厲鬼ふたたび
序
「向こうのあの山は何だ?
男は足を止めると、一人つぶやいた。
天平七(七三五)年、九月の初旬――
峠では葉の赤く色づいた木々が生い茂っていて見ることはできなかったが、下り坂になってようやく山峡から眼下に河内の平野を見下ろすことができた。
しかし、男が今回歩いている道は南都道よりも北にあるため、宮殿とかつては大海の一部だったという
その代わり、海へ向かって穏やかに流れる幾つもの碧い川と、金色に輝く葦の原が見えた。
男は蓑笠を括りつけた大きな麻袋を地面に置くと、肩から下げた丸く平たい須恵器の水筒を手に取った。
年の頃は二十代半ば。
背が高くがっしりとした体格で、
官人の男は水筒の水を数口飲むと、振り返って自分が歩いてきた坂を仰ぎ見た。
「確かに
幅二メートル半ほどの道は凸凹もなく清潔に維持され、道の水はけをよくするために作られた側溝には澄んだ水が流れていた。
「……クウ」
官道に比べて行き交う人の姿は少ない。
「さて出発するか。日暮れまでには
そう言いながら麻袋を手に取る。
男は一人旅の寂しさを紛らわせるためか、独り言が多くなっていた。
「クウ」
「飯を食っている時間などないぞ。もうすっかり日も高くなってしまった。夜明け前に京を出たんだが」
「クウ」
「ところで本当に橋はあるんだろうな?そういえば、その渡る予定の高瀬という橋も行基が架けたらしい」
「クウ」
「だから食わんと言っているだろう!」
男は声のする方、つまり自分の足元を見た。
「ナァ、クウ」
「!?」
そこには、妖異がいた。
よちよち歩きができるようになった幼児位の大きさ。
真っ赤な肌に毛は一本も生えていない。
短い角が二本生えた頭は異様に大きく、体の半分以上もあった。
何一つ身につけていない身体の肉はぶよぶよとしており、男にしがみつく手には水かきがついている。
厚ぼったい瞼は閉じられて、瞑った目では何も見えないはずなのに、なぜそれが肉のついた脚とわかるのか。
妖異は頭に比べて小さな口を開けて、今にも男の臑を齧ろうとしていた。
「疾ッ!」
男は素早く抜刀すると、妖異の頭に突き刺した。
「プギッ!!」
妖異の頭がパンッと弾け、体ごと霧散して消えた。
「油断していた!昼間でもアラガミが出るのかここは!」
男は横刀を手にしたまま、麻袋を担ぐ。
「……見たこともないアラガミだ」
そう言うと、険しい顔で横刀を構えた。
行く先から同じ妖異が何体も坂を上ってやってくる。
妖異達の身体はやや透けており、向こうが見える。
男は見鬼(霊的な存在が見える霊能者)だった。
「急ぐというのに!」
男は片手で横刀を振るい、跳んでくる妖異達を薙ぎ払いながら坂を下った。
「クウ……」
「クウ、クウ」
「ナァ、クウ」
「!……なんだ?」
男は歩みを止め、路肩の茂みに目を凝らした。
茂みの奥から妖異達が何匹も現れ、男に纏わりつこうとする。
男は妖異を斬りながら中に入った。
「!?」
茂みの中に、女が斃れていた。
横刀を振って妖異達を牽制しつつ、男は目を凝らして女を見る。
三十代に見える女はボロボロに汚れた麻衣を纏っており、良民なのか賤民なのか区別がつかない。
まだ死んで間がないのか、蠅が数匹飛んできてはいたものの、痩せ細った体に蛆は湧いていなかった。
「?身体に黒い?……いや、赤い点が?」
男はもっと観察しようと近寄った。
その時、女の胸から妖異が頭を出し、
「ナァ、クウ!」
と、素早い動きで男に這い寄ってきた。
「!」
男はしがみつかれる寸前で何とか斬り払うと、茂みを出て道に戻った。
「……そうか、此奴等は瘟神だ」
女は男が今まで見たことのない病で死んだのだ。
男は瘟神達を振り切るため坂を駆け下ろうとした、その時。
「ヒッ!……ヒッ、ヒー!!」
若い女の悲鳴があたりに響いた。
「!?」
男は再び茂みに飛び込み、声のする方へ駆けた。
しかし急に足を止め、舌打ちをする。
一人の少女が下草の上に押し倒され、男二人に組み敷かれていた。
三人の衣は既に乱れている。
「どうせ
少女を観念させようとしているのか、男の一人が声を掛けた。
若いが痩せ細って目の落ち窪んだ男達は、やってきた男に気づいていないのか互いに早く早くと急かしながら、抵抗する少女の脚を高く持ち上げ、股を広げようとする。
しかし少女は死に物狂いで暴れると、驚いた男の手を振り払い、なんとか身を起こした。
「!」
男はこちらを向いた少女と目が合った。
「たっ、た、助け……ヒッ、んぅ!?」
少女は再び男達に押し倒され、もがきながら男に助けを求めた。
武器になりそうなものどころか金目の物が見当たらない上、引率の
遠い国から来た者ならば手持ちの食料も尽きているはず、生きて故里に帰りつくことは難しい。
運脚達が自棄を起こしたくなる気持ちも分からなくはない。
少女の方も、家族か里人か、誰かとはぐれ一人ならば親鳥を亡くした雛と同じで、無事生き抜くことはできないだろう。
何度も旅をしていれば、子供が大人に襲われる様を目撃するなど、官道の側溝に人の死体が落ちているのが普通の今生では別段大した事でもなかった。
しかし、目が合ってしまった。
助けを求める相手を無視し、何事もなかったかのようにその場を立ち去って己の故里へ帰るようなことはできない。
かつて大王と婚姻関係を結べる程の大勢力を率いた、誇り高い氏族の血を引く己がそのような卑小さでは父祖に面目が立たない。
そのための「力」ではないのか?
男は麻袋を投げ捨てて駆け寄ると、まず少女の上半身を押さえつけていた運脚の胸を思いきり蹴り飛ばした。
「!?」
不意をつかれた運脚は吹っ飛び、傍らに生えていた木の幹に頭をガンと打ちつけ、その場にうずくまる。
そして、自分の物を持って少女に覆い被さっていたもう一人の運脚に飛び掛かった。
「な!?」
逆に組み敷かれる立場になった運脚は、己の身に何が起こったのかまだ分からないのか、口をパクパクさせて男を見た。
「選べ。刃で死ぬか、病で死ぬか」
馬乗りになった男は、運脚の喉元に刃先を当てて言った。
「し、死にとうない!」
やっと状況を理解したのか、震える声で返答する。
「よく聞け。近くに亡き骸がある。おそらく病で死んだ。そして、その病を引き起こすアラガミが
「!?そんな!」
「ではどうする?ここで死ぬか、逃げて生きるか」
男は刃先を喉元に突き立てて選択を迫った。
血が滲む。
「い、生きるー!」
男が立ち上がると、運脚は慌てて木の根元で頭を押さえうずくまる仲間を抱え上げ、道とは違うあらぬ方向へ茂みの中を行ってしまった。
「あっさり引き下がったな。根は邪ではなかったのかもしれん。魔が差すとはこういうことなのだろう……だが」
男は運脚達の姿が見えなくなったのを確認すると、振り向いて少女を見た。
「ヒッ……いっ、いっ、あ……」
少女は震えながら男から少しでも距離をとろうともがいた。
「ま、そうなるよな」
歩みを止めた男は申し訳なさそうな顔をしてため息をつくと、少女から背を向けた。
「衣を着なさい。アラガミがいるから剣は収められん。だが決して
そう言いながら、自分の荷物を取りに行った。
少女は怯えきった顔で男の背中を見ている。
しかし、男は麻袋を手に取った後も変わらず少女に背を向けて立っている。
少女はしばらく身動きせずに凝視していたが、何もされないと判断したのか、ようやく衣に袖を通した。
「……あ」
「着たか?ではここを離れよう。近くの亡き骸がアラガミの巣になっている」
「亡き……骸?」
「そうだ。吾等もいずれ襲われかねん。道は彼方」
「!?」
「!ちょっと待て!」
男の言葉を聞いた少女は突如茂みの中を走り出した。
「何だ急に!?」
男は慌てて後を追う。
少女は道に出ると、坂を駆け上った。
「そっちにあるんだ骸が!」
少女は瘟神達にしがみつかれながら、死体のある茂みに飛び込もうとする。
追いついた男は麻袋を投げ捨て、少女の腕をとって止めた。
「はなして!!
少女は暴れて男の腕を振り払おうとするが、男の力は強く、びくともしない。
「会わせて!母に!!」
「……汝の母親か?」
しがみついた瘟神を横刀で掃いつつ、少女に聞いた。
「……!そうや、水!水持ってくる。母ぁ、体が熱い熱いって。だから
少女はそう叫ぶと、今度は坂を駆け下ろうとした。
「落ち着け!……待て、汝が離れる前はまだ生きていたのか?」
少女は黙ってうなずいた。
「そうか……離れる前はまだ」
男は腕を離した。
「……来なさい」
男は遭遇した頃よりは数の減った瘟神達を斬り払いながら、茂みの中に入った。
「……母!」
後ろにいた少女が男の前に飛び出す。
「おっと!」
男は再び少女を止めた。
「これ以上近づくと汝が死ぬ」
「嫌!吾ぁも母と一緒に死ぬ!」
「ならん!」
「何でぇ!?」
少女は出会ってからずっと涙を流し続けている。
「生きているうちは生き続けろ!今日がどれだけ苦しくても、明日になれば良いことがきっとある。だからそれを逃すな」
「!?」
「……いいか。これはもう、汝の母親ではないと思え」
男は横刀を握った手で死体を指さして言った。
「え!?どう、して!?」
「御霊が身体から離れてしまったからだ。これはただの腐れた肉と骨」
「!?」
「とにかく今は生きろ!そして、汝が吾位の年まで生き延びることができたなら、その時母の御霊を供養するのだ」
「くよ……?」
少女は御仏の存在を知らないのか、首をかしげた。
「今は分からないでいい。大きくなれたら僧尼に聞け。とにかくここを離れるぞ」
「母……じゃない……」
少女は鼻をすすりながら、動かない母親をじっと見つめている。
目を見開き、苦しそうに喉を押さえて死んだ女の体中に、膿胞と共に赤い謎の斑点が浮いていた。
その姿は元気だった頃とは似ても似つかないはずだ。
「さぁ」
「……わかっ、た……」
少女は汚れた衣の袖で涙をぬぐい、母から離れた。
「……さてどうするか」
道に出た男は、困り顔で黒い頭巾越しに頭を掻いた。
助けたは良いが、これからこの少女をどうするかという問題がある。
「……怪我をしている所はないか?」
少女は男から少し離れ、虚ろな瞳でただ立っていた。
「おい!」
「!?」
「他の
少女は首を横に振った。
あらかた倒したからなのか、道の上に瘟神は見当たらない。
男は横刀を鞘に納めた。
そして少女を観察したが、身体から瘟神が現れ出るということはなかった。
病はうつっていないようだ。
しかし、今は大丈夫でもいずれ瘟神が現れるかもしれない。
もし故里に少女を連れて帰れば、病が里に蔓延してしまう可能性があった。
父母は年老いている――
男は腕を組んでしばらく逡巡していたが、ぐう、と腹が鳴った。
「そうだ。起きてからまだ水しか口にしていなかった」
そう言って麻袋の中を漁った。
探し物が見つからないのか、しばらくゴソゴソしている。
「これか?……いや惜しい!これで腹は膨れん。アレはどこ行った?」
男が麻袋から出したのは、薬草や種が入った
親族から貰った貴重な唐の品だ。
「……そうだ!あの人に押し付けるか」
男は何かひらめいたのか、パッと顔が明るくなった。
「そうと決まれば話は早い」
男は再び麻袋をガサゴソと漁り、先程とは違う小袋を取り出した。
「座って。手を出しなさい」
「?」
男は袋の中の物を掴み取ると、少女の手の中に入れた。
少女が見ると、
「!?」
少女は夢中になってバリボリ食べた。
「座って。少ししかないのだから、大事に食べるのだ」
しゃがんで食べる少女から少し離れ、男も胡坐をかいて糒を食べた。
「……誰も通らないということはないだろうが、待っている時間が惜しい。行くか」
男は食べ終わると既に食べ終えていた少女を促し、坂を下り始めた。
「京とは逆方向だが来てもらう。日暮れまでに少しでも先に進んでおきたい」
歩きながら少女に説明する。
男は坂を上ってやってくる旅人達に声を掛けるが、しばらく話すと皆首を横に振って行ってしまった。
そういうことを繰り返しながらしばらく下ると坂は緩やかになり、田圃の広がる台地に出た。
すると、向こうから庶人(庶民のこと)らしき男女の一団がやってきた。
重そうな荷を担ぐ者や、穀物らしきものが詰め込まれた麻袋をいくつも積んだ
しかし、彼等にも馬に乗って引率する部領使はいない。
そもそも女は運脚にならないし、重そうな荷を運んでいるのに誰からも道行きの苦しさを感じられない、不思議な一団だった。
「応!
「……参ります」
一団は足を止め、先頭の若い男が答えた。
「そうか!よかった。実は、この
「?」
一団の者達は皆不思議そうな顔で二人を見る。
「実はこの女子、家人に死なれ一人になってしまってな。京にいる腹違いの兄の所へ連れて行ってやって欲しいのだ。今までは吾がついていたが、吾は事情があって京に行けない。汝等が用事を済ませた後でいい。頼めないか?そうだ、銭か何か良い品を渡そう。それで」
「銭も品もいりません」
「何!?」
「承知しました。必ず送り届けましょう」
若い男は快諾した。
「!?よろしいのか?」
「お困りなのでしょう?ならば断る理由などありません。親に死に別れ
そう言って手を合わせた。
今度は男の方が怪訝な顔をして一団を見る。
「?そうか……まぁいい。では、頼む」
「女子の兄様と、
「あぁ、そうだった。兄は下道真備という。吾は下道黒麻呂。家はどっちだったか……とにかく、市の近くだと聞いた」
「それで十分です」
若い男は再び手を合わせて微笑んだ。
「顔出しぃ。怖ないで」
一団の中にいた中年の女が、少女に向かって声を掛けた。
少女は見知らぬ一団に警戒して男の陰に隠れている。
「大丈夫やで、な?」
女だけでなく一団の他の人々も、柔らかな笑顔で少女を見守っている。
少女は黒麻呂の顔を見た。
「いきなさい。何があっても」
少女はうなずくと、一歩足を踏み出した。
少女を加えた一団は坂を上っていく。
下道真備は元々庶人の子であったが、半ば強引に己が下道氏の一員であると認めさせて官人となった男で、氏族には本当に下道の血を引いた者なのか疑わしく思っている者も多かった。
真備が父と呼んだ、圀勝という男が持つ八位の位が目当てだと。
当時、庶人が官人になるには国学(地方の官吏養成機関)に入らなければならなかったが、入学できるのは国学生の定員に空きがあった時のみ、という非常に狭き門であった。
定員に空きができるのを待つよりも、官人の子になった方が確実に官人になれる。
圀勝の息子と認められ下道の氏姓を手に入れた真備は、大学での勉学を終えた後、
高い位と財を得ることができたのに、吾等に感謝の意を示すこともなく富を己とその縁者で独占している、と下道の者達は憤っていたのだった。
詫びの言葉と共に唐の薬草と菜の種子という高価な品を貰ったのは、
しかしこの量が故里の皆が満足する程の恩恵とは思えない。
ならば少しの難題くらい解決して欲しいと思ったのだ。
しかしそれ以上に、
当代一の知恵を持つとの評判の男なら、あの未知の瘟神もなんとかするのではないか?
という期待の方が大きかった。
「……先頭の男は
空には雲が広がり、日が陰る。
「雨が酷くなる前に渡らんと、橋が流されるかもしれん。吾も行くか」
黒麻呂はしばらく一団を見ていたが、再び道を歩き始めた。
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