しばらくすると、麻呂邸の角から一人の男が姿を現した。

 背は高く、体が厳つい彼の姿を見た者は、皆きっと武人だと思うだろう。

 官人達と同じような漆紗しっしゃの冠に白袴、烏皮くりかわくつという出で立ち。

 しかし今様の袍ではなく、昔飛鳥に都があった頃に着られていたような、色褪せた浅緑色で左衽さじん(ひだりまえ)の袍を身につけていた。

 辺りはすっかり暗くなってしまったために、男がどのような顔をしているかこの場で判断することは難しい。

 日の光の下で見れば、日に焼けて浅黒い肌と下半分がほとんど髭に埋まった彫りの深い顔立ちを見て、渡来人かと思う者もいるかもしれない。

「……あの二人も方士か?いやしかし……」

 男は首をかしげた。

 方士とは、方術を扱う者のことを指す。

 そして方術とは、古代中国で生まれた不老長生の神仙になるために身につける専門的技術の総称のことを言い、日本には六世紀にもたらされ、特に斉明天皇・天武天皇の時代で重用された。

 方術の専門的技術とは符呪まじない卜占うらない・医術・薬方(薬の処方)等で、真備がいた唐の時代ではこれらは体系化されて道教という宗教となり、道教の成立と共に方士は道士と呼ばれるようになっていた。

 先程追い出された典薬頭、韓国連広足という老齢の男が当代でも指折りの呪禁師じゅごんし(ここでは防御と治癒のまじないに特化した方士)であることは、己のような浅慮のモノでも知っている。

 もう一人、深緑の朝服を着た男のことは知らないが、気配を消して様子を伺っていたはずの己の居場所を見抜いて他の二人に知らせていた所を見ると、典薬頭と同じように有能な方士と見て間違いない。

 だが、三人目の若い男に関しては……

信太しのだ様!呪師ずし(ここでは呪いを行う者全般を指す)は門をくぐって宮の中に入りました」

 呼ばれた男、信太が振り向くと、橡墨つるばみすみぞめ(青みがかった黒色)の衣を着た若い男が傍らで跪いていた。

「呪師ではない、典薬頭殿だ。吾等は若の真似をしてはならん。位ある相手への敬意を忘れるな」

「!すいません」

「分かればいい……宮城に入ったか。武器を取りに行ったかもしれないな……よし、もう何名かで館に近い外門の周辺を見張り、先程の三名が出てきたらすぐ知らせてくれ。衛士に気づかれるなよ」

「はい、信太様」

「……あ!いや、待て」

 信太は立ち去ろうと背を向けた男を呼び止めた。

「はい、信太様」

 信太は律義に再び跪こうとするのを手で制し、

「……若はもうご就寝か?」

 と、渋い顔で聞いた。

「あ、いいえ。まだ遊んどります」

 信太は大きくため息をつき、

「起きていらっしゃるなら、ご報告せねばならんか」

 と、うんざりした顔で呟いた。


 藤原麻呂邸は左京二条二坊にあり、父不比等邸や甥仲麻呂が後に手に入れる田村第のような広大さはないものの、それでも十分広い邸宅である。

 邸内には、寝殿造のように床が高く広い檜皮葺の正殿を中心に、正殿と同じように床の高い建物が数棟建てられ、池はないものの季節の花々を愛でられるよう草木を植えた広い庭が作られている。

 他にも資人や家人けにん(主に仕えて働いた最下層の民、賤民のひとつ)達が主のために様々な作業を行ったり、寝起きしたりする場である掘立柱建物が数棟、他にも厩舎や畑まであり、それらは主や客人の目に触れないよう板塀で仕切られていた。

 夜となり暗くなった邸内だが、信太は危なげなく暗闇の中を歩いていく。

 正殿から灯りと嬌声が漏れていた。

 正殿は百二十平米程の長方形の建物で、扉のない寝室と扉が二対ある居室がある母屋もや、母屋の南側につけられた幅二メートル程の廂(屋根はあるが壁がない広縁)でできている。

 信太は正殿の廂に取り付けられた階段を上ると、居室の前で跪いた。

「若藻様、よろしいでしょうか。少しお話が」

「イヤー!また負けちゃった、もう!!」

ぬし様ったらお強い!またお勝ちになられて!」

 信太の声は郎女たちの甲高い騒ぎ声でかき消された。

 信太は顔をしかめて、扉の開けられた居室の中を見た。

 三十畳ほどになる広い居室の中は、漢詩が書かれた屏風や山川の描かれた衝立、横木にかけられた絹の几帳によって仕切られ、扉からは漆塗りの文几ふづくえや典籍の積まれた棚など、高価な調度品が並べられていのが見える。

 その一角で、いまだ虚ろな表情の麻呂と、麻呂と共に馬に乗っていた郎女が漆塗りの盤を囲んで双六(現代のバックギャモンのようなゲーム)に興じていた。

 二人とも就寝前なのか、髪を下ろし絹の内衣(襦袢のような下着)一枚のあられもない姿だ。

 その場には二人だけではなく、同じような薄着の遊行女婦うかれめ達が、面白そうに二人の盤双六を見ては面白がって騒いでいた。

 見鬼の才があるものが見れば、麻呂以外すべて狐であることが分かるだろう。

 衣裳も含めて、真備が見れば卒倒しそうな光景だった。

「……若藻様……若!!」

 信太は我慢できず、とうとう騒ぎながら双六を続ける郎女に向かって怒鳴った。

「あーもう!!うるさいなぁ、興ざめ!!……しばらくお待ちくださいませ!お楽しみは、この後で……」

 郎女は麻呂にすり寄り耳元で囁くと、スッと立ち上がって信太のいる廂へ向かった。

「……何か用?あの呪師のことは信太に任せるって言ったじゃない!」

 麻呂の前で機嫌よくニコニコしていた若藻の顔は、不機嫌なものに変わっていた。

「若。もう潮時です。里に帰りましょう」

「絶・対・嫌!!」

 若藻は可愛げのない、ふてぶてしい表情で拒絶した。

「折角手に入れた快適環境、何で手放して帰んなきゃいけないのよ!」

「若が見かけたという方士ですが、典薬頭殿と合流しました。仲間のようです」

「ふーん、それでぇ?」

 若藻は髪をいじりながら適当に相槌を打つ。

「若の見立て通り確かに方士ですが、底が見えません。吾の力では大刀打ちできないかも」

「!なーに臆病風吹かれちゃってんの!?でかい図体して」

「相手が一人ならなんとかできるかもしれません。ですが相手は二人、いや三人です。撃退するなら里から増援を……長者様をお呼びせねば」

「!?……そっ!そんな必要ないよ!だって、吾が何とかするもん!」

「童かっ!」

「あ゛ぁっ!?」

 信太が我慢できずに小声で叫ぶと、若藻はそれを聞きとがめて睨みつけた。

「若!人を甘く見てはなりません。人が皆騙されやすく力が弱いと思っていると足元を掬われます。掬われるだけならまだいいのですが、最悪」

「うるさい!!信太の根性なし!!」

 若藻は信太の言葉を遮って叫ぶ。

「!?」

「吾、上手くやれるもん!」

「もんって!?」

「主様だって簡単に手玉にできたし、邪魔な陰陽師だってぺちゃんこにできた……吾は父様や爺様、御先祖様達とは違う。人に騙されて殺される能なしじゃない、人を騙して殺す方になるんだ!ちょっと人の数が増えた位で怖気づくな!!」

「若……」

「吾ならできる。それを姉様にも見せつけてやる!この京で!!」

 若藻は掴んだ内衣を引きちぎりそうなほど強く握りしめ、興奮して叫ぶ。

 麻呂を取り巻いていた遊行女婦達も、心配そうな顔で若藻達の方を見ている。

 若藻は荒い息を整えると、

「……はい、話終わり!帰りたいならなれだけ里に帰ればいいじゃん!はいさよなら!!それから、姉様は絶、対、呼ぶなよ!!」

 そう言い放ち、麻呂達の輪の中に戻って盤双六をやり始めた。

「……十分予想できた展開だったな……誰かいるか?」

 信太は痛む胃のあたりを押さえながら正殿の階段を降りると、暗闇に向かって声を掛けた。

「はい信太様ここに!」

 先程信太に報告した男と同じ、家人姿の男が五人暗闇から現れ、白洲の上に跪いた。

「全員で屋敷の守りを固めろ。警戒を怠らず、少しでも何かあれば吾に伝えろ。典薬頭殿達は今晩あたり襲撃にいらっしゃるはず。帯刀を認める。全力で若をお守りするのだ」

「はいっ」

 家人達は暗闇の中に消えた。

「……若は呼ぶなとおっしゃったが、やはりお知らせしておくべきだろうな。しかし……すぐに長者様をお呼びするのはマズい。長者様に夜の若をお見せしたくない……」

 正殿の方から嬌声が聞こえる。

 信太は腕を組んでしばらく考えた。

「怖気づくな、根性なし……か。よっし!若の言う通り、今晩は踏ん張るか!」

 自分の両頬を叩いて気合いを入れると、信太は正殿を離れた。

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