「……しかし遠いな」

 皇子は勢いよく寮の門を飛び出して坊間路(京師を南北に走る小路)に出たものの、すぐに急停止してしまった。

 大学寮内で呪いを使わないと約束した以上、治癒の術でも使う訳にはいかない。

 そう思って飛び出したが、典薬寮までは遠く走っていては間に合わないのではないか。

「よし、術を使……あ、アレ忘れた」

 荷物一式は本寮の講堂に置きっぱなしだったことを思い出す。

「……そうだ!真備なら用意周到に……」

 皇子は往来の邪魔にならないような路の端に真備を寝かせ、懐を探った。

「やはりあったか。真備が好機を逃すはずがないものな……殺る気満々だ」

 懐から取り出したのは小さめに作られた斎串二本だ。

 皇子があたりを見回すと、大学寮の門から少し離れたところに、西隣に位置する宮外官衙(宮城の外にある官庁)の棟門が見えた。

「典薬寮」

 そう言うと、棟門に向かって斎串を投げる。

 斎串は真っ直ぐ棟門に向かって飛んでいき、両の本柱の根元に突き刺さった。

 すると、本柱の間にシャボン玉のように虹色に輝く薄い膜が張られた。

「よし」

 皇子は真備を抱え上げ、棟門に向かって走った。

 虹色の膜に突っ込むと、膜はまるで鏡のような水面に石を落とした時のように波打つ。

 波打った膜が皇子を飲み込むと、皇子の姿はその場から消えてなくなった。

 そして同時刻、皇子は大学寮からずっと北、宮城内にある典薬寮の門に表れた。

 方士が使う転移の術だ。

「うわっ!?」

 門のそばに居た医人(医師のこと)の男が驚いて飛び退く。

「手負いだ!今すぐしょう(ベッド)を整えろ」

 皇子は男に命令した。

「はぁ!?ましは何だ!医針生(医術・鍼の学生)の分際で偉そうに!」

「黙れ」

 まだ怒りを引き摺っている皇子の瞳が、チカリと赤く光った。

「!?……承知致しました」

 皇子と目を合わせた男は急にシュンと無表情になり、小走りで官衙の建物の中に入っていった。


 宮城の中にある典薬寮は、官衙の他に薬園、医針生の学びの場も兼ねた治療のための病棟などで構成されていた。

「ちょっと!誰でもいいから針師を連れて来いって言ったでしょ!いつまで内蔵頭くらのかみ殿をお待たせする気ぃ!?」

 痺れを切らした広足が、病棟の一つから外に飛び出し、あたりを行き交う者達を怒鳴りつけた。

 しかし、皆広足の方を見向きもせず、バタバタと忙しそうに行き来している。

 広足は首をかしげた。

「様子が変ね……ちょっといまし!何かあったの!?」

 広足はまだ年若い女医に声を掛けた。

 しかし引き止められた女医は、

「急ぎますので」

 と答えただけで、広足を避けて他の病棟の中に入っていこうとした。

「!何その態度は!?」

 広足は女医の肩を掴み、その顔を見た。

「!?……何よ、これ!」

 女医の瞳は力なく虚ろだ。

 そして、ほんの微かに赤く光っているのが広足には見えた。

 魅了の術だ。

「誰よ!?典薬寮の人間に堂々と魅了の術をかけた烏滸おこ(愚か者)は!」

「吾に決まってるだろう」

「な……!?」

 驚いた広足が振り向くと、後ろに真っ白な顔でぐったりした真備を抱えた皇子が立っていた。

「!?!!!?」

 広足は皇子の顔を見るなり華麗なターンを決めて、先程出てきたばかりの病棟に逃げ込もうとした。

「待て」

 走り始めた変な格好でピタリと止まる。

「!……こ……これはこれは皇子!お久しぶりで。昨日ぶりですかな?」

「御託はいい。汝も手伝え」

「はぁぁあ!?」

「なんだ?吾が雷で黒焦げになりたいのか?」

「!?」

 広足は、険しい顔をした皇子の瞳が、平時の深緑色ではなく紅緋の色に変わっていることに気がついた。

「……成りかけている……」

 皇子に聞こえないよう小声で憎々しくつぶやく。

 これ以上少しでも機嫌を損ねられると、真備の言うところの『勾陳』に変化しかねない。

 腕利きが集まる果ての二十七日ならともかく、今『勾陳』に成られると己だけでは完全に役不足、『あのお方』もあてにできないし、あっという間に宮城は蹂躙され内裏まで到達されてしまうだろう。

 敵に従うのは癪だが、ここは大人しく言うことを聞き一刻も早く寮の外に出て行ってもらわねば、と広足は覚悟した。

「滅相もございません!」

 広足は揖をして言った。

「『勾陳』を恐れてか。賢明だな」

 場数を踏んだ吾相手でも読心程度はお手のものか、と広足は肝を冷やす。

「……準備が整いましてございます」

 先程の女医がやってきて恭しく一礼した。


「……悪いな、こんな良い寝所を提供してもらって。吾はただ、人目のつかない場所を借りたかっただけなのだが」

 皇子は清潔な白い布がかけられた牀の上に真備を寝かせると、昨日と変わらない様子でニコニコと広足に話しかけた。

 几帳で仕切られた室内に牀は一つしかなく、他は様々な医療用具や薬草などが完備された、所謂VIP専用の病棟だ。

「寝所などではありませんよ!療治する場所で邪なことはせんで下さい!」

 広足は几帳の外、出入り口に立って声を張り上げた。

「遠慮することはないぞ!言いたいことがあればもっと近くに来て言え」

 皇子は几帳を捲って顔を出した。

 その瞳から毒々しい赤味は消えている。

「……終わったんですか?」

「これからだ。何、すぐ終わる」

「さっさと終わらせて下さいよ!それに、典薬寮の者を使役神しきがみみたいに使い回さんで下さい!」

「分かっている。だから汝を呼んだんだ」

「んんん吾を使い回すおつもりでぇ!?」

「いいからさっさと来い!」

 広足も渋々中に入った。

 皇子は嬉しそうな顔で真備の上に跨ると、次々と上衣をはだけさせていく。

「何やってんですか!邪な事はするなと申し上げましたけどぉ!?」

 広足は呆れて言った。

「他に変な傷がないかと思ってな」

「はぁ?顔色も悪いし気を失っとるようですが、何やらかしたんです?大学助は」

「学生の襲撃を受けた。多分方術だ」

「!?」

 真備の上半身が露わになったところで、広足は真備の腹が膨れ横に広がっていることに気づいた。

「よっしじゃあ早速治すかぁ」

「お待ちを!何か様子が」

 皇子が右手を真備の腹にかざすと、薄緑色の火花がバチリと散った。

 その瞬間。

 ビシビシビシッ!

 かざした右手指の股から肩に向かって、骨と肉、袖が縦に裂けた。

「ンガアッ!!」

 痛みと衝撃で皇子の体は大きく仰け反り、バランスを崩して床に転がり落ちた。

 上衣の右半分は血で真っ赤に染まり、袖の先から血が床に広がっていく。

「クッ!……仕立てたばかりの衣を駄目にしてしまった!」

「えっ気にするのそっち!?」

 皇子は苦しそうな顔で袖の上から腕を押さえ、何とか起き上がった。

「早くお治しにならないと!」

「戯け!余計な事に力を使えば、真備の治癒の時に足りなくなる!」

「だからお待ちをと申し上げたんです!皇子、これは呪いですわ」

「そんなことは分かっている!早く治さなければ、真備の方が手遅れになる!」

「ですからお待ちを!」

 広足は素早く自身の袍を脱ぎ捨てると、袖をまくって右手を真備の首筋に当て、脈を取り始めた。

 素早く体を探っていく。

 手が臍の上を押した時、

「グフッ」

「!?」

 ひと呼吸置いて、真備の口から血が漏れ出した。

「腹が膨れていると思ったらやはりそうね……皇子、大学助はわたをやられています。おそらくブチブチに切られているかと」

 広足がブヨブヨの腹を押す度に真備の口から血が漏れ、伝った血が枕を覆う白い布を汚した。

「な!?」

「しかしご安心を。微かながら息もしているし脈もある。心(心臓)は無事です」

「だが!今心は無事でもいずれ」

 再び皇子の瞳が赤くなり始めていた。

「いいですか、落ち着いて聞いて下さい」

 広足は皇子の言葉を遮って言った。

「人というもんは、腸が切れた位ではすぐに死ねません。確実に治すため、まず呪いの方を片付けましょう」

 皇子はしばらく苦悶の表情で黙っていたが、

「……くっ……従おう」

「吾が調べます」

「頼む」

 広足は素早く几帳の外に出ると、棚から呪符木簡の束と刀呪具(木簡を刀子の形に切った呪いに使う道具)を手に取り、すぐに戻ってきた。

 呪符の一枚を真備の腹の上に置き、手に持った刀呪具の鋒を呪符に当てると、

「觀!」

 と叫んだ。

 ブン――

 すると、赤く輝く咒文(ここでは呪符に書かれている文字と絵の組み合わせのこと)が五つ、まるで空間ディスプレイのように呪符の上に横並びで浮かび上がった。

 二人は真剣な顔で咒文を見つめる。

「五つもかけられているのか!?」

「……一つ分からん術がありますなぁ」

「……右から二番目か」

「皇子はご存じありませんか?」

「残念ながら、ない。習学不足を認めざるを得ん」

 息の荒い皇子は苦々しげな表情で答えた。

「吾もありませんよ。形からして呪い関連の術だと思いますけどねぇ。ちなみに左から隠匿、防御、遅発、一つ飛ばして付与です」

「そうか……あらかじめ組み上げた四つの術を、付与の術で真備の腹につけたわけだ」

「そうなりますねぇ。防御の術に何らかの術が当たると術を防ぎ、同時に遅発の術が起動して謎の術を発動させる、という仕組みですなぁ」

「!!治癒の術を防ぐのか!?何としても真備を生かさないつもりなのか!!何という悪辣な行為!!」

「なかなかにあくどい方士ですね」

「……これだけ分かればもう十分だ!すべての咒文を砕いて、真備を助ける!!」

 痛みで額に汗を滲ませた皇子が、もたつきながら立ち上がって叫んだ。

「余計な力を使えば、大学助の治癒の時に足りなくなると仰ったのは皇子ですぞ!まぁ、吾等としては皇子が力尽きて下さるとありがたいんですがねぇ」

「……言うではないか!!ではどうする!?」

「……まず謎の術、次に左から二番目の防御の術を排除すればそれで十分かと」

「分かった……吾がやる!」

「余計な気遣いですが、方術では無理ですぞ。己が知る術しか解除することはできませんからなぁ」

「五行を操って攻撃する鬼道で気を乱し、強引に咒文を砕くしか方法はない」

「その通りですわ。ですがいくつか問題があります」

「……爆ぜる汝の術は駄目だ。真備にも傷がつく。だから、吾がやらねばならん」

みましの雷も大学助に飛び火しますぞ。それに、強引に砕けば方士に知らせが行きます。最悪砕いた瞬間に襲撃を受ける可能性が」

「雷は使わんし、方士のことなど知ったことか!いいから、呪具を貸せ!」

 皇子は広足から左手で刀呪具を受け取ると、鋒を謎の咒文の方に向け、目を瞑った。

 しかし怒りと痛み、出血に意識が混濁し、ぐらりと身体が傾く。

「!?皇子!ご無理ならば吾が!」

「何だと!?問題はない!」

 広足の声掛けで意識がはっきりした皇子は、再び目を瞑って意識を集中させる。

「!?」

 広足には、刀呪具の刃の部分が薄緑色の妖気で覆われていく様子が見てとれた。

「疾ッ!」

 皇子は謎の咒文に向かって刀呪具を小さく振った。

 覆われていた妖気は小さな半月状の刃となって咒文に向かって飛んでいく。

 パキッ!

 まるで薄いガラスが砕けるように、咒文はパラパラと砕け散って消えた。

 飛んでいく刃の勢いは衰えず、几帳を引き裂いて向こうへ飛んでいった。

「……これ、昨日も使ってた術よね。思ってたよりずっと多芸じゃない!?ますます調伏しづらくなったわねぇ……」

 広足が驚いて思わず声に出した。

 皇子はもう一度刃先に妖気を纏わせ、防御の咒文にも刃を飛ばして砕く。

 そして、間髪入れずに刃先を真備の腹に当てた。

 バチバチッ!

 薄緑色の大きな火花が腹の上で跳ねた。

「うおっ!……やはり致死的な重傷ではないか!力を随分、持っていかれた……」

 皇子は耐えきれず、床に崩れた。


「!?ちょっと!壁壊してないでしょうね!?」

 広足はビリビリに引き裂かれた几帳を捲って確認する。

「……気にするとこそっちかぁ!?」

「当然ですよ!何せ吾は責任……ん?」

 真備の腹の上の咒文が、三つともサラサラと砂が飛ぶようにして消えていった。

「……方士が気づいたようですなぁ。術を解きましたよ。どう動きますかね?」

 広足はようやく起き上がった皇子に声を掛けた。

「……あの男は殺す。必ず殺す。安寧に死なせはせん、決して……」

 皇子は、呪詛を呟きながら血塗れの上衣をやっと脱ぎ捨てて、上半身裸になると左手で五つに裂けた右腕を掴んだ。

 すると、バチッという音と共に火花が腕を覆い、あっという間に腕は元に戻った。

「今はそれより真備だ。回復できたか?」

 右手を開いたり閉じたりして調子を確認しながら、今度は皇子が広足に聞く。

「間に合いましたな……脈も問題ないですし、顔色も戻りましたよ」

 広足は真備の首筋に手を当てて答える。

「まことか!?」

 皇子は真備の顔のそばまで這いより、右手でその頬をさすった。

「温かい……息もしている!良かった……良かった!」

 嬉しそうにそう言うと、安心して気が抜けたのか床に寝転がった。

 その瞳からは再び赤味は消えている。

 広足は皇子の顔を確認するとため息をつき、

「やれやれ、何とか山は越えたわねぇ……皇子、袴も汚れておりますよ」

「まことにぃ!?広足!人形ひとがた貸してくれ。使役神に替わりの衣持って来させるから」

「備品を勝手に使い込まんで下さい!」

「一枚くらい良いだろ!?」

「うぅ……」

 真備の口から、微かに呻き声が漏れた。

「真備!?気が付いたか!」

 皇子は飛び起き、真備に覆いかぶさるようにしてその顔を見た。

「!?皇子!あの、いk……!?」

 真備は突然話を止め、両手で口を塞いだ。

「!?」

「……き……気持ち悪……」

「あーはいはい分かった分かった!」

 広足は素早く几帳の外に出ると、すぐに戻ってきて、持ってきた曲物桶を差し出した。

 真備は皇子に支えられ、頭巾が外れたことも気付かずなんとか起き上がる。

 しかし、真備は両手を口に当てたまま動かない。

「どうした!?」

「……も……もった……うぷっ」

 真備は耐えきれず、桶の中に嘔吐する。

 桶の中に赤黒い血が飛び散った。

「血ではないか!?広足!これはどういうことだ!!」

「落ち着いて下さい皇子。これは腸がちぎれた時に腹の中に溜まった、古い血ですわ」

「本当だろうな!?」

「うえぇ……」

 真備は皇子に背中をさすられながら何度も戻すと、ようやく顔をあげた。

「真備!なれ泣いてるのか!?どうした!まだどこか痛むのか!?」

 驚いた皇子は、息の荒い真備の肩を抱きしめて問いかける。

 真備は涙を流しながら、

「ぉ……もぉ、勿体なくて!」

「何が?」

「折角頂いた常食がぁ……全部うぇぇ」

 言い終わらないうちに再び嘔吐する。

「「常食!?」」

 皇子と広足は口をそろえて叫んだ。

 真備は吐き終わると、広足から受け取った太布の手拭で口を拭き、

「すいません……吾、吐いたり下したりするのが本当に嫌で……」

「た・わ・け!!」

「ひぃい!」

「こんなの、我慢してどうこうなるもんじゃないでしょうがぁ!」

「折角口にできた物を吐いて駄目にする位なら、死んだほうがましだ。若い頃はそうやって堪えて過ごしたものです……」

「?なぜそう食べ物に執着するんだ?」

「皇子アレですよ!吾、一昨日の宴席でも思ったんですけどねぇ。此奴は本当に意地汚いんですよぉ!」

「!……なるほど。確かに一昨日本気で蒸し鮑の取り合いをしていたな。広足と」

「吾の事はいいんです!」

「申し訳ありません!国に帰るまで食に苦労することが多かったので……学生達の見本にならなければ、と気を付けているつもりなのですが……」

「今は自制が効かなくなって当然だ。何しろ瀕死の重傷が治ったばかりなのだからな。とにかく腹の中の物を全部出せ。後で食べるものを用意させるから」

「ほ、本当でぐげぇ……」

 皇子の言葉に励まされ、真備はまた嘔吐した。

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