十四

 真備は誰もいなくなった庭の片隅に一人座り込んでいた。

 冷たい無表情のまま、環頭刀を握りしめている。

「おっ!いたいた」

 皇子は正殿から庭に降りると、踏まれた琵琶袋を手に取ってバタバタ砂埃を払いながら真備の下にやってきた。

「麻呂が詫びの宴を催したいと言っているぞ。どうする?狐達は早々に京師を出たし、広足は配下の医師に治療を任せて宮へ行ってしまった。余程安宿に褒められたいらしいな」

「……」

「面の方は粉々に砕けたか。後で詫びの一筆でも……いや広足に言って安宿に何とかさせるか……おっ!あったあった。こっちは目立った傷もなさそうだ」

 皇子はそれぞれ庭に転がっていた琵琶と撥を拾うと、埃を払って袋に入れた。

「……あのな、真備」

「皇子も、これから慎んでくださればそれでよろしいと思います」

「?……あっ、妾のことね。はい……」

 皇子は恐縮して返事をした。

「!そうではない!先程のことだが」

「そうですね。決着をつけますか」

 真備は立ち上がると、鋒を皇子の鼻先に向ける。

 皇子は手で刀を払って、

「真備!そうではない。狐達を殺さなかったのは、殺す必要がなかったからだ。先程も説明したとおり、追い詰めすぎると逆に手痛い反撃を喰らうことになる」

「皇子も乗り気だったではありませんか」

 真備がドスの効いた声で反論する。

「ギャン言わすとは言った。だからギャンと言っていただろう?」

「そうでしたか?」

「真備聞いてくれ!……吾は、汝に吾を救って欲しいのだ」

「は!?救う!?」

「そうだ。汝に吾を救って欲しい。だが、今のような何でも皆殺しというようなやり方では、到底救われん。大体、京師に沸く妖厲の数はこれからもっともっと増えるぞ。汝はそれを一人で一掃し続けることができるのか?」

「やります!」

「そうではない!!」

「は?」

「他の方法を考え出すのだ。良いか、吾を二度も殺すようなことをしてくれるな!吾を、いや、吾等を救ってくれ!殺す以外の方法で!!」

「皇子……」

 真備は顎髭をしごく。

 突然の言葉に、皇子の真意を測りかねていた。

「……まぁ、吾の願いの方は無理にとは言わない。だが、皆殺しだけはどうか考え直してくれ。何より汝の命が心配だ」

 そう言って、皇子は真備に琵琶を差し出した。

「銭ではないが、これは報酬の代わりだ。盗んでないぞ、吾の私物だから安心しろ」

 真備は琵琶に手を伸ばさない。

「いえ。報酬はもう必要ありません。ここは長安ではないのですから」

「受け取って欲しい。今日の琵琶の音も素晴らしかった。ありがとう。またこれで披露してくれ」

 皇子が琵琶をグイと真備の胸に押し付けると、真備は思わず受け取ってしまった。

「!あ……あり、がとうございます」

「本当は、阿倍仲麻呂と渡唐前に約束したことなのだ」

「え!?」

 真備は奥二重の目をまん丸に見開いて驚いた。

「阿倍仲麻呂って、あの仲麻呂ですか!?面識がおありだったのですか!?」

「吾と戦って負けて、瀕死の命を助ける代わりに、唐の国で吾を救う手立てを見つけて来いと言ったのだ。だが、あの男は帰ってこなかった」

「仲麻呂と!?本当ですか?そんな話、聞いたことがありません!」

「負け戦だからな。自分から嬉々として話したい内容ではないだろう。信じられないなら、後で広足に聞くといい」

「……」

 真備は再び髭をしごく。

 真実かどうかは後で典薬頭殿に聞くとして、もし真実ならなぜ仲麻呂が皇子と戦う必要があったのか。

 そしてなぜ二十年近く一緒にいながら、このことを話してはくれなかったのか。

 何でも話しあえる仲だと思っていたのに――

 ……いや、己も仲麻呂に己の全てを話してはいないではないか。

 約束を果たせないまま長安に残った仲麻呂はどう思っているのだろう?

 仲麻呂は難題を片付ける必要がなくなって幸運だ、などと思うような情の薄い男ではない。

 きっとこの約束は、心に刺さった棘となって残っているはずだ。

 ならば、やることは決まっている。

 手に持っていた環頭刀がキラキラと細かく砕け散って地面に落ちた。

「……そうだな、もし汝が吾の願いを叶えてくれるなら、吾は汝の望みを叶えよう!富か?それとも権力か?」

「望みはありませんね」

「なぜだ!さては吾の力、信用していないな?なら」

「皇子は仲麻呂の命をお救いになった代償に約束をなさったのでしょう?仲麻呂が既に望みを叶えたのならば、もうその必要はありません。吾はただ、仲麻呂の代わりに約束を果たすまで」

 真備は皇子の言葉を遮って答えた。

「!?」

「吾も仲麻呂と約束しました。もし故里に帰ることができたなら、仲麻呂の分まで尽くすと。ですから引き受けましょう。仲麻呂の代わりに」

「!!本当か!ありがとう!」

「吾としましても、『勾陳』ではなく『青龍』としてずっと穏やかに過ごしていただけた方が嬉しいので……ですが、その必要はないのでは?長年の読経と大来皇女の似絵のおかげで、皇子から禍々しさは全く感じられません。」

「……そうだな。少なくとも、真備が帰京してからは見せていない。吾の本性を」

「!では、最初にまみえた時のあの表情は?」

「確かに怒りの感情が湧くと、汝の言う『勾陳』の状態に近くなるな。しかし『勾陳』そのものとなった時は、自分でもどういう状態なのかあまりよく分からないのだ。ただ、その時はいずれ必ずやってくる」

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