「大学助殿がお帰りだぞー!!」

 二人が大学寮の門までやってくると、路に出ていた見張りらしい学生が大声で叫んだ。

「大丈夫なんですか!?」

「元気そうだ!」

「なんだ動いてるじゃないか!?」

「誰か死んだって言ってたぞ!!」

「何で元気なのにいきなり倒れたんですかぁ!?」

 正午をとうに過ぎ、今日の講義は終了したためか学生達の姿は少ない。

 それでも二人が門を潜ると、学生達が何人も寄ってきてわあわあ二人を取り囲んだ。

 しかし、心配しているというよりも、珍奇な生物の絵を見た時のように、興味津々な眼で真備を眺めている。

「大学助殿!?え……ご無事……なのですか?」

 野次馬の学生達を押しのけて、真備と同じ深緑の袍を着た中年の男がやってきた。

「これは!突然席を外してしまって申し訳ありませんでした」

「……あの、腹の、怪我は……?」

 男は神妙な顔で訊く。

「大丈夫です。典薬頭殿に診て頂きましたが、驚いた衝撃と過労で腹を痛めたのだろう、と呆れられてしまいました」

 真備は皇子から離れると、訊いてきた男に向かって苦笑して答えた。

「なーんだ死ななかったんだってよ!」

「誰だよ大騒ぎしたおこ!」

「汝だろぉー!!」

 学生達はがっかりしたような安心したような顔で散っていった。

 しかし男は険しい表情を崩さず、

「池主は致命傷だと申しておりました。本当の所は重傷だったのではないですか?」

「そのことで池主殿とお話があるのですが。池主殿はどちらにいらっしゃいますか?」

「……廟堂に留めております」

「そうでしたか!良かったです。獄舎に行ってしまったかと思って心配しておりました。二人だけでお話したいのですが、よろしいですか?」

「!それは……二人きりは。安全を保障しかねる」

「衛士が必要なら吾が承りますよ!」

 皇子がニコニコして言った。

 男は胡散臭そうな顔で皇子を見る。

「心配ありませんよ」

「しかし!」

「誰かがいれば話し辛いこともあると思います。もしまた方術を使うということになりましたら、その時はちゃんと対応致しますよ」

「!それは傲慢が過ぎるというもの。いましは唐で方術を習得したとのことだが、池主の力は汝一人で対応できるものでは」

「ですから、えぇ……」

大允たいじょう大伴古慈斐おおとものこしび殿です、大津殿」

「大伴!?」

 皇子は怪訝な顔で古慈斐を見た。

 古慈斐も怪訝な顔で皇子を見返す。

「!?もしやいまし、いわくつきの学生だな!今日から入学したという」

「そうです!掃守かぬもり大津と申します。以後お見知りおきを」

 皇子は真備を真似て古慈斐に拱手してみせた。

「さて大允殿、中に入らず吾等で堂の周りを固めればよろしいのでは?」

 皇子はニヤッと笑って提案した。

「何を暢気な!皆池主のことを軟弱な童と思って侮っている。何も知らぬからそのようなことが言えるのだ。今だって靫負を呼ぶべきか議論していた所なのに」

 真備と皇子は顔を見合わせた。

「一目見て気づいたが……やはり、この者も才が?」

 古慈斐に聞こえないよう真備の耳元で皇子が囁くと、真備は首を横に振った。

「方術は使わないように説得します。どうか許可を頂きたい」

 真備は拱手をして許しを請うた。

「!……上官の大学助殿にそういわれると……今回は一命を取り留めても、次はわかりませんぞ!」

 古慈斐は頭巾越しに頭を掻いて言った。


 真備と皇子は廟堂に再びやってきた。

 しかし、ついてきた古慈斐を含めた三人は直前で足を止めた。

 門前に、学生が一人立っている。

 年の頃は十代後半、皇子よりも少し背が低い程度の高身長で、細身だが鍛えられた体躯を持ち、少し長く整った顔から人と育ちの良さが滲み出た少年だった。

「……氏上うじのかみ殿……」

 古慈悲の顔が曇る。

「大伴家持殿ですね」

「ほぉー……」

 家持は今にも死にそうなほど悲壮な顔をしている。

 皇子は家持の顔を見ると、口の左端を上げてにやりと笑った。

「致命的じゃないか!?大伴は藤原と違って武で成り立つ氏族だろう。超常の才がないのにどうやって大君を守り怪異と戦うつもりなのだ!古麻呂という男が焦るのも分かるというものだな」

 皇子は呆れ顔で、聞こえるか聞こえないか程度の小声でつぶやいた。

 古慈悲の顔がますます曇る。

「意地悪ですよ、大津殿」

「それ位言わせて欲しいものです!吾等重傷だったんですから」

「大学助殿ぉ!!」

 家持は突然、銅鑼の音のような大声で叫んだ。

「うひゃぁ!?」

「おわっ!!」

 真備はあまりの大声に飛び上がって驚き、皇子も思わずのけぞる。

 思いつめた顔の家持はその場に膝をつき、真備に向かって勢いよく平伏した。

「え、えええ!?」

 真備は家持の予想外の行動におろつく。

「ど、どどどどうして汝がこのようなことを!?よろしくありませんよ!頭を上げて、立ち上がって下さい!」

 そう言って慌てて腕をとり、立ち上がらせようとする。

 しかし家持は真備の手を払って平伏をやめない。

「……この益荒男からは程遠い弱腰め、自分の立場を分かっているのか!?頭を下げるどころか軽々しく平伏するとは!大伴氏の誇りの欠片もない」

 古慈斐が舌打ちして毒づいた。

「……吾に……まだ何の力もない吾にできることはこれしかありません!!大学助殿!!どうか、どうか池主をお助け下さい!!」

 そう言って家持は涙を流し、再び平伏した。

「池主は……池主は持っていた刀子とうす(小刀)を喉に突き刺して死のうとしたんです!」

「刀子をですか!?」

「本当に!死ぬほど反省しています。どうか!どうかお許しください、池主を!」

「そうでしたか……申し訳ありません!己が失態がこれほどまでの大事になること、予測できておりませんでした」

 真備は家持の傍らに膝をつき、しょんぼりした顔で声を掛けた。

「吾が出来ることなら何でもやります!叔母様や氏人の皆には何としても吾が説得致します!!笞打たれろと言われるならば、吾の尻などいくらでも差し出します!どうか、どうか獄に入れることだけは勘弁して下さい!」

「えっ尻出してくれるの!?良いの!?」

「大津殿何の話ですか?」

「笞刑で済むものか!師父である大学助を左道で殺したとあれば死罪だぞ、もっと律令を読み込め!」

 古慈斐は頭を抱える。

「……大丈夫ですよ、家持殿。そのようなことはしません。池主殿とお話をして、納得していただければ解放しますから」

「大学助殿……ほ、本当ですか?」

 家持は涙と洟と砂と小石でドロドロの顔を上げた。

「えぇ、最初からそのつもりでおりましたよ」

「う……あ、ありがとうございます!!ありがとうございます!!」

 家持は再び銅鑼の音のような大声を上げて真備の足にしがみつくと、袍の裾に顔を埋めてワンワン泣き出した。

「大丈夫ですよ、大丈夫ですから!」

「いやー吾が親族にも気弱な者は何人もいたが、ここまで大迫力に泣き散らす者はいなかったぞ。世の中にはいろんな人間がいる。長生きするものだなぁ……」

 皇子は呆れを通り越して感心して言った。

「本当に素直で心優しい方なのですよ、家持殿は」

 真備は皇子にそう言って、家持の背中を撫でてなだめた。

「な、情けない……今宵の氏族詮議は地獄だな……」

 古慈斐は二人に背を向けて大きなため息をついた。


「!?何ですかそのお姿は!」

「ふふっ。びっくりしました?」

 真備が一人で堂内に入ると、真備に攻撃を当てた学生、大伴池主が両手首、両足首をそれぞれ縄で縛られた状態で月牙凳に座っていた。

 扉を閉めると、薄暗い堂内はもっと暗く沈む。

 連子窓から差す日の光が池主の顔を照らしていた。

「氏上様が泣きながら縛って下さったんですよ、死んだら嫌だからって。ふふっ。こんなの、何の拘束にもならないんですけどね、吾等呪師には」

 池主は出会った時と全く同じ微笑みを浮かべている。

「氏上様は幼い頃から泣き癖が酷くて。大学助様が寮にお越しになってからはあのようなお姿は見せていなかったのですが。と言うかあそこまで大泣きすること自体久しぶりでしたね」

 真備は池主の足首を縛る縄を自分の手で解き始めた。

「ところで大学助様、お怪我の方はどうされたのですか?」

「典薬寮で治していただきましたよ」

「本当ですか?」

「本当です」

「今の典薬頭様にそこまで治せるお力はないとお見受けしておりましたが」

「典薬頭殿の腕前は素晴らしいものですよ。お蔭で助かりました。その代わりこってり叱られましたが」

「そうでしたか……」

「……」

「……本当に?」

「本当です」

「では、そうだと思うことにします」

「はい」

「……そうだ。できましたら、長安でも話題になったというみましの方術を拝見したいです。方術で縄を解いてもらえませんか?」

「池主殿。今朝、他の学生ともお話したのですが、大学寮内で呪いを使うことはやめて頂きたいのです」

「どうしてですか?」

 足首の縄を解いた真備は、手首の縄に取り掛かる。

「呪いを使うということは、素手で喧嘩をしている者に対して横刀で斬りかかるようなものだからです。素手で横刀に対処できる者は修練を積んだごく一部のみ……まぁ、学生同士の喧嘩自体いけないことですが。ですから吾も、妖厲が襲い掛かるといった非常事態でもない限り、方術で人を制することはしません」

「妖厲が来るのですか?大学助様がかけたぶ厚い結界陣を破れるアラガミがいるのなら、見てみたいものですね!」

「吾だけが施した結界陣ではありませんし、難なく侵入できる妖厲はおります」

「いざという時だけ使えということですか?」

「吾自ら宣言した以上、少なくともみましの手を借りるような事態にはしたくありませんね……ですから、お使いにならないようお願いします」

「残念ですし不安はありますが……大学助様のお言葉に従います」

「ありがとうございます」

 真備は縄を解き終わると、案を挟んで向かい側の月牙凳に座った。

「さて、汝にもう一つお話があります」

「……どのような罰も覚悟しております」

「吾が学生だった頃、よく博士の皆様に叱られました。大学ではただ経を暗誦していればいい訳ではない、と」

「はい?」

「五常の『智』とは、ただ知るということではありません。知った上で物事の正しい道筋をわきまえ、己で善悪を判断することです。それを踏まえた上でもう一度考えてみてください。先程汝がしたことの善悪を」

「……考える必要などありませんね。吾は大伴氏の槍であり弓であり、横刀です。つわもの(武器のこと)は自ら考えて人を殺したりするでしょうか?吾はそれと同じです」

「よろしいですか、吾は申しました。『智』とは、己で善悪を判断することだと。汝は、黄の袍を着て大学に来る以上、他の者と同じ学生です。学生とは、国と民の繁栄のため奮励する官人になるべく学ぶ者。官人は、主の指示を待つ牛馬や、ましては命すらない兵ではありません。各人が己でどうすべきか考え行動できなければ、一部の人間の偏った政に振り回され、いつまでも国も民も富み栄えることはできないでしょう。ですから、汝も学生としてここにいる以上、ここでは己の行動について己で考え、悪いと思うことには手を貸さないで欲しいのです。たとえそれが、従わなければならない命であったとしても」

「ならば吾は大学を辞めねばなりませんね」

「……池主殿。そうしなければいられないというお立場におられるのでしたら、家から離れ直曹で暮らすということもできます。その……暮らしは、高貴な方にはつらい環境かもしれません。ですが、何とか改善します!もし、直曹が辛いということなら吾家でも……遠いのですが……」

「……ふふっ」

「?」

「大学助様はお優しいのですね。氏上様と同じです。吾なんかのことにまで気を回して」

「そうでしょうか?」

「そうですよ。氏上様は本当に可哀想なお方で。超常の才もないし聡くもないし気概もないし、武芸がちょっとだけましで、人が良いだけが取り柄の使えない童。だけど旅人様が身罷られて、氏上になってしまった。まだ官人になっていない今でももう重圧で押しつぶされそうなのに、これからどうやって生き抜いていくおつもりなんだか。横で見ているだけで歯がゆくて仕方ないんですよね。吾が替わって差し上げられたら良かったのに」

「お好きなのですね、家持殿のことが」

「そういう訳ではありません。氏人を代表して述べているだけです」

「そうですか。ですが、一つ間違っておられますよ」

「……大学助様に氏上様の何がお判りになるんです?」

 池主は微笑みをしまい、ほんの少しムッとして反論した。

「あの方にはちゃんと気概があります」

「!」

「家持殿は大允殿に非難の目を向けられても、諦めることなく平伏して謝り続けられました。汝のために」

「平伏!?……吾のために、ですか?」

「氏上という多くの人を統率する立場のお方が、己のためならともかく、人のためにここまですることはなかなかできません。一見するとみっともなく見えるかもしれませんが、吾は感服致しました」

「そこまで……ですか」

 池主はそう言って、唇を噛んだ。

「……何で吾なんかのために?」

「それは勿論、家持殿にとって大切なお方だからですよ」

「!!あの、吾は……違うのです。吾は……もう!あのお方は何もわかってらっしゃらないんだから!」

 そう小声で叫ぶと、池主はしばらく黙り込んだ。

 真備も黙って次の言葉を待つ。

「……いえ、大学助様にお話しても、どうしようもないことです」

「そうですか。ですが、話したくなったらいつでも承ります」

「本当ですか?夜更けにでもですか?具合が悪い時でも?吾はやりますけど?」

「うふふふふ。楽しみにしております」

「……本当、氏上様とおんなじ。お人が良すぎると思います」

 真備は立ち上がって池主の傍に行くと、その手を取った。

「池主殿。汝はとても優秀です。官人となれば国政に大いに貢献でき、大君も喜ばれると思いますよ。ですから、辞めるなどと言わず、明日も必ず来てください。お待ちしております」

「!……もしそれが許されるなら」

 池主は再び微笑んだ。

 真備には、それは今までの張り付いたような笑顔とは少し違うものに感じられたが、それが己の思い込みだろうということも、よく分かっ

「行きまぁす!!明日も!!」

「うひゃあ!!」

 真備の思考を遮って、また銅鑼の音が響いた。

「!?」

「……家持殿?」

 廟堂の扉を勢い良く開けて、家持が、皇子が、古慈斐が入ってきた。

 家持の他にも学生がいたが、彼も大伴氏の学生だった。

「立ち聞きしていたのですね。二人だけでと申しましたのに」

「申し訳ない。だがどうしても氏上殿が聞かなくて」

 古慈斐が困り顔で鼻の下の髭を掻く。

「叔母様も、古麻呂殿も、皆吾が説得します!!池主は明日も通いますから!!よろしくお願いします!!」

「またできもしないことを」

 池主が微笑んでバッサリ両断する。

「いや……吾からも説得するよ。大学に通うことが罰になるとか言ってゴネれば、大刀自殿も納得するかもしれん。池主は吾が氏族の中でも武も文も優秀だ。伺見のようなことばかりさせられない」

「古慈斐様!」

「おっ……と、今のは冗談だよ、冗談。聞かなかったことにしてくれ」

「承知しました」

「そうだな、きっと後で詫びの品が贈られてくるだろうし……そうだな、近日中に大刀自殿から文が届くだろう。宴の誘いの」

「ほーぉ。大伴の宴と言えば、全員で歌でも詠むのですか?」

 皇子がそう言うと、真備は露骨に嫌そうな顔をした。

「博士は歌を詠むのが苦手なのですか?でしたら吾が代わりに詠みますよ?」

 皇子がニヤッと笑って言った。

「……宴は遠慮させて頂きます」

「だな。吾も嫌だよ」

 古慈斐も苦笑して言った。

 真備と古慈斐は同い年であり、共に大学で学んだよく知った間柄だった。

「詫びの品も不要です。ただ、池主殿が来て下されば」

「必ず行かせる」

「明日もよろしくお願いします!!」

 また顔一面を涙と洟で濡らした家持が大声で叫んだ。


 その後も大学頭に報告したり諸所の仕事を片付けたりとバタバタした真備だったが、いつもより早い未の正刻(午後二時)頃には正門を出て家路についた。

 真備は包みを抱え、パタパタと朱雀大路を南に走って帰っていく。

 その後ろ姿を見送る影が二つあった。

 不思議なことに人の姿はなく、ただ影だけが大路に落ちている。

 一つは大人と変わらない大きさ、もう一つは少年のものだった。

「……あれが下道真備なのかい?」

 大きい影が小さい影に訊いた。

「そうです」

「なるほど……見るからにお人好しそうな男じゃないか。計画は上手くいくんじゃないか?」

「そうだと良いのですが……昨日はすごくお怒りで、とても怖かったから。兄様の言う通りになれば良いんだけど」

「兄様の方術の腕は父様譲り。その兄様が上手くいくと卜占で判じたのだから、必ず上手く行くさ」

「……此奴はお気楽な能なしだから、何一つ参考にはならんぞ、葛木ぃ」

「!?」

 影達が振り返ると、そこにはまるで馬にまたがるようにして大型犬に跨った幼児の影が落ちていた。

「兄様にそう言う口のきき方しちゃ駄目って言ってるでしょ、鈎取かぎとり!」

 小さな影が幼児の影を嗜めた。

「あれもこれもてんこ盛りな計画だ。一つ上手く行けば大成功だな」

「怖いこと言わないでよ!吾の計画だけでも成功させたいなぁ」

「吾だけとか言わず、皆成功できるように頑張ろう!」

「はい!」

「ケッ!童みたいな返事しやがって気色悪ぃ!ったく、こんな日が高いうちから外に出てたら干上がっちまう!帰るぞ!!」

 幼児の影が毒づくと、三つの影は二条大路を東に向かって歩いて行った。


「ただいま帰り……!?」

 家に帰って門を潜った真備の目の前に、瘟神がいた。

 下道黒麻呂が遭遇した、あの赤い嬰児のような瘟神だ。

「……クウ」

 瘟神が真備に噛みつこうと口を開けた瞬間。

 銀色に輝く太い糸が何本も地面から生えたと思うと、あっという間に瘟神に絡みついた。

「ギッ!!」

 ダンッ!

 真備が足を踏み鳴らすと、地面から環頭刀(柄の先が丸くなった直刀)がズズッと現れた。

 真備は素早く柄を握って刀を地面から引き抜くと、渾身の力を込めて糸ごと瘟神を一刀両断した。

「プギッ!!」

 瘟神は霧散した。

「何故だ!!なぜ瘟神が出現する!?幾重にも結界陣を張ったというのに!!他は!?」

 大学寮では終ぞ見せなかった険しい表情で叫ぶと、敷地内を睨め回す。

 しかし、瘟神の姿は見えない。

 その代わり、煮炊屋(ここでは台所と食料庫を兼ねた建物)の陰から真備をのぞく少女と目が合った。

「!!」

 少女は真備を恐れたのか、出していた頭を隠していなくなってしまった。

「あぁー!!しまったぁー!!」

 真備は環頭刀と包みを放り投げて頭を抱えた。

「あのお方には妖厲の姿が見えないのでは!?これでは吾は、由利殿が憎らしくて睨んだようにしか見えない!!何という失態!!うわぁ……」

 険しかった表情が一挙に緩み、今にも泣きそうなしおしおの顔になる。

「ゆ、由利殿……申し訳ありません!吾は決して危害を加えるために睨んだのではないのです!!どうかお許しください!!」

 そして、真備は辛抱強く待った。

 しばらくすると、再び少女は煮炊屋の陰から頭を出した。

「あ!……へへ」

 真備は嬉しくなって思わず笑ったが、

「気持ち悪い笑い方だったのでは?」

 と、また頭を抱えた。

「……あ。お、お帰りなさい」

「!?由利殿!ありがとうございます!」

 真備の顔がぱっと明るくなる。

「あの、まだ市は開いていると思うのです!ですから、一緒に買い出しに参りませんか?櫛とか、衣とか、昨日ご用意できなかったものを買い揃えないと!あ、勿論夕餉の菜も買いましょう!」

 由利と呼ばれた少女は、しばらく黙って見ていたが、ようやく頭を縦に振った。

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