十
正殿前の庭では、一同が注目する中真備が琵琶を弾いていた。
その旋律に、以前皇子と対峙した際奏でたような哀愁はない。
かといって、家令が言ったような宴席の場に相応しい華やかで浮かれた気分になるような旋律でもない。
まるで指揮官が戦いに赴く兵士達を鼓舞するような、沈む気持ちを掻き立てる高揚感ある旋律だった。
他の建物内にいた者たちも、何事かと顔を出して聞き入っている。
「素晴らしいなぁ吾が
皇子は布越しに周りの様子を確認すると、満足げな表情でつぶやく。
若藻はぎこちなく箸を持ったまま、真備の琵琶から目を離せずにいた。
視線は琵琶に向けられていたが、真備を観察していたわけではない。
目に見えていたのは山背の里にいる姉の姿だった。
人里離れた日陰の谷で、他の狐達と共に人の姿で田を開墾する姉。
京師へ行けばきっと貴族の誰かが、うまくやれば大君の
こんなところで実りの少ない田にすがって生きなくても、京師へ行ってもっと自分の才能を使えば、自分だけでなく里の者達も豊かな生活ができるようになるのではないか?
しかし、そういうことを言うと姉玉藻はいつも柳眉を逆立てるのだった。
「また田圃の仕事をさぼって逃げ回って!長は
若藻は玉藻の腕を振り払って、里を飛び出していく。
「分かってる、分かってるんだよ!一族の長として、皆を引っ張っていかなきゃいけないことは……でも!!姉様の方がずっと賢くて里の皆から慕われてるのに、何で吾が長者にならなきゃいけないの!?……吾もっといろんなことしたい!今みたいに、こそこそ人に隠れて生きたくないんだ。
若藻は記憶の中の姉の姿に向かって叫ぶ。
真備の些細な失態を見つけて足元を掬うつもりが、圧倒的な技量の差に若藻はすっかり飲み込まれてしまっていた。
「皆何をしている!」
その時、男が一人庭に入ってきた。
黒い髭を口と顎に貯え、金の装飾が施された革帯の上に紫と白の
そして、浅紫の袍を身につけていた。
「家令どころか資人一人として出迎えに来ない!無礼ではないか!麻呂もだ、一体何をしている!」
男は庭にいる皆に向かって怒鳴ったが、誰一人として男の方を見向きもしない。
麻呂も若藻も琵琶の調べに釘付けのままだ。
焦る男は若藻の視線の先にいる真備の姿を見た。
「!!……まずい、これは幻術か!?虜にされているのか!」
小さい声で呟く。
若藻は術中に嵌まってしまっているのか?
信太はどうした、なぜここにいない!?
麻呂の兄の一人である藤原房前の姿に変化した若藻は焦った。
「半分正解。幻を見せる術ではあるが、これは術というには未成熟な『特異な才』といったところだ。何しろ本人が効果に半信半疑なのだからな」
ひざまずいたままの皇子がつぶやく。
「とにかく止めねば……そこの楽人!
自分の世界に深く入り込んだ真備に玉藻の声は届かない。
「!!参議にして民部卿である吾の言を聞き入れんというか!止めねば斬るぞ!!」
玉藻は抜刀すると、真備に向かって斬りかかった。
「!」
皇子はそばで立ち尽くす男の腰から横刀を抜くと、飛ぶように走って真備と玉藻の間に割って入り、大刀を受け止めた。
「!?」
「これはこれは房前殿!弟殿のため、
「この
「房前殿。折角でございますから、一つ吾の剣舞にお付き合いいただけませんか?」
「!?」
皇子は空いた手で布作面を外すと、口の左端を上げてにやりと笑う。
と同時に玉藻に向かって斬りかかった。
玉藻は皇子の刃を何とか受けつつ、演奏を止めるため隙を探して真備に近寄ろうとする。
皇子は近づけないようその都度大刀ごと玉藻を弾き飛ばした。
「若……皆!何をしているか!目を覚ませ!信太はどうした!?」
玉藻の叫びに反応する者はいない。
二人が戦う様はまるで劉邦を巡る項荘と項伯の剣舞さながら、その場にいる人も狐もますますその場に惹きつけられていった。
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