翌日――

 山背国の東、近江国との境に近い山あいに、小さな集落があった。

 山の間から太陽がほんの少し頭を出している。

 十人程の老若男女が、小川に沿って切り開かれた僅かな田に出て稲刈りを始めていた。

 稲刈りをする人々に混じって、二十歳に届くかといった年に見える郎女が稲を刈っている。

 泥と汗で汚れた麻の衣を着、手鎌で稲を刈る様は他の者と変わりはないが、土で汚れたその顔は采女として通用するかそれ以上かというほどに美しく、今だけ日の下で作業をしているのかと穿った見方をしたくなるほどその肌は白かった。

 手に取って見た稲穂は黄金色に輝いている。

 今年も厳しい一年だったが、この里の稲はなんとか実ってくれた。

 それだけが救いだった。

「長者様ー!!」

 里の者達が何だなんだと頭をあげて声の方を見ると、赤毛の狐が里につながる唯一の小道を走ってやってきた。

 狐は全速力で人々がいる方に駆けてくる。

 全速力過ぎて、何もない所でつまずきころころ転がりながらもなんとか走り続ける。

 そして、郎女がいる田圃までやってくると、若い人の男の姿になって跪いた。

「何があった!?」

「長者様!信太様、からの伝、言です!!」

「!」

 作業をしていた他の者も長者様と呼ばれた郎女、玉藻の所に集まってくる。

 なにかあったのか、口にはしないがどの者にも心配の表情が浮かんでいる。

 玉藻は皆の心配を感じ取って、

「心配はいらない。信太からの話とすれば、アレのことだろう」

 玉藻としてはなだめたつもりだったが、皆の表情は変わらなかった。

「そうだ、誰か水を飲ませてやってくれ!……何があった?」

 玉藻は使いの男が息を整えるまで待って、改めて聞いた。

「昨日、若長者様のいらっしゃる屋敷に、て……?呪師の老人が来ました。あぁ、ありがとう」

「て?呪師?……何をしに来た」

 男は椀に入れられた清水を三口で飲み干すと、

「あぁ美味い!……もちろん、この前みたいに吾等に出てけって。そん時は若長者様達が上手いことやって追っ払ったんですが、なんだか仲間を呼んで不穏だったんで、もしかしたら襲撃してくるかもって信太様が」

「!?」

「襲撃だって!」

「うちの子は大丈夫なのかい!?」

 男の言葉に周りがざわついた。

「皆寝ずで番をしたんですけど、寅の正刻(午前四時)になっても何もなかったもんで、今日はないだろうって。でも、もしかしたらこれからもっと大勢で来るかもしれんから、長者様にこのことを話して長者様と増援を呼べって」

 周りに安堵する声と不安を訴える声が入り混じる。

 麻呂邸にいる狐達は、この里の住民の家族だった。

「……帰って伝えろ。若藻は置いて、信太以下全員引き揚げて来いと」

「信太様は、それはできんと仰せでした」

「放っておけと言っている!」

「!」

 皆押し黙り、場の雰囲気がますます重苦しくなった。

「今回の災難は、全てあの若藻自らが招いたこと!話を聞かずに里を飛び出したアレがすべて悪い。自業自得なのだ。これ以上、吾等が手を出す必要はない!……話は以上だ」

 玉藻はそうつっぱねると、再び稲刈りを始めた。

「皆も手を止めるな!遅れると、折角の実りが駄目になってしまうぞ!」

「……」

 しかし、周りの者は誰も動かない。

「……あの、長者様」

 使いの男がおずおずと声を掛けた。

「長者様。信太様が申すには、えーっと……一人は知っていて、一人は知らない。一人は分からない、だそうです」

「!……それは、呪師のことか!?」

「はい。信太様は吾一人では駄目かもしれんと」

「!?分からない?……信太ほどの呪師が!」

 信太は、自分達の祖父の代から忠実な家臣としてついてきてくれていた男で、先の大戦おおいくさ(壬申の乱)にも参加した経験があった。

 人を騙す才には恵まれていなかったが、その分五行を操る鬼道(ここでは方術よりも古くから日本にある呪術のこと)に長け、戦う力を持たない一族の剣となり盾となってくれた有能な益荒男ますらお(兵士)だ。

 経験もあり、鈍くもない信太が「分からない」呪師とは、どのような呪師なのか。

 いや、それよりも信太が駄目かも、だと……もし駄目なら、信太はどうなる?

 嫌な予感がする――

 玉藻は胸を押さえた。

「ご苦労だった。いましは京師へ帰る必要はない。家で休め」

 玉藻は使いの男に声を掛ける。

「!!ですが長者様!吾は何としても長者様を連れて来いと!!」

「誰か、これを頼む!」

 玉藻は手に持っていた手鎌と稲の束を差し出した。

「……京師へ行く」

「!!」

「馬をお持ちしますか!?お召し物も用意します!」

 手鎌と束を受け取った女が玉藻に聞く。

「馬はいい、走った方が早い。着替える間に大刀たちを用意してくれ。京師にいる者は誰も死なせない。皆は安心して稲刈りを続けてくれ!」

「わかりました!」

 ようやく皆の顔に安堵の表情が浮かんだ。

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