典薬寮を追い出された真備と皇子は、大学寮への帰途についていた。

「……もう大丈夫ですよ大津殿。吾、歩けますから……」

「血を大量に吐かれた後ですし、数切れの生蘇だけでは失った力を完全に回復させるには不十分。大学寮まで距離がありますから、ご無理は禁物ですよ博士!」

 真備は皇子に背負われていた。

 流石に典薬寮に担ぎ込まれた時のような抱かれ方はされずに済んだが、皇子の首筋から漂う香の香りがやはり仲麻呂と同じ白檀だったことが、尚更真備をモジモジさせた。

「博士!背中でそんなにゴソゴソされたら……ふふっ。困った気分になってしまいますよ?」

「え!困った気分ですか!?それは申し訳ありません……あの、改めて、ありがとうございます」

 真備は皇子の背中で恐縮して言った。

「先程も申しました通り、吾は頼られることが何より快感なのです。幼い頃も、よくこうやって姉様の面倒を見ておりました」

 そう言って、皇子は真備を背負い直した。

「死んだ母から姉様の面倒を見て欲しい、と頼まれましてね。姉様は表に出て、誰かとやり取りすることが得意ではありませんでしたから……博士」

「はい?」

「博士。一つ、吾と約束していただけませんでしょうか」

「何でしょう」

「吾のいない所で死ぬのはやめてくれ」

「!?」

「吾がそばに居る限り、何をもってしてでも汝の命は守る。しかし、吾の行くことのできない、遠い所にいてはどうしようもない。それだけはどうしても耐えられないのだ。姉様の時と同じ思いはしたくない……」

「!?」

 太腿を掴む指に力が入り、袴越しに爪が肉に食い込んだ。

「……大津殿……」

 本当にお辛いのだ、と真備は理解した。

「その、確約はできません。方術をもってしても、防ぐことのできない不運はあります。しかし、なんとか約束を守れるよう、最大限努力しましょう!」

「……ふふっ。断言しないところ、博士は本当に正直ですね。ありがとうございます……ん?」

 皇子は真備の言葉に笑顔を見せたが、突然ピタリと止まった。

「……博士。下りた方がよろしいかも。いえ、そうして下さい」

「?」

 二人が歩く官衙と官衙の間、築地塀に挟まれた往還には、なぜか誰もいなくなっていた。

「!?大津殿!人払いの術、いや既に結界陣が!宮城内でこんなことを……!?」

「方士のお出ましですかね」

 皇子の声がワントーン低くなった。

 二人の向かう先に、真備と同じ濃緑の袍を纏った美丈夫が袖手して立っていた。

「下りて下さい、博士」

「いいえ、下りません!」

「何ですって!?」

「吾が下りれば、戦うおつもりでしょう!?いけません、宮城内で戦うなどと!」

 真備は、皇子の背中にしがみついた。

「!!」

 皇子の身体がビクンと跳ねる。

「どうされました!?」

「そんな、そんなに身体を密着させると、その……博士のその、夏の時よりよく育った乳が、と他にも下とか……当たってその!」

「は?乳?」

「困ったな!……流石博士、知恵がお回りになる。吾の戦意をいとも簡単に削いでしまうとは……」

 皇子は顔を真っ赤にして、その場に膝をついてしまった。

「!?仰っている意味がよく分からないのですが……戦意は喪失したということですか!?」

 皇子は咳払いをして、

「ま、まぁ博士がそう仰るなら戦いませんよ……ですが、相手が動けば吾も動きます。何をもってしてでもお守り致しますからね……何をもってしてでも」

「その必要はないですね」

 真備は地面に下り、脇に挿した笏を取ろうとした。

「あ、ない!失くしてしまった……」

 真備は代わりに男に向かって拱手きょうしゅ(左手で折りたたんだ右手を包む中国式の挨拶)をした。

「お久しぶりです、治部少丞じぶしょうじょう殿」


「随分とご無沙汰でしたね。五月以来ですか?大層お忙しいようですが、お元気そうで何よりです」

 皇子と外見の年が変わらないように見える若者も、真備と同じように恭しく拱手して答えた。

「!?……お元気そう、だと!?」

「いけません!報復などなさらないでくださいよ」

 真備は、詰め寄ろうとする皇子の腕を掴んで制した。

「お気遣いありがとうございます。治部少丞殿もお元気そうで」

「それより、吾を官名で呼ぶとは余所余所しい。玄昉殿とは敬称なしで呼び合う仲におなりなのでしょう?」

「よくご存じですね!その通りです」

「でしたら、吾とも同じく名で呼び合いませんか。お互い大海を命がけで越えた仲なのですから」

「!?」

「承知しました。ですが玄昉とみましとでは共にいた時間が違い過ぎます。せめて敬称はつけさせてください」

いましは玄昉殿と対照的ですね。あちらは氏姓を捨ててでものし上がりたいと思うほどの野心家なのに、汝は相変わらず庶人の頃の癖が抜けきらないようだ」

「汝の仰る通りです。古麻呂殿」

「古麻呂……?」

「このお方は大伴古麻呂殿です」

 真備は小声で教えた。

「大伴だと!?」

 皇子はそう小声で返すと、その若者、大伴古麻呂の顔をギッと睨みつけた。

「では、ましが大伴池主という学生に真備を襲わせた悪辣な方士、ということで間違いないな」

「おや?大学寮の学生……にしては年が行き過ぎているようにも見えますね……直丁じきちょう(雑用を行うために徴収された庶人のこと、無位)ですか?どちらにせよ、礼を知らぬ不届き者ですね。大学寮には人材がいないと見える」

「おやおや、吾のことを知らぬとは。意外にも小物だったな。期待外れだ」

 皇子は口の左端を上げて歪に笑った。

「!?」

「大津殿挑発はいけません!……古麻呂殿、この方は大学寮の学生です。それよりも、大伴池主殿に呪いをかけさせたのは汝で間違いありませんね?」

「そのことについてなのですが。なぜ、よけるなり防ぐなりしなかったのです?可哀想に、池主の心に傷がついてしまいましたよ。あの子優しいから」

「!」

「吾は真備殿のことだから、どんな術も必ず的確に捌くよ、と安心させていたのですが」

「何故汝自ら動かなかったのです!?」

「それは勿論、見せびらかしたかったんですよ!吾等大伴自慢の若々しい益荒男をね。すごいでしょう?十日もしないで汝が編み出した術を会得したんですよ!」

 古麻呂は笑顔で答えた。

「そんなことのためにあのような危険な術を組んだのですか!?甚大な被害が出たのですよ、吾以外にも!」

「汝が術を喰らわなければ、何の問題もなかったのでは?汝、典薬寮からの帰りですよね。典薬頭に助けてもらったのですか?」

「典薬頭殿のお手を煩わせる結果になってしまいました」

「そうそれ、それですよ!」

「?どういうことですか?」

「真備殿は、何故吾がこんな手の込んだことを仕組んだか、お判りになりましたか?本当の理由を」

「本当の理由?」

 真備は髭をしごいてしばらく考えたが、

「分かりませんね」

 と、はっきり答えた。

「分からない?分からないとは!まさかそんな!簡単なことではありませんか!真備殿ほどの智者がなぜお気づきにならないのです?豊かな暮らしと望みの職務を得て、頭の回転が鈍りましたか!?」

 古麻呂は大袈裟な身振り手振りで残念そうにしてみせた。

 そして、真備の両肩にドスンと自分の両手を置くと、

「……藤原氏に尻尾を振っているそうですね?幻滅しましたよ」

 と、ドスの効いた声で言った。

「吾等は何のために命がけで長安まで行ったのです?宮城に巣食う大奸たいかん共を駆逐する力を手に入れるためではありませんか!玄昉殿もそう仰っていたのでは?」

「!」

 ――いいか、吾等が苦労して唐へ行ったのは、家格という障壁を蹴り飛ばし中央で貴族達よりも活躍するためだ――

 真備は髭をしごきながら、以前僧玄昉に言われたことを思い出した。

「そうでしたか……」

「その汝が藤原氏に取り入り保身を図ろうとは、情けない!実に情けない!!だから!!だから汝に思い出して欲しかった!!苦難を!!吾等の志を!!」

「……」

「……つまり、藤原氏を蹴って大伴氏と手を組め、と?」

 皇子が真備の代わりに口を開いた。

「吾等だけではない。藤原氏以外の全てとだ!今こそ全ての氏族の力を結集し、姦臣共を取り除かねばならん!!」

 古麻呂は大袈裟に手を振り上げて叫んだ。

「では、はっきりと申し上げましょう。大君と民にとって、誰が政を執ろうがどうでもよいことです」

「!?」

「何ですって真備殿!?」

「大事なことは、誰がするかではなく、何をするか。これに尽きるでしょう。戦のない安らかで豊かな国造りのために尽力するなら、藤原氏であろうが大伴氏であろうが関係ありませんね」

「違う!藤原氏の最終目的は皇位の簒奪だ!奴等は王莽が如き叛逆を虎視眈々と狙っている!真備殿!大君の首が飛び高御座が血で汚されるようなことになれば、国は滅び民も死ぬ!だから吾等が」

「あり得ません」

 真備は古麻呂の言葉を遮った。

「!!」

「吾がさせませんよ。たとえ卑官であったとしても、大君をお守りし世を安らかに治めるためにできることは沢山あります。方術もその一つです……古麻呂殿」

「何です!?」

「これからは氏族が政を動かすのではなく、有能な官人が政を動かすようになるのです。いいえ、吾がそのようにします」

「!?」

「……面白いな」

 皇子はにやりと口の左端を上げて笑った。

「……その言葉は、藤原含め全ての氏族を敵に回したのと同じですよ!」

「違います。有能であればどのような氏姓の者であっても採用する。その代わり無能であれば、例え真人まひとかばねを持つ氏人であっても政に携わることはできない。それこそが、この国が唐と同じような豊かな国になるために最も重要なことなのです」

「それは復讐ですか?八色の姓を持たない汝の氏の」

「そのお考えがまず駄目なのです。大君の御偉功により戦のない世は続いておりますが、旱魃やなゐ(地震のこと)、疫病はなくならず、決して泰平とは言えません。この国を安らかで豊かにするためには、氏姓の別なく全ての官人が協力し合わなければならない。汝も闘諍に気を揉むより、この国が唐に劣らない、新羅よりもずっと立派な国であると認められるために儀制(儀式に関する制度)を整えなければ。治部少丞の汝が唐へ渡ったのは、何よりそのためではないのですか?」

「!?それは、重々承知しております!」

「吾は決して悪政は許しませんし、大君に刃向かうとみなしたものは容赦なく誅します。ですが、そうでないのならば無理にいがみ合う必要はないのです。よろしいか?」

 真備は古麻呂の両手を取って諭した。

「汝の焦りは分かります」

「!!」

「ですが、大君は必ず、必ず汝を見ておられます。職務に励めばいずれ位階を授けて下さるでしょう。くれぐれも、焦りは禁物ですよ。お願いします」

「な!?なぜそれを!!」

「玄昉もそうですからね」

「!!」

「……今回の件は吾の落ち度が原因です。大学頭殿ともお話して、池主殿のことも汝のことも、刑部省には訴えないつもりです。報復もしません」

「な!!真備!ではなく真備博士!それは!」

「その代わり、池主殿をこのようなことに二度と巻き込まないで下さい。学令の十七条、行礼条にもあります。学生はみな、容易く使役してはならないのです。よろしいですね?」

「……汝は本当に藤原氏に与しないのですね?」

「昨日は、吾が勝手に参議殿の邸宅に押し入って妖孼退治をしたのです。宴席に招かれた訳ではありませんよ。今日も文学の件、お断りしましたし」

「!本当ですね?本当ですね!?」

 古麻呂は真備の手を握り返して訊いた。

「はい、確かに」

「……吾だって、益荒男だ。大君に弓引く者は誅しますよ!ですが今は……己の職務に励むとします。もう、しばらく……」

「ありがとうございます。共に奮励努力しましょう」

 涙目の古麻呂は素直に頷いた。


「……納得がいかないですね」

 皇子は憮然とした表情で不満を述べた。

 古麻呂は去り、真備と皇子は再び帰路についていた。

 今度は背負われていない。

 しかし、肩を借りて歩いていた。

「のたうち回って嘔吐していたのが、ピンピンして帰ってくるのも違和感ありますからね。ちょっとは弱った振りをしましょう」

 と皇子から助言を受けてのことだった。

「自分が昇進できないから真備博士を殺そうとするとは!何と器の小さい!」

「古麻呂殿自身は死ぬとまでは思ってなかったと思います」

「それは博士が元気に帰ってきたから、大した効果はなかったと判断したのでしょう。博士が瀕死だったこと、ちゃんと言ってやればよかったのです!」

 皇子はまだ怒りが収まらないのか、真備の身体を支える手に力が入る。

「そうではありません。ご存じないのです。古麻呂殿のお力では、あの術は全力で殴りつけた位の効果しか得られません。きっと腸が千切れるほどだったとは予想できていないはずです」

「まさか!あれだけのことをしておいて!?」

「もしかしたら、古麻呂殿の全力と池主殿の全力には大きな差があることを、お気づきではないのかも……ですから、余計な事を言って、これ以上古麻呂殿を傷つけたくなかったのです」

「大きな差?……そう言えば、あの男は吾の正体にも気づいていないようでしたね」

「一目見て大津殿の正体に気付けるほどの達者はほぼいないと思います。吾や典薬頭殿も、厲鬼のお姿から予測してやっと気づいたのですから」

「!……そうですか?照れるなぁ」

「それに、古麻呂殿は器の小さいお方ではありません。誰にでも焦りというものはありますし、むしろ吾が昇進したことの方が異常なのです。他にも生きて戻ってきた留学生はいるというのに……古麻呂殿の行ったことは、古麻呂殿だけでなくすべての留学生、留学僧の総意だと思います」

「……そこまで背負い込まずとも良いと思いますよ、博士」

「お気遣い嬉しいです。でも、今回のことを戒めとして気を引き締めます!」

 真備は真剣な顔で拳を握りしめた。

「……いえ、吾のことより池主殿です!本当に獄舎に入れられていなければいいのですが」

「急ぎましょう」

「はい。で、何で立ち止まったんです?」

「やはり背負った方が早いかと思いまして」

 にっこり微笑む皇子に、真備は激しく首を横に振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る