六
時は少し過ぎて、巳の刻も終わろうという頃(午前十一時前)。
平城の京を南北に走る大通りのうちの一条、東二坊大路を二人の男が北に向かって歩いていた。
一人は若い男。
黒い頭巾に
指の先よりずっと長い細めの袖が印象的な胡服と、
しかしよく見ると、着古された感はあるものの、胡服には表地に紅の八塩(深い紅色)、裏地に滅紫(めっし:灰がかった紫色)に染め上げた綵を使用していた。
また、黒い革帯の金具は金色、革帯に取り付けられた
実は豪華な衣裳と端正な顔立ちに鍛えられた長身の身体、ちょっとした身のこなしから滲み出る品の良さ、これだけでもそれなりに目を引く。
今回はその上に胡服の襟が大きく開けられ、しかも内衣を一枚も着ていないので裸の胸元が深く露わになっていたために、道行く人々、特に女性達の目をますますくぎ付けにした。
「?何か変か?……宮の
「皆さんの視線が
後ろの男が非難の声を上げる。
男は若い男より少し背が低く、色褪せてきた深碧の盤領袍に革製の手甲をつけ、六合靴を履いていた。
唐草文様が描かれた
そして、顔には異様な面をつけていた。
頭の前面と後頭部まで覆うほど大きな赤黒い顔に鼻と耳は長く、目はぎょろりとしていて髪はない。
口の端をぐっと上げて笑っているように見えるその面は、「
酔胡従とは文字通り酔った胡人の従者という意味で、伎楽面は古来日本に伝えられた伎楽という舞踊で使用されるものだ。
伎楽自体普段から頻繁に披露されるものではないため、庶民にとって伎楽面は珍しいものではあった。
しかし、毎日のように何らかの芸が演じられる朱雀門前に近いことと、若い男が目立っているのでさほど注目は集まっていなかった。
「ん?どうした真備?」
面をつけた真備の声は籠って聞こえづらい。
「!ちょっとあのお方、見えてる見えてる!すごっ!」
「違う違う、見せてんのよ」
「いいもの見せてもらったわー!昼間っから」
郎女達が、皇子をちらちら見ながら騒いで通り過ぎた。
「!?……大津殿!もしや、また襟を開けていますねー!昨日からだらしがないですよ、ちゃんと留めな……あれ、どこだ?」
真備は片手で琵琶袋を抱えつつ、もう片方の手で皇子の体を弄って、昨日のように襟を留めようとした。
「真備……吾の胸を揉みたいのか?いいぞ。その代わり、もっと人気の少ない所で」
「何の話ですか?あれ、えと……あぁ、これだ」
真備はやっとのことで襟を留めた。
「もしかして真備、見えていないのか?」
「はい。実は目と穴の位置が合っていないようで、光は差していますがどう眼を動かしても外が見えないのです」
「?何だって?」
皇子は耳を澄まして聞く。
「大津殿の気配を手繰りますので問題ありません。それより、計略通りに行くと良いのですが。既に日も高くなっておりますし」
「本当に大丈夫なのか?」
真備は大きく何度もうなずく。
「ならば行こう」
皇子が歩き出すと、真備はあらぬ方向によたよた進み始める。
真備の様子を見た皇子は、袖をまくって右手を出すと真備の手を握った。
「!」
「屋敷はこちらだ、ゆっくり行くぞ」
皇子は真備の手を引いてゆっくり歩いていく。
真備はまだ落ち着きなくよたよたしていた。
「……」
「汗ばんでいるな。どうした、恥ずかしいのか?手を握られて」
「!?」
真備は慌てて首を横に振った。
「ふふ、気にすることはない。吾等は一人ではないのだから、こういう時は素直に助けを借りていいのだぞ」
「!」
困った時に、いつも仲麻呂がかけてくれた言葉――
真備は思わず立ち止まった。
……このお方はどうしてこんなにも仲麻呂なのだろう。
「!?」
いや、違う、手を引かれたのは自分が不甲斐ないからだし、今のだってありふれた言葉ではないか。
ありふれた言葉にまで仲麻呂を重ねるほど、仲麻呂の言葉が欲しいのか?
自分は、仲麻呂のことが恋しいのか?
仲麻呂の分まで頑張らなければならないのに、情けない!
しかし……仲麻呂の代わりに皇子にそう言ってもらえたことは、純粋に嬉しかった。
仲麻呂の代わりに――
「……どうした?屋敷はもうすぐだぞ」
真備の心の中を知ってか知らずか、皇子は優しく声を掛けた。
「!あ……あぁ、はい……ありがとう……ございます」
真備はふらつくことなく真っ直ぐに歩き始めた。
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