十三

 皇子が麻呂の下に駆け付けようと動く。

 その時、横刀を持った男が皇子に向かって刀を振り上げた。

「!……とまれ!皆やめよ!」

 玉藻が指示すると、男達は一斉に刀を下ろした。

「動くな!今治す」

 駆け寄った皇子は麻呂の右腕を取ると、穂先を引き抜いた。

「ぐおぁっ!」

 麻呂が痛みで呻き声をあげた。

「耐えろ、しばしの辛抱だ」

 皇子は傷を治そうと手をかざした。

 しかし、麻呂は皇子の手を左手でつかんだ。

「いいのだ、これは……戒めだ。吾自身への……」

「!?」

「参議殿、なぜ狐を庇いだてなさるのですか?」

 真備が麻呂の下にやってくると、膝をついて言った。

「……いましは大学助か……下道真備だったな、留学生の」

「その通りです」

「唐の国で道術を修めた、という話だったが、本当だったのだな……使役神まで駆使するとは」

「いいえ、吾は道術をすべて習得した訳ではありません」

「誰が使役神だ!吾等は友垣だ友垣!」

「どけ、下道!……治療させてください!」

 ボロボロながら目立った傷のない広足も麻呂の所にやってきた。

 広足は麻呂の衣の右袖を引きちぎると、袖を裂いて麻呂の腕に強く巻き、止血を試みる。

「誰か!典薬寮へ走って医師くすしを呼んで来て!……よろしいですか、参議殿は国の宝なのです。軽々しく命を捨てるような行動は」

「ははッ!国の宝だと!?誰のことだ!」

「?参議殿?」

「……大学助、汝に音曲の才があるとは知らなかった。しかと受け止めたよ、汝が心に抱く存念を」

「は?」

「吾にはその力があるのになぜ、立ち上がらないのか!……分かっている……しかし、立ち上がれない……いや、立ち上がりたくないのだ」

「心の内に参議殿を苦しめるものがおありなのですね」

 麻呂はうなずいた。

「……本当は……本当は、文徳の士になりたかった。陶淵明のような」

「はぁ」

 真備は顎髭をしごいた。

 長安でも数人からそういった悩みを聞かされたが、真備には麻呂のように裕福な貴族達が抱く葛藤を理解できない。

「ところがどうだ、実際は……実際の吾は、今や彼等に侮蔑される立場ではないか!血で血を洗うような闘諍とうじょうにどっぷり浸かり……そう、あの時、吾が手は汚れてしまった。いや、汚されてしまったのだ!兄達に!殿下を手にかけたあの時に!」

「参議殿!お話は後にしましょう、顔に血の気が無い。横になって安静にすべきです」

 広足が見かねて興奮する麻呂に声を掛けた。

「いや、話させてくれ典薬頭!……吾等は、吾等は白村江での大敗と同じ、どうあがいても打ち消すことのできない汚点を一族やからに残した……そうだ。よくよく考えれば、吾は手を汚すためわざわざ与させられたのだ!本来なら吾は兄達と肩を並べられるような高い位にはつけないはず。衆人から軽蔑される生まれの吾を、最初から吾を犠牲にするつもりで!……そう考えると、日に日に立ち上がることが億劫になってきた。位階も、詩も、酒も、女も吾の心の支えにならん。もはや、なりたかったものにはなれない」

「興味深いな。謀殺した側の人の苦悩を聞くことができるとは」

「皇子」

 皇子のつぶやきを聞いた広足は、思わず皇子に声を掛けてしまった。

 麻呂の言葉に刺激されて皇子が我を失い、真備の言う『勾陳』になることを心配したのだ。

 しかし、皇子の表情は変わらない。

「ならば問おう。本当に手を汚したくなかったのならば、袂を分かつこともできたはず。それをしなかったのは、本当は与した時に与えられたものを手放すことが惜しかったからなのではないか?」

「!?違う!断ることは、できなかったのだ!断る、ことは……」

 麻呂の目が泳ぐ。

「逃げられぬならば、死を選べばよかったのだ。そうしただろう?長屋達も」

「!!」

いましの苦悩など大したものではないさ。ただその身を委ねていれば良い。最後が訪れるその日まで」

「!?……ま、ましは一体、何者なのだ!使役神ではないのか!?」

「かわいそうに。汝の父が吾等に絡まなければ、汝の父は汝の言う『清廉な文徳の士』でいられただろうし、汝が生まれてくるようなこともなかったろうになぁ……同情するよ」

 皇子は口の左端を歪めて笑った。

「!?」


なれは吾が友垣なのだろう?だったら吾の願いを聞いてくれないか」

 やつれて衣の乱れた草壁皇子はそう言って、柄や鞘に見事な金の装飾が施された黒漆大刀を差し出した。

 まだ若いふひとは皇子の気迫に気圧されて動揺し、手を伸ばすことができない。

「明日大津が死んだなら、誰よりも早くその下へ行き、この大刀で首を斬れ。そして吾が元へ持ってくるのだ。この大刀は汝に譲ろう。欲しかったのだろう?友垣の証が……」


 ――いつの頃に聞いた話だったか。

 麻呂は酒に酔った父、不比等から教えられた秘密を思い出した。

「もし、もし、もしや!もしやみましは!!……そうか、大学助がまみえたという噂は、本当だったのか!!」

 麻呂の顔が恐怖に強ばりつく。

「そんなに怖がることないじゃないか、傷つくなぁ」

 皇子は治った傷口を掻きながらぼやいた。

「……参議殿」

 真備は震える麻呂の左手を握って声を掛けた。

 いつもの穏やかで人のよさそうな顔に戻っている。

「吾は妾の子です」

「!……そうか。汝にも人知れぬ苦労があったろうな」

「母は父と妹背になることができなかったので故里に戻り、吾はそこで育ちました。父のかばねになったのは、母の姓では国学のしょうにすらなることができなかったからです。母や叔父は吾を大学に行かせるため苦労して父の居所を探し、承諾を得るまで何度も何度も説得してくれました。父が母を妻として認めてくれていれば、決して豊かとはいえない家で、ただでさえ苦労を強いられている家人いえひと(家族のこと)に余計な負担がかからなかったはずだ……父を恨めしく思ったこともありました。今でも妾を幾人も持つような人は嫌いです」

「んんっ!」

 皇子が咳払いをする。

 麻呂も申し訳なさそうな顔をした。

「ですが、過去を恨んだから未来が変わるという訳でもありません。たとえ誰かが道を設えてくれたとしても、代わりに歩いてくれまではしません。あくまでも歩むのは己自身なのですから」

「!」

「今は父のことを恨んではいません。もう亡くなりましたし。それに、吾のような低い身分の者を唐という大国で十八年も学ばせて下さった大君と国の大恩に報いることが、自分の使命だと吾は考えております。これは誰かに言われたことではなく、己の判断です」

「歩むのは、己自身……」

「……参議殿。先程「最初から吾を犠牲にするつもりで」、とおっしゃいましたね」

「確かにそう言った」

「吾はそうは思いません」

「何?」

「吾は長い間唐におりましたので、いない間の国の情勢について詳しくは分かりません。ですが、本当に参議殿を犠牲にするつもりなら、国内でも屈指の呪禁師である典薬頭殿にわざわざ問題の解決を頼むようなことはなさらないのではないでしょうか?直接参議殿には申さずとも、内心は皆様参議殿のことを気に掛け心を痛めておられると思います」

「皆心を痛めているだと?」

「はい、吾はそう思います」

 麻呂は傷口を手で押さえた。

「……そう、か……そうだ。吾は、甘えていただけなのだ」

「誰しも心が弱り辛くなることがあります。一人の力で立ち上がれない時は、誰かの肩を借りてもよろしいと思います。甘え過ぎは問題になりますが」

「そう言ってくれるだけでありがたい、大学助。汝と話をしたら大分心が楽になれた」

 麻呂は真備に支えられて立ち上がった。

「そうだ……吾は甘えていたのだ。甘えてもらうつもりが」

「は?」

 麻呂は若藻を引き寄せると、

「大学助よ、どうかこの者を殺さないでくれないか」

「え!?」

 真備、驚きで思わず大きな声を出してしまった。

「それはいけません。この屋敷は宮城に近い。今処分しないと、ここを足掛かりに入り込まれますぞ」

 真備の顔が再び冷たい表情に変わる。

「大学助よ、吾に向けてくれた労わりの心を、どうかこの者達にも向けてやってくれないか」

「な!」

 真備の顔が引きつった。

「この若藻が人でないことは一目見てわかった。佐保の川原で……」

「主様!?」

 今度は若藻が驚いた。

「唐物の衣を纏ってしなだれかかってきたが、布は傷んで古ぼけているし、形も昔のものだ。使う漢語も古めかしい。最初はちょっとからかうつもりで手招いたのだが……屋敷に連れてきて飯を与えたら、実にいい顔をして食べる。あっという間に気持ちよく食べつくした様を見て、吾は誰かを傷つけるだけでなく幸せにもできるのだ、と初めて実感したのだ。強く……」

「!!」

 若藻の目に涙が溢れた。

「……ぬ、主様!ごめんなさい。吾……何もわかってなかった……姉様や信太の言う通りでした。「人を侮ってはいけない」と……上手くやれていたと思っていたのは、吾だけだったのですね」

「謝ることはない。吾がやりたいようにやっただけなのだから」

 麻呂はがっくり肩を落とす若藻の頭を撫でながら、

「実は家令から典薬頭が来たと聞いた時、潮時だと思ったのだ。しかし今日もぐずぐずしていたために命が失われてしまった……吾一人無傷でいるわけにはいかない。ですから治さなくて良いと申し上げたのです、皇子」

「信太が……」

 若藻は地面に臥したままの信太の下に駆け寄ると、

「ごめんなさい!最後まで吾の我儘につきあわせてしまって。まさか、信太みたいな益荒男が死ぬことになるなんて思わなかったから!ごめんなさい……姉様は、信太のことを愛していたのに……」

 と信太の手を取って涙を流した。

「!!」

 信太の身体がビクンと跳ねた。

 胸に刺さっていたはずの穂先がガシャンと地面に落ちる。

「……?」

 一同が信太に注目する。

「若藻!どうしてそれを!?吾はそのようなこと、一度も言っていないぞ!!」

 玉藻だけが顔を赤くし、上ずった声で反論した。

「見ればわかります。いつも信太に熱い眼差しを向けていたじゃありませんか。いいなぁ、吾も熱い眼差しを誰かから向けられるようになりたい……」

「それより今、屍が動きませんでしたか?」

 真備が冷静に指摘した。

「もーっ、終わるまでじっとしていろって言ったのに!」

 皇子はバツが悪そうな顔をして頭を掻く。

 玉藻は信太の下に走った。

 走りながら、髭を生やした房前の顔が里での美しい顔に戻る。

 髻がほどけて長い髪が露わになり、美しい白菫しろすみれ色に変わっていく。

 頭には二つの狐の耳が、そして腰のあたりからは三本の狐の尾が生えた。

 たどり着いた玉藻は信太を抱き起こす。

「信太!」

「……も、申し訳ございません、長者様。あのお方が、治して、下さいました」

「そう……そうか!」

 玉藻は涙を浮かべる。

 玉藻は信太を支えて起こすと、真備達の方に向かって平伏した。

「どうか、どうかこの狐達の命をお救い下さい!若藻はまだ若く世間を知らぬ身。吾からも強く言って聞かせます。吾ら一同これからは決して人に牙を剥くようなことは致しません。愚かにも、もしそのようなことをしたなら、その時は必ず首をお刎ね下さい!」

 信太もなんとか座り直して玉藻に従う。

 若藻も玉藻と同じく、白菫色の美しい髪に耳と二本の尾を生やした姿に戻り、平伏する。

 庭にいた男数人も、赤い毛並みを持つ狐の獣人となって玉藻達に続いて平伏した。

「そのようなこと、信じられるものか」

 正殿の階段を降りて玉藻に近寄った真備は冷たい言葉を返す。

「……では、約束の証をお渡しします」

 玉藻は大刀を左手に持ち、右の脇に挟むと力を込めて大刀を振り上げ、右腕を斬り落とした。

「!?」

「姉様!?」

 玉藻はまだドクドクと血の流れる右腕を手に取ると、真備に向かって差し出した。

「……白狐のものならば、少しは福を呼び込みましょう。足りなければ、首も差し出します」

「愚かな。まし等が死んだふりをして切り抜けること、よく知っているぞ」

「!」

「……狐の長者よ、必要なのはずっと刃向かわないでい続けるという「実績」だ。いくら今体裁を整えても、真備のように強固な意志を持つ者には響かない」

 真備について白洲に降りた皇子が玉藻に声を掛けた。

「皇子、汝が妖孼の肩を持つと言うのならば、汝を力づくで排除しますよ」

「だから、もう殺し合いはなしだと言った!聞け!汝の今までに何があってそう頑なに妖厲を憎むのかは分からん」

「皇子も腹をお探りになればよろしいでしょう」

「友垣にそんなことはしない!いいか、こういう時は我慢して、一度は情けをかけるのだ」

「何故です?」

「最初からぎゅうぎゅうに締め上げると、言うことを聞くつもりだった者も聞く気を失くしてしまう。今は一旦引け。その代わり、彼等が再び牙を剥いた時こそ容赦をするな」

「……」

「……何よ!吾の顔見たって知らないわよ!……まぁ、信心深い媛は殺生を嫌うお方だから、毛皮を持って行ったってお喜びにはならないわね。吾は参議殿が朝参して下さればそれでいいのよ」

 廂に残った広足は、自分の顔を睨むように見た真備に向かって答えた。

「頼む大学助、若藻達を見逃してくれ!」

 麻呂も同じように平伏しようと膝をつこうとするが、

「ご無理なさるな!動くと傷に障ります」

 と広足に止められた。

「どうする?真備だけだぞ、殺る気満々なのは」

「……」

 真備は環頭刀の柄を強く握りしめ、歯を食いしばる。

 玉藻達は再び頭を地につけて許しを請う。

「……もし約束を違えたら、必ず殺す。吾が死しても蘇って、必ず首を刎ねに行く!覚悟しておけ」

「!!……ありがとうございます!決して約束は違えません!」

 狐達は頭を上げて口々に礼を述べた。

「……」

 真備は狐達の方を見向きもしない。

「良かったなぁ。真備は慈悲深いから、腕を返してくれるそうだぞ」

 皇子はにっこり微笑むと、玉藻の腕の切り口を肩の傷口につけた。

 傷口のあたりに、微かに白緑色の火花が散る。

 一瞬にして腕がくっつき、傷が消えた。

「!?」

「しばらくは腕に痺れが残るだろうが、じきに消える。使えるからっていきなり無理に動かし過ぎるなよ」

「すご……こんなの無敵じゃない!」

 若藻が羨望の眼差しで皇子を見つめる。

「若藻と言ったか。あれか?華やかな宮城や貴族の暮らしに憧れていたのか?」

「あ……うん。でも、里に帰らないと……」

「ふふっ。未練があるか」

「えっと、その……」

 若藻は困ったように言い淀み、顔を背けた。

「若藻!まだそんなことを!」

 皇子は若藻につかみかかろうとする玉藻を制した。

「いいじゃないか。まだ若いのだろう?年は?」

「……十六」

「姿かたちがではなくか?それは若い!それで当たり前だ」

 皇子は苦笑して言った。

「確かに高貴な者の暮らしは華やかで贅沢、魅力的に見えるだろう。だが麻呂を見ろ、それはそれで命がけの苦労があるのだ。しかし、だからといって田を耕す暮らしが素晴らしいかというとそうとも言いきれない。それもまた苛酷で命がけだ。いましはまだ若い、もっと見聞を広めろ。己が何をしたいか、何をすべきなのか。どちらに留まるかは、その後決めればいい」

「え……でも……いいの?」

「ま、一旦家に帰って反省はすべきだな。その間に、ここで見聞きしたことを思い返して、次どうしたいか考えろ。そうだな、願わくば……考えなしに動いたりして、汝の姉様を不幸にするんじゃないぞ」

 若藻は玉藻の顔を見た。

「……そうだな……人と争わないで吾等のためになることを見つけておくれ」

「!……ありがとう。吾にできること、考えてみる!」

 若藻は笑顔を見せた。

 それを見て皇子も満足そうに笑い返した。

 若藻はその後、人と妖双方が豊かになるために術を磨き、山城の地で祀られる有名な五穀豊穣の神となったが、それはまた別の話になる。

「甘やかしすぎではないですか?」

 真備だけが変わらず態度は冷ややかだ。

「ま、今回は特別だ。同じ姉を持つ身として、吾と同じ轍を踏んで欲しくないだけだよ。それより真備、まさか妬いているのか?」

 皇子はニヤッと笑って真備を見た。

「はぁ?なんで吾がそんな事を。大体、それは郎子いらつこ(若い男性)ではありませんか」

「んんっ!真備、それはだな……」

「……参議殿の腕に刺さったのを見た時は、骨が砕けたかと思いましたが?」

 広足が皇子に向かって声を掛けた。

「まぁ、治すなと言われたからな。ちょっとだけ治さなかったのだ」

 皇子は苦笑して答える。

「そうでございますかー!つくづく嫌になるわ、強すぎて……さぁ参議殿、もう中で休みましょう」

 広足は麻呂を促して、居室へ連れて行く。

「……それにしても下道の奴、何でそんなに殺したがるのかしらねぇ」

 と一人佇む真備を見て呟いた。

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