右大臣藤原朝臣武智麻呂は、すでに朝堂院にはいなかった。

 真備はあちらこちらと彷徨った末、太政官庁にある武智麻呂の執務棟にたどり着いた時には、大学寮を出てから一刻(三十分)以上経っていた。

 浅紫の袍を着た武智麻呂はこの時数えで五十六歳、弟の麻呂や同年代の貴族の男達と比べると細身の体躯で姿勢良く席についてはいたが、顔色は良くなかった。

「……遅れてしまい、大変申し訳ございません」

 室内に一人案に向かい、木簡に何か書きつけている武智麻呂に、真備は揖をして詫びた。

「ふむ。だろうと思っていたよ」

「はぁ」

 武智麻呂は真備の方をちらりと見て、くすっと笑った。

「分かる。広足が嫌がらせをしたんだろう。性根は悪くないんだが、いつまでも素直じゃない男でなぁ」

「いえ、吾が典薬頭殿をお引止めしたので……」

「それも分かる」

 武智麻呂は筆を置くと、向きを上下逆にして真備に見えるよう木簡を案の上に置き、それを人差し指でトントンと叩いた。

 木簡を見た真備は笏をしまうと袖手をし、口の中でブツブツ何かつぶやいた。

 ブン――

 今まで聞こえていた外の喧騒が聞こえなくなり、静寂が二人を包み込んだ。

「……成功しました」

「ふむ。分からん」

「問題ありません。これで室内の音は外に漏れないはずです。その代わり外からの音も聞こえませんが」

「ふむ。それは分かる。これが『静寂』の術か?」

「その通りです」

 武智麻呂はふーっと息を吐いた。

「すまないね、余計な手間をかけさせて」

「滅相もありません」

 真備は袖手を解いて答えた。

「ここからの話は他人には聞かせられん。広足を引き止めたということは、勿論あのお方の事でだろう?」

「!その通りです。典薬頭殿も皇子の様子を確認されておりました……右大臣殿もご存じなのですか?皇子の事を」

「ふむ。官人のかみ故聞きたくないことだって嫌でも入ってくる。手間も増える」

 武智麻呂は顔をしかめて言った。

「宮城に詰める者を震え上がらせる邪なはずの厲鬼が、大学で学ぶことになるとは……不思議な話だが、これは安宿あすかべ、いや大后おおきさき様のご提案でな。陛下も了承された。内容は勅の通りだ」

「はぁ」

「吾は臆病故、見に行くどころか関わることすらしたくはないが……調伏しようとして下手に刺激するより、好きにさせて穏やかに過ごしてもらいたい、という想いは吾も大后様と同じだ。大事にならんよう、上手くやってくれ」

「承知いたしました」

「ふむ……いまし、怖くないの?」

「皇子の事ですか?全く」

「本当に?」

「はい。初めてお会いした時はびっくりしましたが」

「鼠と思って?」

「!?ご存知でしたか!」

「昨日広足がな」

 武智麻呂は苦笑して言った。

「……申し訳ありませんでした。学生の手本となるべき師が、初日から失態を冒してしまいました」

 真備はしょんぼりして謝罪した。

「いいやよく耐えた。吾なら講堂を飛び出すどころか、家まで逃げ帰っていただろうよ」

「お気遣いありがとうございます。あの時は不意を突かれましたが、本日の皇子は人と全く変わらないお姿でしたし……いざとなれば、吾が誅します」

 誅する、その一言で真備の顔がスッと冷徹なものに変わった。

「!……ふむ。汝は昔からそうだ。おろおろ立ち止まっても、いざという時は決して後ろには下がらん。肝の座った男だよ、学生の頃から」

 武智麻呂は真備の変化に気づいて言った。

「!そうでしょうか?」

 真備は元の柔らかい表情に戻って髭をしごいたが、ハッとしてすぐに止めた。

「無礼をお許しください……」

「やはり大学を汝に任せて良かった。汝は険が立たない」

 褒められて照れる真備を見て、武智麻呂は穏やかに笑った。

 武智麻呂は三十年以上前の大宝年間に今の真備と同じ大学助の任に就き、遷都の混乱で崩壊していた大学の立て直しに尽力した。

 真備が入学した時には既に離れていたが、その後もずっと大学寮のことを気にかけ、助力を怠らなかった。

 そのため親しかったという程ではないが、真備とは渡唐の前から面識があった。

「ふむ。ところで汝、これから大学寮はどこを改善すべきだと思う?汝の意見を聞かせて欲しい」

「……改善すべき点に関しましては、いずれ大学頭だいがくのかみ殿より上表があるかと」

「ふむ。大学頭を押しのけて、自分が意見を言うということは差し控えたい、と?」

てい(年長者に柔順に従うこと)に反すると思います」

「その通りだな。大学頭には黙っておく。これは吾が興味本位で聞くことだ。忌憚なく話してくれ」

「承知しました」

 真備は貧しい学生への救済策や釈奠のやり方など、自分の思う所を正直に話していく。

 父親の学者肌な一面を強く引き継いだ武智麻呂にとって、大学寮に関わることは好きではないまつりごとから離れられる、心の癒しだった。

 真備と言葉を交わしていくうちに気持ちが高ぶってきたのか、いつの間にか青白かった顔に赤みが差していた。

「そうか、田を持つという手もあったな」

「……あの、申し訳ないのですが、そろそろ術の効果が切れてしまいます」

「ふむ。そんなに話し込んでいたか」

「一刻経ちます」

「申し訳ないのは吾の方だ。汝に立ったまま話をさせてしまって」

「問題ありません。術を解きます」

 真備は右足をタンと踏み鳴らすと、外の喧騒が聞こえるようになった。

「ふむ……済まないが大学助、これから本題なんだ」

「は?」

「昨日はありがとう。麻呂を救ってくれて」

「!……滅相もないことです。吾が勝手に押しかけて、参議殿にご迷惑をおかけすることになってしまいました」

「ふむ。妖孼(獣の妖怪のこと)の事もあるが、麻呂の心が救われたことの方が、吾は嬉しい。おかげで今日からちゃんと朝参してきたよ」

「そうですか!政と向き合う意欲が回復されて良かったです」

「で、詫びの宴を断ったそうだな」

「申し訳ありません。日々の勤めが忙しく」

「ふむ。それは分かる。本当なら、先程の長話も宴席ですべきことなのだが」

「本当に申し訳ありません」

「仕方がない。ではもう一つ、ここで話をさせてくれ。実はな……汝に、大学を辞めて吾家わぎえ文学ふみはかせになってはもらえまいか」

「は?」

 真備はキョトンとした顔をした。

 文学とは、親王家の家庭教師のことをいう。

 また、藤原氏のような大貴族も皇族と同じように、家庭教師を雇って子弟に英才教育を施していた。

 つまり、真備に藤原氏専属の家庭教師になれということだ。

「汝は大学で紀伝しか教えていないだろう。しかし唐では四書五経はじめ様々な物事について幅広く学んできた。それを教えないままでいるのは勿体ない。是非とも将来ある吾が子等に伝えて欲しい」

「……恐れ多いことですが、一言申し上げます」

 真備は再び揖をして言った。

「学問は、独占すべきではありません」

「!」

「唐国で学んだ経書の解釈については、博士助教の皆様に全て伝え理解していただいておりますので、何の問題もありません。ですからご子息の皆様には、是非とも大学に来ていただきたく思います。そして、経書以外のことも幅広く知っていただきたい。五常の智は、経書を暗記するだけでは機能しないのです」

「……では、もし吾が汝の話を聞きたいと大学に行ったとして、汝は講説してくれるのか?」

「!?勿論です!いつでもお待ちしております!」

「フフッ!そうか。でも学生達にびっくりされるだろうよ」

「そのようなことはないと思います」

「!……そう言えば、吾よりもっと恐ろしいお方が居られたな……ふむ。分かった。汝の言う通りだ。汝を独占しようなどと、おこがましい限りだな。すまん、今の言葉は忘れてくれ」

「はぁ」

「長い間引き留めてすまなかった」

 真備は再び揖をして退出した。


「……聞いたか?」

 武智麻呂が声を掛けると、浅緋あさあけ(黄みがかかった薄い赤色)の袍を身につけた青年が入ってきた。

 整った顔立ちに堂々とした体躯だが、眼光が鋭すぎて近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。

「ほとんど聞こえませんでしたよ」

 男は揖もせず、不機嫌な顔で武智麻呂に話しかけた。

「盗み聞きだからだろう。なれは太政官の者ではないだろうが」

「将来入るのですから、今のうちから内情は知っておくべきでしょう?」

「全く……まずは自分に与えられた務めを果たしに行け。大学助の話は聞いたか?聞いたな?」

「傲慢不遜でしたね。吾等の依頼を突っぱねるとは」

「どこをどう聞けばそう思えるのだ!大学助は何も間違ったことは言っていない!」

 男と話すにつれて、武智麻呂の顔はどんどん暗く不機嫌なものになっていく。

「大体、なぜ吾ではなくあの男が大学助なのです?あの男が帰って来なければ、大学助になったのは吾だったのに!」

「それが駄目なのだ!」

「!?」

「仲麻呂よ。大学助を取り込みたければ、自分から揖をして教えを請え。吾を巻き込んで恥をかかせるな」

「揖を!?吾より下官の男にですか!?」

「汝は本当に礼がなっていないな」

 武智麻呂はそう言って、深くため息をついた。

「……大学助を取り巻きに加えようとしても無駄だぞ。あの男は温柔に見えて中身は硬骨だ。陛下以外、吾等は勿論どこの誰にも属さないだろうよ。上手く使いたいなら別の方法を考えろ」

「別の方法って……」

 仲麻呂は舌打ちをした。


 太政官庁を出た真備は、小走りで大学寮に戻ってきた。

「……早く荷物をまとめて帰らないと、夕餉の支度が間に合わないぞ。市も行きたいし、どの仕事を持ち帰ろうかなぁ……」

 ブツブツ呟きつつ、執務を行う官衙の門をくぐろうとしたその時。

「博士ー!」

 院の方からやってきた皇子が真備に声を掛けた。

「大津殿」

「博士!旬試じゅんしの事なのですが」

 立ち止まって振り返る真備とやってくる皇子の間に、一人の学生が割って入った。

 肌が白く眉目秀麗、まるで郎女いらつめと見紛うほどの繊麗な少年だ。

「おや?みましは……?」

 学生は微笑んで真備に近寄ると、固めた拳を真備の腹に向かって打ち込んだ。

「!?」

 拳は腹にあたる寸前で止められている。

 しかし。

 バンッ!

 何かが破裂したような音が響いた。

「な……」

 真備は驚いて学生の顔を見たが、

「かはっ!!」

 突然腹の中の物を吐き出した。

 そのままうずくまり、地面に倒れる。

「真備!?」

 皇子が思わず名を叫んだ。

 地面でのたうつ真備を見ても、学生の表情は変わらない。

まし、真備に何をした!?」

 真備に駆け寄った皇子が、憤怒の形相で学生の胸に手を当てた。

「!?」

 驚いた皇子が下を見ると、真備の手が皇子の足首を掴んでいる。

「い……いけ、ません……を、使うのは」

「!?」

 真備はなんとか言葉を吐き出すと、そのままぐったりと動かなくなった。

 なんだなんだと野次馬達が集まってくる。

「……クソッ!!典薬寮へ行く!!」

 皇子は血の気がなくなり真っ白になった顔の真備を抱き上げると、学生を殺さんばかりに睨みつけ、寮の外へ駆けだした。

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