは本人が詠んだものじゃない。後で歌の得意な誰かがご機嫌取りに詠んだのさ」
「わああああ!!」
「な!?……い、つの間に!!」
家持と伯麻呂は思わず座ったまま後ずさった。
皇子は眉を顰めて、
「喧しいな。講堂内では静かにするんだろう?……!おや、汝は昨日の!」
「昨日の?……ってうわぁ!!汝は昨日の!!」
「「……誰だっけ」」
二人は声をそろえて聞いた。
「し、知らないのか?!大伴氏の氏上、家持様だ。官人を目指すなら、将来公卿となるお方の名前位覚えておけ!」
家持の代わりに伯麻呂が強い口調で答えたが、多少腰が引けていた。
「氏上?……おぉ!そうだ、昨日そんなことを言っていたな。地面に顔面を打ちつけながら大泣き」
「おおっとぉう!!」
家持は慌てて皇子の言葉を遮った。
「……人がいる。その話はなしだ」
「何故なしなんだ?噂の一つ位広まっているだろう。あれだけ大声で」
「だから!!その、話は、な・し・だ!!」
流石に他の学生達が非難の眼を家持に向けた。
視線を感じた家持は、咳払いして座り直した。
「……吾は大伴家持。隣は大伴伯麻呂、吾の親戚筋にあたる。で、改めて汝の名をお聞かせ頂きたい」
「掃守大津だ。ところで池主とかいう学生はどうした?大学に来たのか?」
「あ……池主は約束通り講義を受けた。しかし、しばらく謹慎ということになったので、講義が終わり次第すぐ帰ったよ」
「昨日大学助と一緒にいた男だろう?池主が怪しいと言っていた」
「伯麻呂!」
家持は小声で話しかけた伯麻呂を制した。
「あまり刺激するな!相手がどんなに怪しくとも、吾等だけではどうにもできない。ここは用件だけ聞いて、すぐにお帰り頂いた方が得策だ」
「正直吾等は何もできないからな。池主と違って」
「汝と一緒にしないでくれ!吾は氏上なんだぞ、一応」
二人は皇子に背を向けて、小声で話す。
「聞こえてるぞ」
「んんんん!」
家持は再び皇子の方を向いた。
「で、吾に何の用が?まさか、昨日のことを理由に吾を脅しに?」
「おぉ!?そうだ、それもいいな!昨日のことを学生全員に広めて欲しくなければ、吾の言うことを聞いて貰おう」
「えっ!?」
「己で水を向けてどうするんだ!?」
伯麻呂は呆れ顔でため息をつく。
「そうだな……そう言えば汝、昨日尻を出すと言っていたな」
「!!それは笞刑を受けるという意味だ!」
「笞刑はいい。汝の尻を貸せ」
「はあぁぁぁあ!?」
「瑞々しい若人の姿を見ていたら我慢できなくなった。汝のでいいから使わせろ」
「!!!!!!」
顔の血の気が引いた家持は、慌てて立ち上がり近くの壁に背と尻をくっつけた。
「……冗談だぞ」
「本当ですね!!!?!!」
「そんなに動揺することないじゃないか!」
「冗談でも言うべきことじゃない!!!!」
「そうなのか?……あれ?」
皇子は首をかしげた。
「汝は遊び人らしくちゃんと理解できているようだな。吾の意図することが」
「遊び人じゃない!!だが理解はしている!!」
「おかしいな……真備博士にこの手の冗談を言っても全然反応がないのだが……今はこういうことは嗜まないのか?」
「!!……それはなかなか高尚な嗜みだとは思う。が、大学助は女が苦手で有名だから、そもそも房事に興味がないのでは」
伯麻呂が遠慮がちに答えた。
「そうかぁ、やはり真備の問題か……これは根気よく向かい合わないと駄目だな」
「!?まさか、本気で狙ってるのか?……大学助は初老のはずだが、童ではなく
伯麻呂が妙な所で感心する。
「本当に冗談なんだな!!」
「そうだ。だから騒ぐな、戻ってこい」
皇子が手招きすると、壁にへばりついていた家持は警戒しながらにじり寄ってきた。
「そう言えば、汝等己の
「え……?」
「氏に頼るなよ。汝を本気で潰そうとする者は、氏を名乗った程度で屈服などするものか。周りの学生には大目に見てもらえているのだと謙虚に思え」
「はぁ!?」
「真備博士は気概があると言って咎めなかったが、昨日の汝の行動、吾は下策だったと思う」
「!しかし、あの時はそうするしかないと!」
「気持ちは分かる。しかし、汝はあの時本当に何でもする気があったのか?死ねと言われれば死ねたか!?」
「!それは……」
「そこで怯むな!」
「!!」
「本当に死ぬ気にならなければ、本当に死ぬことになるぞ!それが氏上の気概ではないのか!?汝にとって池主という男は、命をかけて守るほどの男ではないのか!?」
「!!それは違う!吾にとって池主は本当に!」
「いいか氏上殿。自ら度量の大きさを見せれば、氏名をひけらかさずとも人はついてくる。だから、泣いたり這いつくばったり、逆に氏名を出して威圧したりせず、もっと穏やかに堂々としていろ」
「穏やかに……って言われても……」
「こんな感じでな」
皇子は自分の荷物を二人から少し離れた几の上に置くと、
「大伴の氏上殿が講堂を使ってよいと仰せだ!皆で爽俊なる氏上殿のご厚意に預かろうではないか!!」
と、扉から外に向かって大声で叫んだ。
「はぁ!?」
敷地の隅にいた文章生達がどっと堂内に入ってきた。
「ありがとうございます!」
文章生達は家持に礼を言いつつ席についていく。
中には文章生でない者も混じっているのか、堂内はあっという間に満席になった。
「自習する気がないのなら、家に帰れ。居座られるだけ迷惑だ」
「な!」
「……大刀自殿の顔を見たくないのなら、ここで習学するしかないぞ」
伯麻呂はそう言って、家持を諭す。
満員になった堂内は静謐さを失い、元々いた学生達は恨めしそうに家持を睨んだ。
「……もう、好きにしてくれ!」
家持は大きなため息をついて、自分の席に着く。
皇子も確保しておいた席に着くと、包みを解いて自習を始めようとしたが、
「おっと、あの子はちゃんと座れたか?」
と言って周りを見渡した。
「……あ」
出遅れたのか、話しかけた文章生は扉の所で立ち尽くしていた。
皇子は文章生の所へ向かうと、残念そうな顔で引き返そうとする文章生の手を取った。
「吾は明日旬試がない。復習でもしようと思って場所を取ったが、汝が使え」
「ですが……」
「かまわん、遠慮するな。本当に旬試はないのだ」
「ありがとうございます!感謝します!!」
皇子はニコニコして文章生を席まで導くと、自分は荷物をまとめて堂を出て行った。
「……になったとして、行けるならどこに行ってみたい?」
講堂を出た皇子は、ふと聞こえた人の声に足を止めた。
院の敷地に植えられた
三人共に身だしなみは清潔で乱れがない。
腰の革帯と革袋の装飾はどれも手の込んだデザインで、三人とも裕福な貴族の子息であることが一目でわかった。
「吾は赤壁かなぁ。いや、それとも函谷関?」
「吾、見るならやっぱり長安だなぁ。あ、でも洛陽も見てみたい。今はどうなっているんだろうね」
「吾は行きたいけど、やっぱり怖いなぁ。海を渡るとか……佐保の川を渡るのもちょっと怖いのに!」
「若子は怖がり過ぎ!」
皇子は彼等から少し離れた所で立ち止まり、笑みを浮かべて三人の様子を眺める。
学生達の年齢は十代中頃から後半、自分の孫と言っても差し支えない年齢だ。
孫を見るような目で見るから、彼等のことが愛おしく、見ていて飽きないし、心も満たされるのかもしれない。
明るく笑う三人を見て、皇子は己が彼らの年の頃はどうだったろうかと思った。
しかし思った途端、浮かべていた笑みが消え、憮然とした表情になった。
皇子は折角潤った心があっという間に干上がった気持ちになったが、
「……いかん!このまま正気を失ったら、ここに居られなくなるぞ。折角学生になれたというのに」
皇子は首を横に振って、嫌なことは思い出さないことにした。
「……殿なら洛陽も見たかもね」
学生達の会話は続く。
「
「講義で『時々故里が恋しくなった』って仰っていたじゃないか」
「そうだったっけ」
「吾、京師以外の場所に住んだことないから、どんな気持ちになるかよく分からないな……」
「そうだ。大学助殿と言えば、吾、昨日東の市で見たよ」
「へぇー助殿を?」
「綱手また市に行ったんだ!いいなぁ」
「兄様のお使いに行かされただけだよ。郎女と買い物してた。あれは妹背でしょ」
「何だと!?」
皇子は思わず身を乗り出した。
「買い物ぉ!? 郎女と?」
「人違いじゃない?」
「本当だって!」
「郎女と市で買い物……なんてするのかな?逢瀬ってもっと人目を偲ぶものでしょ?」
「でもその人、
「助殿って実は庶人って聞いたことあるけど、庶人の逢瀬ってそういう感じなのかな?」
「庶人の妹背どころか、妹背自体が分からないもん……吾には縁がないのだぁ!」
「本当に妹背なのかなぁ。助殿の子かもしれないよ」
「真備博士は独りの身で子などいない!」
「「「うわぁ!!」」」
突然皇子が会話に割り込んできたので、学生達は大声を出して叫んでしまった。
「まさかそんな!真備博士に郎女だと!?その郎女というのはどんな容姿だった?名は?歳は?一緒に家に入っていったのか?詳しく聞かせろ!」
「え、えと……歳は吾より下ぐらいで、顔はよく覚えてなくて……名とか、櫛を買った後のこととかは知りません!」
わなわな震える皇子に詰め寄られた学生は、しどろもどろで答えた。
「これは由々しき事態だ!吾等が麗しき仲になる前に手をつけた者がいるとは!!」
興奮した皇子は、人を抱きしめるかのように荷物の包みをぎゅうと抱きしめた。
「……いやいや待て、分かっている。横から余計な口出しをすれば吾が忌み嫌われてしまう、それは姉様で経験済みだしかし!!その郎女がろくでもない女だったらどうする!?命を懸けて大海を渡りこの国のために力を尽くそうとする、あの真備の足を引っ張るようなことになったら!麻呂のように女色に溺れて職務を放棄するなんてことになったら!一体どうするのだ!?歳を取ってからのめり込むとなかなか抜け出せなくなるのだぞー!!」
「……あの人危ないね」
「今のうちに逃げよ」
「うんうん」
三人の学生は、声高らかに苦悩を叫ぶ皇子を置いてさっさと逃げてしまった。
「……む!いなくなってしまったか。もっと当時の状況を聞き出したかったのだが……ん?庶人?」
皇子も学生達も、貴族ではない者達の生活について詳しく知っているという訳ではなかった。
「そうか!もしかしたらひとつ屋根の下共寝している可能性が……共寝だと!?許さん!!こうなったらその郎女の正体を暴き、害をなすから吾が暗々裏に排除する!!……!?」
皇子は身悶えしながら叫び続けていたが、ふと視線を感じて講堂の方を見ると、学生達が連子窓から好奇と忌避の眼差しで皇子を見ている。
皇子は咳払いをすると、学生達に笑顔を見せて取り繕った。
「落ち着け!冷静になれ大津!!……直接真備に聞くのはまずい。家の方を探ってみるか。女奴ならば家にいるはずだ。いないなら……あぁあ!!心がこれ程千々に乱れるのは久方ぶりだ!!姉様が身罷られて以来!!」
息の荒い皇子はそう小声で叫ぶと、真備の家に向かうべく駆けだす。
しかし、すぐに急停止した。
「いや待て!真備の事だ。家にも厳重に結界を張り巡らせているに違いない。こちらも準備を整えねば……一旦、
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