「……汝が……昨日……」

「……だからそれは……」

「……吾がこの前の……それで……」

「……だったら吾だって……」

 学生がくしょう達が小声でひそひそ話している。

 あちこちで聞こえるひそひそ話が積み重なって、講堂内は騒然としていた。


 天平七年九月初旬(新暦九月下旬)――

 大学寮には大小合わせて五つの院(学生が教育を受ける場所のことで、掘立柱塀に囲まれた敷地内に講堂などが建つ)があった。

 儒学についてより詳しく教える明経院、律令について教える明法院、数学を教える算院、漢文学などを教える文章院、そして他の院より大きい、大学に入った者すべてがまず学ぶ書(漢字の書き方)・音(漢語の読み方)と儒学の基本である論語・孝経について教える本寮。

 まだ大学に入りたて、無位の証である灰がかった黄色の袍を着た少年達は、本寮の講堂で書の講義を受けていた。

 板間に座り、文几ふづくえ(ローテーブル)に向かって手本を見ながら習字に取り組む。

「静かに!」

 学生の一人の手を取って、筆の使い方を指導していた書博士(教員の事)が注意した。

 ざわつく学生達がちらちら見ている視線の先、講堂横の中庭に下道真備がいた。

 真備が中庭にいること自体は珍しいことではない。

 大学助となってから、毎日のように学生達の様子を見に訪れているからだ。

 ニコニコ笑いながら袖手しゅうしゅ(両手を袖に入れること)して学生達を眺めている様子は、まだ経験の浅い学生達が見ても人畜無害、先日の講義で鼠に驚き騒いだ事件のこともあって、大して怖い人間ではないと思われていた。

 しかしその真備が、今日は今まで見たことのない厳しい顔で髭をしごきつつ、講堂内の様子を観察しているのだ。

「……まさか……」

「……やっぱり……」

「……でも……」

 学生達のひそひそ話は続く。

 書博士が大きな声で再び注意しようとしたその時。

「原因は吾だな」

 講堂の後ろの方から、他の学生よりも一段低いバリトンボイスが響いた。

 全員が声の主の方を見る。

「あー……」

 学生達から声が漏れた。

 同じく黄の袍を着た皇子が、一番後ろの席に座っていた。

 他の学生達より年は十歳ほど上で、背丈は頭一つ高い皇子は、明らかに異質な存在だ。

 しかも、書博士が指導する隙が無いほど完璧な姿勢で筆を運んでいる。

 どうしてここで学ぶ必要があるの?

 学生達は全く理解できなかった。

 しかし、在学中は長幼の序列を守らなければならず、明らかに年長者である皇子に「何でここに来たの?」などと気さくに声を掛けられる猛者はいなかった。

 皆が心の中にモヤモヤを抱えていたところに険しい顔の真備が登場し、最終的に当人が口を開いて認めたことで、

「あぁ、やっぱりこの人訳ありなんだな」

 と、一同納得したのだった。

「ふぅむ。この整っていて力強く、それでいて穏やかな書風は欧陽詢のものか。当代は王法(王羲之の書風)一辺倒という訳でもないのか?興味深い……」

 書博士が書いた手本を真剣に観察しながら、正確に木簡へ書写していく。

 ようやく少し落ち着いた講堂で、皇子の学生生活が始まったのだった。


 開け放たれた南の扉から、朝の陽射しが暗い廟堂に差し込んでいる。

 廟堂とは孔子廟の事で、毎年春と夏に行われる釈奠せきてんという孔子を祀る儀式を行う、大学寮の中で最も神聖な場所だった。

 堂内の壁に孔宣父(孔子)が描かれた絵が飾られている。

 その絵の前には、銅でできた香炉と燭台の置かれた案(机)、唐櫃からびつ、唐製の板足案(テーブルのこと)と胡床あぐら(奈良時代では肘掛けと背もたれのある腰掛けのこと)、月牙凳げつがとう(座の部分が三日月型に窪んだ背もたれのない腰掛け)のテーブルセットが順に配置されていた。

 堂内を香烟がたゆたう。

 参議藤原朝臣麻呂の屋敷で妖孼ようげつ退治を行った翌日。

 真備と皇子は孔宣父の前で正対していた。

「……はい。束脩そくしゅは確かに承りました」

 真備は唐櫃の中を確認して言った。

 中には入学時に納める決まりとなっている絁が三端(一端は約十五・八メートル)と酒壺が三口、乾し肉が三束入れられていた。

 皇子は嬉しそうにニコニコして上座の胡床に座っている。

「学令で定められた量よりも、三倍多いのですが」

 真備は向かいの凳に腰かけて言った。

「一昨日迷惑をかけたからな。これで許してはもらえないだろうか?」

まいないは受け取れませんね」

「!……これは賂ではない。寄進だ」

「寄進」

「真備が受け取れないということなら、貧しい学生達のために役立ててくれ。貴人の子息ではない者もいるだろう?」

「承知しました。しかし、よくお気づきになられましたね。六位以下の官人の子息や、京師以外の遠方からきた学生の中には、日々の食事にさえ事欠く者が何人もおります」

「何人もいるのか!?では、この程度では全く足りなかったな……済まない」

「とんでもございません。みましのような高貴なお方に大学寮の現状を理解していただけただけで、充分ありがたいことです」

「理解したとしても、今の吾に改善させる力など無きに等しいのだが……」

「理解して下さる方がいるというだけで心強いです。すぐには難しいですが、少しずつより良い環境に整えます。必ず」

「意志が固いな」

「そのために唐へ行ったのですから」

「ほう!血のつながらない者のためにその身を捧げることができるとは……まさに義の体現!素晴らしい!」

 皇子は感動で身を打ち震わせた。

「大袈裟じゃないですか?」

「いや、本心だよ……さて。これで問題なく入学できるだろう?」

 皇子は胸を張って言った。

「入学できるのは原則十三歳から十六歳(満十二歳~十五歳)までですが」

「十六歳だ」

「十六歳」

「吾十六歳だから!」

「……どうしても学びたい、ということなのですね?」

「決意は固い」

「承知しました」

「!!良いのか!!本当に!?」

「今決意は固いと仰ったではないですか」

「いや、もっと抵抗されるかと……昔から大体吾のやることは突拍子もないと言われて、断られてばかりだったからな」

「御自分で把握しておられるわけですね、突拍子もないことをしていると」

「吾のやってきたことの色々が最終的に吾を死に至らしめることになったとなると、流石に認めざるを得ない」

「?仰ることの意味がよく分かりませんが……実は、今朝大君から吾に再び密勅が下りたのです」

おびと(聖武天皇)が何だ」

「皇子が望むならそのようにせよ、と」

「偉そうに!」

 皇子はこの上なく嫌そうな顔をした。

「真備の意向ではないのか!?」

「吾は一介の官人にすぎませんから、私情を挟むことはできませんね」

「もし首が駄目だと言ったら、拒んだか」

「無論です。公吏は大君の言に従うのみ」

「……もし、首が真備の好きにしろと言ったら?」

「受け入れます」

 真備は即答した。

「!!」

 真備の言葉に、皇子の顔がぱっと明るくなった。

「そうか!……理由を聞いていいか?」

「孔子が貧しい顔子(孔子の弟子顔回のこと)を受け入れたように、学びたいという意欲があるならば、貴賤や貧富の別なく皆受け入れるべきと考えております。皇子は才があり、習学により自己を成長させたいという意欲があります。学ぶに十分足るかと。誰かを蹴落として入ったという訳でもありませんでしたし……まぁ、十六歳という点は気になりますが」

「おお……素晴らしい!流石真備!ありがとう!」

 真備は身を乗り出して抱きつこうとする皇子を右手で押し飛ばした。

「大学に入ってただ学べばいいという訳ではありません。大学は官人を育成するための場所。最終目的は考試(官吏登用試験)の合格です」

「受けていいのか!?」

「そうなりますね」

「よし、よしやろう!吾の実力首に見せつけてやる!そうだな、受けるとするなら真備と同じのがいいな。必ず及第してみせよう!」

「楽しみにしております」

 飛び跳ねんばかりに喜ぶ皇子を見て、ここで初めて真備は笑顔を見せた。

「……さて。当然ですが学令には従っていただきます」

「目を通して理解したつもりだ」

「はい。そして皇子には、もう一つ必ず守っていただきたいことがあります」

「何だ?」

「寮内でまじないは一切使用なさらぬよう」

「!?……それは何故?」

「人と同じ姿で人のように振舞っておられるが、皇子は人に仇なす厲鬼れいきであること、吾は忘れておりません」

「!」

「数多くの学生と共に過ごせば、時に諍いも生じましょう。しかし、その解決のために呪いを使うことは絶対に認めません。もし皇子が『勾陳』となって寮内で学生を傷つけようものなら、吾は即座に皇子を誅します。よろしいか?」

 真備の顔は厳しいものになっていた。

「……孔宣父に誓って」

 皇子も真剣な顔で答えた。


「……とはいえ、やはりどう見ても勾陳には見えないな。異質ではあるが……」

 真備は顎髭をしごく手を止めてつぶやいた。

 五つの院は規模の大小はあるが、中庭を囲むように東西に講堂があり、その北に廟堂があるという配置に変わりはない。

 それぞれの堂は中庭に向かって扉がつけられているので、中庭に居れば開け放たれた扉から堂内が見えるようになっていた。

 皇子は異質ではあるものの、悪質には見えない。

「……勾陳そのものとなった時は、自分でもどういう状態なのかあまりよく分からないのだ。ただ、その時はいずれ必ずやってくる」

 昨日、皇子は自ら勾陳になることを匂わせる発言をした。

 本人にも自覚はある。

 しかし、何がどう恐ろしいのか?

 真備はまだ見当がつかなかった。

 それに、皇子と阿倍仲麻呂とはどのような縁があ

「おい!」

 突如、後ろから尻を蹴り上げられた。

「うg!!」

 真備は慌てて口を押さえ、辛うじて大声を出すことを回避した。

 が、蹴られた反動で少し体が浮き、前につんのめる。

 バタバタしながら何とか態勢を整え、顔面から地面に突っ込むという醜態は免れた。

「……な、何用です典薬頭殿!?」

 振り返ると、真備の後ろで典薬寮の長である韓国連広足からくにのむらじひろたりが仁王立ちしていた。

「なにぼさーっと突っ立ってんのよ!務めはどうしたのぉ?おサボり中!?」

「し、静かになさってください!今講義中ですよ!」

 真備は小声で広足を制した。

いましが笑われてんのよ!何よ、「いつも通りだ」って!」

「!それはっ……」

 講堂から学生達のくすくす笑う声が聞こえてくる。

 真備の顔から険しい表情は消え、いつものほわほわっとした顔に戻っていた。

「汝って好かれてんのか馬鹿にされてんのかよく分かんないわね。まぁいいわ。それより……」

 二人は講堂の中を見た。

 皇子は変わらず真剣な表情で習字に取り組んでいる。

「……本当にいるわね」

「進士試の甲第が目標だそうですので」

「進士!?一番難しい考試じゃない!」

「吾と同じのがいい、と仰っておいででした」

「はぁ!!何よ汝それ自慢!?」

「え!?そういう訳ではありませんが……ですからお静かに!」

 皇子のいる西の講堂だけでなく、いない方の講堂からもなんだなんだと学生達が中庭を見始めた。

「……場所を替えましょう!」

 真備は広足を促し、慌てて中庭から出て行く。

 皇子は二人の様子を見やってくすっと笑った。

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