真備と広足は、本寮の北に付随する廟倉と呼ばれる敷地にやってきた。

 敷地には、釈奠を行う際に必要な道具等が収められた高床式倉庫が並んでいる。

「昨日は典薬頭殿を巻き込んでしまい、大変ご迷惑をおかけしました。お怪我の方は大丈夫ですか?」

「あの程度、かすり傷にもなりゃしないわ……それより汝、本当にあのお方をここで学ばせるつもり?」

「はい」

「!理解不能ね、高貴なお方が考えることって……ってか、大体学ぶ必要なんてあんの?五経はともかく、書なんて今更じゃない!」

「決まりは決まりですから」

「アッタマガッチガチね!皇子が何かやらかしたらどうすんの?責任取れんの!?」

「呪いは使わないと約束しました。孔宣父の前で」

「約束ねぇ!」

 広足は吐き捨てるように言った。

「あのお方は目的のためなら口約束なんて平気でぶち破るクチよ!信じられるわけないじゃない!」

「口約束ではありません。誓いを立てたのです」

「だ・か・ら!約束破らないよう、汝お得意の道術でそれこそガッチガチに固めないと意味がないって言ってんの!」

「吾のは道術ではなく……それはともかく。吾には、やはり今の皇子が『勾陳』となるようなお方に見えないです」

「……前々から思ってたんだけど、何で汝は皇子の事知らなかったの?ここで寝起きしてたんでしょうが」

 京から遠い国から来た者など学生の何割かは、大学寮に隣接した直曹じきそうという寄宿舎で寝起きしており、真備もその一人だった。

「えっ!?ここで何かあったのですか!?」

 真備は奥二重の目を丸くして驚いた。

「呆れた!本っ当に気づいてなかったのねぇ。ここじゃなくて宮城の方よ」

「直曹と寮以外行ったことがほとんどありませんでしたので、宮城のことなど全く分かりません。皇子には渡唐直前に大極殿で初めてお会いしましたが、その時は今と変わらないご様子で……あの、その件で一つお伺いしたいのですが」

 広足はイラっとした顔で、

「汝、すぐ吾に質問してくるわね!汝の師父じゃないわよ吾は!」

「いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません。今回は仲麻呂の事なのです」

「仲麻呂ぉ?右大臣殿の仲子なかつこ(次男)の?」

「あ、いえ違います。阿倍朝臣仲麻呂です。吾と共に唐に渡った……へへ」

「何でそこでちょっとニヤけんのよ気色悪い!それが何?」

「なぜ阿倍仲麻呂は皇子と戦う必要があったのでしょうか?」

「典薬寮が留学生のことまでいちいち把握なんかしてないわよ。式部省じゃあるまいし」

「実は、皇子が仲麻呂との事は典薬頭殿に聞け、と」

「はぁ!?皇子が?」

 広足は嫌そうな顔をした。

「皇子が命を助ける代わりに唐の国で皇子を救う手立てを見つけよ、と仲麻呂に言ったそうなのです」

「命を助ける?」

 広足は腕を組んで黙り込んだ。

「……あの、多分二十年前の霊亀元年のあたりだと思うのですが」

「うるさいわね!分かってるわよ!」

「!申し訳ありません……」

「……まぁ、昨日のことがあるからね。ちょっとだけ教えてやるわ。これで貸し借りなしってことで、いい?」


 ――厚い雲は冬の星空を覆い隠し、平城ならの宮を真暗に落とし込んでいた。

 手に持つ松明の灯りを消さんばかりの激しい風が吹き、バリバリと天地を引き裂く音と共に稲妻が宮城の四方を駆け巡る。

 厳冬の嵐は雨を雪に変えて宮城を守る者達に襲い掛かり、ますます状況を苛酷なものにした。

 この荒れた状況の中、大極殿院の広い前庭の中央、大極殿の屋根より高い何かが夜の闇より黒い霧を纏って立っていた。

 あたりは雪混じりの暴風が吹き荒れているが、霧は吹き飛ばされることなく何かの周りを渦巻いている。

 霧の中から人間の絶叫や慟哭、嬌声が、雷鳴や風の音にまぎれて微かに聞こえた。

 霧に包まれた中に何がいるのかは分からない。

 その何かは東に向かって移動し始める。

「『龍』が動いたぞ!」

 大極殿院と東隣の内裏との間にある往還に、靫負達が詰めていた。

 衛士と変わらない装備だが、靫負は普通の衛士ではなく、超常の才を持ち怪異と戦ったことのある軍人いくさびとと、方術や鬼道を操る呪師ずしの混成集団だ。

「内裏を守れ!矢を射かけよ!」

 指示を出す声が雷鳴にかき消される。

 しかし声は明瞭に聞こえなくても、靫負達は指示通りに矢を放った。

 『龍』を大極殿院の外に出せば、自分達の命が危うくなることを知っていたのだ。

 しかし放たれた矢は暴風に煽られて、『龍』に届くどころか回廊を超えることもできず、あらぬ方向にばらばらと飛んでいった。

「こっちに来る!乗り越えるぞぉ!」

「おい下がってくるな!弓が使えんだろうが!」

 恐怖に顔を歪ませた靫負達は、矢を放ちつつもじりじり後退し始めた。

「陛下をお守りできないのならばここで死ね!逃げることは許さんぞ!後しばらく耐えよ!」

 隊長らしき人物が鼓舞する怒鳴り声が聞こえるが、歴戦の勇士であるはずの靫負達の動揺は収まらない。

 『龍』はゆっくりと回廊に向かって進み続ける。

 毒霧は『龍』より先に回廊を乗り越え、布に墨が滲みていくように靫負達を包み始めた。

「逃げろ!!」

「毒霧に触れるな!死ぬぞー!」

 わああと叫び声をあげて、靫負達はまさに蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 地面に落ちた松明の火が、霧に包まれると同時にシュッと消える。

 『龍』の事をよく知らないのか、呆然と霧を見ていた若い一人が逃げ遅れ、全身を包み込まれてしまった。

「何やってんだたわけ!逃げろと言っただろうが!?」

 逃げる靫負に混じっていた、まだ壮年の姿の広足が、毒霧の中に手を突っ込んで若者を引き出した。

「ゲエッ!ゲホッ!」

 中から引きだしたものの、若者の身体にはまだ薄く毒霧が纏わりついている。

 若者は喉を押さえて苦しみ、地面をのたうち回った。

「……チッ!」

 広足は懐から呪符木簡を取り出すと、地面を転がる若者の胸に押し当てた。

「解!」

 広足が叫ぶと、若者の身体がビクンと跳ね上がる。

 同時に毒霧はスッと消えてなくなった。

 呪符はボッと炎に包まれると一瞬で燃え尽き、同時に若者は苦しむのをやめた。

「貴重な一枚なんだぞ!こんなちょっとしたヘマで無駄にさせるな!」

「あ……あり……ゲホッ」

「……ましのためじゃない。仲間を見殺しになんかしたら、媛様に合わせる顔がない。それだけだ」

「?」

 広足は咳き込む若者に肩を貸し、『龍』から距離を取るべく南へ向かって走り出す。

 『龍』は回廊を乗り越えている最中なのか、毒霧の山は回廊に覆いかぶさっていた。

 往還に靫負達はいなくなっている。

「……靫負隊はもう壊滅か!年々使える呪師がいなくなるな。後は僧達の法力に頼るしか……クソッ、物部連も形無しか」

 息の荒い広足は振り返り、毒霧の山に向かって毒づいた。

 すると、山の奥でチカリと紅い光が点滅した。

「!?こちらに気付いた!」

 『龍』は向きを変え、広足達の方へ進み始めた。

 広足はまだ動けない若者を脇に抱えて全速力で走るが、『龍』に先行する毒霧が静かに広足に迫る。

 抱える若者の足に毒霧が何度も触れようとするが、広足はその都度若者の身体を引き寄せ、すんでの所で躱していく。

 しかし毒霧は、今度は若者ではなく広足の右足に触れた。

「!?」

 焼けるような痛みを感じて足がもつれ、広足は地面に倒れてしまった。

 二人に毒霧が覆いかぶさろうとした、その時。

 ヒュン――

 南の方から矢羽の黒い矢が一本、『龍』に向かって飛んでくる。

 矢は暴風の中でも揺らぐことなく真っ直ぐ飛んで、毒霧の中に消えた。

 すると、二人に伸びていた毒霧がスッと『龍』の方へ引いていった。

「誰だ!」

 広足は足を押さえながら南を見た。

「……あんな遠くからか!?」

 大極殿院の南門、閣門の屋根の上に、白い影が見えた。

「……御杖代様!?」

 ようやく体を動かせるようになった若者がつぶやく。

「いや、違う。男のようだ」

 広足はため息をつくと、

「アレを当てにするな。立てるか?立てるな!よし、とにかくここから離れるぞ」

 広足は若者の腕を取って再び走り出した。


 閣門の屋根の上に、白い衣を纏った人がひとり立っていた。

 頭巾は被らず、髻を解いた髪に白い木綿ゆう(こうぞのこと)の抹額まっこう(鉢巻)をつけている。

 袴はもちろん、身に纏う絁の袍も内衣も、腰に巻いた緒も白い。

 くつと佩いた大刀は黒かったが、黒漆の大刀は金銅の装飾がある豪華な作りだ。

 腰には黒羽の矢を入れた蒲穂で作られたゆぎ(矢を入れる筒)を掛け、手には朱塗りの丸木弓を持っていた。

 背丈はあるがまだ若く華奢な体つきで、十代後半の年齢に見える。

 少年はその傷一つない美しい顔に、これ以上ない位険しい表情を浮かべ、靭から矢を一本抜いて弓につがえた。

「……吾はみましを倒して唐へ行く!行けないならば、ここで死ぬ!」

 少年は迫ってくる『龍』に向かって叫ぶ。

「唐へ行けなければ、生きる意味なんて一つもない!ないんだ!」

 弓を引き絞る手は心なしか震えている。

「爺様……」

 少年はしばらく眼を固く瞑っていたが、覚悟を決めて目を開いた。

「……心が真っ直ぐ正しくあれば、恐れるものなど何もない!!ゆくぞ!!」

 少年は矢を放った。


「……宮城での事を知らなかったというなら、十二月二十七日の夜の事も知らない訳ね」

「?大祓の日ではなく?」

「毎年その日の夜になると現れるのよ、汝の言う『勾陳』が」

「!?」

「汝が皇子を見たっていう大極殿にね。そんでもって内裏を襲撃するわけ」

「内裏を!?初めて聞きました」

「知っているのはごく一部だけね。今年も見られるはず……で、その時にね、時々やってくるのよ。汝の言う『勾陳』を覆滅して名を上げようっていう小僧しょうそう(戒行の足りない僧や私度僧のこと)や左道(厭魅や蠱毒で人を殺す呪い師)の類が……ちょっと!吾は違うわよ」

「!吾は何も申しておりません」

「汝が言いたそうな顔してっから言ってんの!」

「あの、なぜ二十七日なのでしょうか?」

「……思う所があるのよ、色々と」

「内裏を襲撃、ということは、皇子は大君の御命を狙っておられるのですか?」

 真備は顎髭をしごきながら質問を続ける。

「陛下は日並皇子ひなみしのみこ(草壁皇子)の孫にあたるからね。日並皇子の血を引くお方のご即位を絶対に認めないのよ、あのお方は」

「そうでしたか。では、仲麻呂は皇子を覆滅しようとした、ということでしょうか?」

「……そういう連中の中にいたかもね」

「仲麻呂は何故覆滅する必要があったのでしょうか?」

「そこまで知らないわよ!こっちだって生きるか死ぬかの中で他人の事なんてそんな……!あれ?でもなんで助けてんの?いつもはお構いなしのはずなのに」

「仲麻呂だけ助けたのですか?他の」

「いつまでもビヨビヨしつこい!どうしても戦う理由が知りたけりゃ、阿倍氏の誰かに聞けばぁ!?」

「!?」

 広足は真備の質問攻めを怒鳴って遮った。

「……申し訳ありません。ですが、典薬頭殿のおかげで今まで知らなかったことを知ることができ、とても助かりました。ありがとうございます」

 真備はそう言うと、革帯に挿していた笏を取ってゆう(笏を持ち上体をやや前に傾けてする礼)をした。

「フンッ、相変わらず大仰ね……さて、皇子の様子も確認したし、もう典薬寮へ戻らないと」

「貴重なお時間を割いて頂き、ありがとうございました」

 広足は真備に背を向け、廟倉の敷地から出ようとしたが、ふと足を止めた。

「……おっと」

「?」

「そうそう、汝に伝言があったわ。右大臣殿が、汝に話があるから至急来るようにですって。朝堂院でお待ちよ」

「へ!?」

 真備は飛び上がって驚いた。

「至急ですか!?それは早く参じないと!」

「汝が吾を質問攻めにするから悪いんじゃない。右大臣殿、今頃お怒りかもねー」

「!!承知しました!」

 真備はわたわたと慌てて廟倉から出て行った。

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