五
真備はひとしきり吐いて落ち着くと、広足に濡らした手拭で汚れた胸を拭いてもらい、上衣を着直した。
「ちょっと!誰かこの桶片付けて!……はぁ!?……あぁそう。何時手を回したのかしら?怖っ」
広足は病棟の外で誰かとやり取りしている。
「……はぁ。ようやく落ち着きました」
真備と皇子は並んで牀に腰かけていた。
「ところで、何で皇子は衣を脱いでらっしゃるんです?」
「色々あってな」
「何ですり寄ってくるんです?」
「何だか寒くなってきて……」
「何で懐に手を入れてくるんです!?」
「皇子はいどうぞ!!」
几帳を捲って入ってきた広足が、皇子に絁の包みを強引に手渡した。
「あぁこれか!ありがとう。ところで、食べる物はもう用意できたか?」
皇子は起き上がって包みを開けると、自分で着替え始めた。
「はぁあ!?なんで此奴にそこまで至れり尽くせりしないといけないんです?飯が食いたきゃ大学寮に帰んなさいよぉ!」
「広足、夜になったら覚悟しとけよ」
「分かりましたよ何でもご用意させて頂きます!!」
「言ったな!よし、では醍醐だ」
「!!流石にそれは無、理、で、す!せめて生蘇で手を打ってもらえませんか」
「いいだろう。その代わり蜜がけでな」
「おほおおお右大臣殿でもそんな贅沢申されませんよ蜂の蜜とか!」
「本当に申し訳ありません……」
「後で覚えときなさいよ大学助ぇ!」
「さっさと行け!」
「はいはいただいま!!厄日だわもう今日本当に厄日!」
広足は乱暴に几帳を捲って出て行った。
「そんなに典薬頭殿に強く仰らなくても……悪いのは吾なのですから」
真備は元気なく皇子を諫めた。
「ふふっ。ああ言って楽しくやっているのだぞ、典薬頭は」
「は?」
着替え終わった皇子は、そう言って真備の横に座った。
「本当でしょうか?やはり後で改めてお詫びしないと。それと……」
「それと?」
「大伴池主殿は今、どうされていますか?」
「!」
真備の言葉に、皇子の顔が険しくなった。
「……誰か分かってやられたのか!」
「はい。学生の名と何時入学したか、なんとか全員覚えているつもりです」
「!?……いや待て。旧知の仲という訳ではないのか。では不意打ちか?」
「吾に危害を加えるためにやって来るだろう、そのような予測はしておりませんでしたね」
「そうか……池主とやらのその後は知らない。きっと今頃は獄にでも放り込まれていることだろう」
「!」
真備の顔がぱっと明るくなった。
「そうでしたか!」
「!?どうした?」
「良かったです!皇子はあの時、術をお使いにならなかったのですね!」
「!?……まぁ約束だからな。初日から破るわけにはいかない」
「ふふっ。嬉しいです。約束を守って下さって」
「?そうか?」
皇子は怪訝な顔をした。
「吾が約束を破れば、汝は遠慮なく吾を殺せるのだぞ」
「それはそうなのですが……でも、その黄の袍を着て大学に来て下さっている間は、皇子も池主殿も吾にとって大切な未来ある学生です。二人共に明日を断たれるようなことがなくて、本当に良かったです……へへ」
真備はそう言って笑みを浮かべた。
「!……本当に?吾も含まれるのか?」
「はい」
「そうか……吾もか!ははは!嬉しいな」
「わっ!」
皇子は真備を抱きしめた。
「ちょっとぉ!人がいなくなるとすぐ変な空気を醸し出すのやめて頂けますぅ?療治する場所で邪なことはせんで下さいと先程も申し上げましたけどぉ!」
再び几帳を捲って入ってきた広足が、怒鳴りながらずいっと皇子の前に木製の食膳を差し出した。
膳の上には、緑釉単彩の陶皿と椀、銀製の匙が載せられている。
椀の中には白湯が、陶皿の中には蜂の蜜が垂らされた生蘇(ここでは牛乳を煮詰めただけの柔らかい蘇のこと)が、食べやすい大きさに切って並べられていた。
「おっ!ちゃんと用意しているではないか。でかしたぞ広足」
「汝がやれと仰ったんじゃないですか!吾を脅して!」
「重ね重ね申し訳ありません。典薬頭殿にはご迷惑ばかりおかけしてしまって」
真備は食膳を受け取ると、改めて謝罪した。
「これでもう本ッ当に昨日の借りは返したからね!それより、そちらのお方にはちゃんとお礼したのぉ?」
「は?……あ、そうか。腹の傷……重傷だったんですよね。やはり」
「そうだな。だから、ちゃんと治ったかどうか食べて確認してみよう。ほら」
皇子は匙を取って蘇を一つ掬い、真備の口に入れた。
「あ……お……美味しい!!」
真備はこれ以上ない位幸せそうな顔で嬉しそうに言った。
「こんなに美味しい物を口にできるなんて!……良かった、生きて国に帰ることができて本当に良かった……」
まるで幼子のように純粋に喜びながら、一瞬で飲みこむ。
「相変わらず食うのが早いわねぇ」
「ゆっくり食べないと腸に負担がかかるぞ」
「!……そうでしたね」
真備はまた蘇を口に入れてもらうと、今度はゆっくり味わって飲み込んだ。
「美味しい……!!」
「そんなに絶品なのか?」
皇子も一切れ掬って食べる。
「!……とても甘い。久しぶりの味だ」
「よく口にされておられたのですか?」
「今はねだれば食べられるほどに身近になったが、吾が生きていた頃は年に一、二度口にできるかどうかだったよ」
「そうだったのですね」
「今だってねだってもそう食べられませんけどねぇ!特に此奴のような下っ端は!」
「旨い。お蔭で落ちた力が回復したよ。ほら、真備ももっと食べなさい。白湯も飲むか?」
「ありがとうございます」
真備は皿の上の蜜まで掬ってもらって食べ、白湯も全部飲み干した。
「おいしーいですねぇ――……」
そう言って、真備はほわほわっとした顔をもっとほわっとさせる。
それを見た皇子も嬉しそうに微笑んだ。
「こちらとしては弱ったままでいて欲しかったんですけどねぇ……で、幸せなひと時をお過ごしの所悪いんですけどぉ」
「承ります」
「さっき、「やはり」って言ってたわよね」
「はい。申し上げました」
「知ってんのぉ?どういう術なのか」
「はい。存じ上げております」
「「!?」」
「では、ご説明いたします」
真備は食膳を傍らに置いて言った。
「唐にいた頃、武芸に優れた方とお話しする機会が何回かありまして、その中に、ほんの少し拳を当てただけで大きな岩を簡単に砕くことができる武人の方が居られました」
「!……まさか……真備、あの時?」
「そうです。その方のお話によりますと、血の滲むような鍛錬を気が遠くなるほどの時間をかけて続けた結果習得したとのことでした。もう三十を超えた、若いとは言い難い吾に身につけることは不可能だ。と教えてもらうことはできなかったのですが、あの技は妖厲との戦の際に役立つのではないかと思い、どうしても習得したいと吾は考えました。そして思いついたのがこれです。と言っても吾だけではなく、仲麻呂も協力してくれたのですけどね……へへ」
真備は右手で拳を作って二人に見せた。
「鬼道を使う者は皆、天地と己の体内にある『気』を駆使して五行を操り攻撃等に使う訳ですが、その気の力を拳の前に集中させれば、見た目だけでも再現できるのではないか……あの、何か壊れても構わない物ありませんか?薪とかで良いのですが」
「そこの枕で構わないわよ」
「ありがとうございます……では」
真備は、拳を牀の上に置かれていた枕に当てた。
バンッ!
「「!!」」
木でできた枕が、覆っていた布ごと弾け飛んだ。
「気は常に流れているものですから、その場に留めるには回転させて常に動く状態にしておかなければなりません。ですから、気を速く回転させた上で物に当てると、このように粉々になるのです」
「なるほどねぇ……これなら、腸がブチブチに千切れたのも分かるわ」
「大きな岩を砕く場合はもっと集中して大きな気の塊を作る必要がありますが、無防備な人の身体を破壊する程度なら、ひと呼吸程の集中で事足ります」
「……では、何故この術を池主という学生は知っていたのだ?」
「それは……きっと、誰かから教わったのだと思います。誰かから……」
「汝じゃないのぉ?」
「はい。吾は池主殿には教えていません。教えたのは、吾と共に唐に滞在した留学生のうち、超常の才を持つ者全員です」
「全員!?まぁ、理屈を聞けばできそうではあるわねぇ」
広足も自分の拳を見つめて言った。
「日本に帰ってきた才ある留学生の誰かが、池主という学生に術を教えて襲わせた……となると、あの咒文の束も池主ではなく教えた者が組んだのだろうな」
「あぁ、かなり嫌らしい方士でしたねぇ」
「咒文の束?」
「そのおかげで汝の治療が少し遅れたのよ。五つもかけてたのぉ。その上、一つは見たこともない術で」
「なるほど……」
真備は髭をしごきながらしばらく黙り込んだ。
「……攻撃した際に術をつけられたわけですね」
「多分そうよ。その上、その見たこともない術で皇子が攻撃を受けたのよ!治癒の術をかけただけなのに」
「!……それは……咒文反転の術です」
「!?」
「咒文反転の術?何それ?聞いたことないけど」
「最新の道術なのか?」
「はい。使いどころが難しいので頻繁に使える術ではないのですが……受けた攻撃を反対の効果に変えて、相手に返す術です。例えば、五行の攻撃を反転させられると、手痛い反撃を喰らうことになる厄介な術です」
「五行相剋を利用するわけね」
「それだけ把握しているのなら、仕向けた者の見当はついているのではないか?きっと、真備もその目で見たことがあるのだろう。その者が同じ術を使う様を」
「!……確証はなく、あくまでも推測です。ここで名を挙げることはできません。それに……池主殿も、悪くありません」
真備は髭をしごく手を止めない。
「!?何で庇いだてするのよ!?」
「これは……これは、吾の落ち度なのです!吾が悪い!吾がちゃんと、彼のことを見ていなかったから……」
「皇子がいらっしゃらなかったら、汝死んでたのよ!確実に!!」
「それは……そうですが……」
「防げなかったのか?本当に?」
「!」
真備は、池主の出した拳が自分の腹に当てられた時、赤く輝く付与の咒文が自分の腹に浮かび上がったことを思い出した。
目にした瞬間に、できたことがあったはずなのは確かだ。
「……そうなのです。吾は……皇子に甘えてしまったのです」
「!?」
「きっと助けて下さるだろうから、と……申し訳ありません、皇子。きっと
「……い……いい……」
「は?」
「……いい……いいぞ真備!!」
皇子は急に立ち上がると、天を仰いで叫んだ。
「「は!?」」
「甘えて良し!!何度でも何度でも治してやろう!フハハハハ!吾の怪我などどうということはない。吾は、愛する者に頼りにされることが何よりの快事なのだ!フフフフフ!!長生きして良かった!!」
「!?皇子はもう身罷られて……うわっ!苦しいですぅ!」
皇子は上機嫌で真備に抱きつき、頬ずりした。
「はぁーっ。馬鹿馬鹿しぃ。吾は刑部省の人間じゃないから、犯人の事とかどうでもいいですけどぉ!ま、ゴタゴタが片付いたら、その反転の術とやらの術教えて頂戴!後は好きにしたらいいわ」
「はい!必ず!」
「だったらさっさと出ていかんかい!!」
広足は今までの不満を晴らすかのように、雷鳴のような大声で叫んだ。
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