平城宮の南面と接する二条大路は京師のメインストリートのひとつで、朝早くから多くの人々が行きかう。

 宮城門が閉まった京は薄暗くなってきたが、まだ足元はよく見える。

 日中ほどではないものの今も人通りは少なくないが、真っ暗になるまでには家に帰ろうと考えているのか、人々は皆二人の横を脇目も振らず足早に通り過ぎて行った。

「歩いて進むのは久しぶりだ。最近はちょっと距離があるとすぐ飛んでいく癖がついたからなぁ」

 皇子は興味深そうに道行く人々を眺めながら歩いている。

 そういえば、声をよく聞くといつもより若干低いものの、気づかないほどの違いがない。

 冷静になれば大袈裟に驚くほどの変化はないではないか、と自分の不甲斐なさに真備は頭が痛くなった。

 しかし、その声は何故か長安に残った阿倍仲麻呂のものに近い。

 姿も?

 違う、姿は違う、自分より背が高いのは同じだが、顔かたちが同じわけではない。

 どうして仲麻呂と思うのか?

 それは自分にはない、高貴な人物特有の余裕のある優雅な身のこなしや、微かに纏わせている白檀の香りが仲麻呂と同じ――

「あぁ、それでか!」

「何が?」

「!……申し訳ありません、ちょっと考え事をしておりました」

 真備が照れ笑いを見せると、皇子も微笑んで、

「長安は今でも夕暮れ時はこんな感じなのか?」

 と質問した。

「そうですね。長安では坊(居住区域)が土塀に囲まれており、民は夜間坊の外に出ることができません。これを犯すと『夜禁』と申しまして、(細い木の棒で臀部を叩く)二十の刑に処せられます。ですから、出仕していた者もそうでない者も貴賤問わず夕刻になれば家路を急ぎます」

平城ならの京と同じだな」

「はい。ですが例外もあります。長安では元宵げんしょう(一月十五日)の頃、家々や坊の角に燈篭を飾って、その年最初の満月を楽しむ祭りがあります。その前後の頃だけ市の門が夜間も開けられ、人々は満月の下、夜通し市の燈篭を見物しながら酒を飲み、歌や踊り、音曲などを楽しむことができるのです」

「京師で夜通し騒ぐのか!?貴人だけでなく!?」

「そうです。許可が得られれば、東西南北あらゆる国から来た者も共に楽しみます」

「素晴らしい……吾も見てみたい!!真備は見たのか?行ってみたのか!?」

 皇子は目を輝かせて話を聞く。


「……悪いけれど、吾に遊ぶ暇なんてないよ」

 黒い髪を雑に束ね、無精髭を生やした真備が迷惑そうな声を出す。

 鴻臚客館(皇城にある鴻臚寺に併設された留学生が滞在する施設)内にあてがわれた狭い部屋。

 真備はありったけの衣を着こんで寒さをしのぎながら、典籍の山に埋まって勉学に勤しんでいた。

 しかし、深碧しんぺき(濃紺)の盤領袍ばんりょうほう(唐の官吏が着る上衣)を身に纏った阿倍仲麻呂は、真備の言葉に気を悪くすることもなくにっこり微笑んだ。

「吾等は大君に何を聞かれたって「はい、これはこうでございました」と言えるようにならなければいけないんだよ」

「だから毎日こうやって研鑽を積んで」

「典籍に書かれていることがすべてじゃない。万物について一つでも多く理解するためには、むろに籠ってばかりいてはいけないんじゃないか?もっと外の世界のことも知らなければ。ね、そうでしょう?」

「!」

 仲麻呂はそう言って、時々鴻臚客館から真備を連れ出してくれた。

 薄暮の中、仲麻呂に手を引かれて市へ向かう。

 身だしなみを整えた真備は、一張羅である深縹こきはなだ(濃い藍色)の袍の上に、仲麻呂とお揃いのごつい吐蕃とばん(チベット)製防寒着を羽織っている。

 誰にでも心配りできる仲麻呂が、真備に貸してくれたものだ。

 日本では体験したことのない人混みに揉まれて目を回しながら路を進む。

「……大丈夫だろうか、吾のような者がこんなところに来てしまって!か、帰った方が!」

 真備は人の多さに耐えきれず、思わず足を止めてしまった。

「大丈夫!吾等は一人ではないのだから」

 仲麻呂はそう言って、手を強く握った。

 仲麻呂がいつもかけてくれた言葉だ。

 自分が手詰まりになっても、仲麻呂がいれば道が開ける。

 そう思うだけで、思いつめて停滞した心が楽になるのだった。

「!あ……あぁ、うん……ありがとう」

 真備は仲麻呂の励ましのおかげで、やっと周りを見る余裕ができた。

 暗くなった夜空に上ってきた満月と色とりどりに輝く街路の燈篭、それを見ながら歩く着飾った人々。

 不満そうな顔は一つも見当たらない。

 興味深そうにキョロキョロしだした真備の様子に、仲麻呂も笑顔を見せた。

 これがうつつかと思うような幻想的な世界――

「!?」

 真備が気配を感じて振り向くと、雑踏の中に馬に乗った貴人の男女の姿が見えた。

 中年の男は貴人らしく、肥満体に流行りの胡服ではなく少し古めかしいあやぎぬ(美しい文様や装飾の施された上質な絹)の漢服を着用し、男の前に横乗りしている髪を結い上げ着飾ったとても美しい郎女いらつめ(若い女)は十代後半といった年頃で、妻というよりも妾に見えた。

 沢山の人がいるのに騒がないなんて不思議だ、余程調教された馬なのだな。

 そう思って真備が凝視した瞬間。

「!?」

 真備の顔が強ばった。

 郎女の姿に重なるようにして、白い狐の姿が浮かび上がったのだ。

妖孼ようげつ(獣の妖怪のこと)!」

 真備がつぶやく。

 見鬼の力を使ってもう一度目を凝らしたが、男からは違う生き物の姿は浮かび上がらない。

 男は本物の人のようだ。

「あのお方は騙されているのか?大変だ。放っておくと何もかも吸い尽くされて骨だけになってしまうぞ。しかし、いきなり行って訴えても信じてはもらえないだろうし……」

 真備は生え始めた顎髭を引っ張って悩んだ。

「あぁ、依頼があれば堂々と放逐できるし、銭も貰えるのに!」

「真備はそんなに銭が欲しいのかい?」

 歯噛みする真備に、そばにいた仲麻呂が声を掛けた。

「当然じゃないか!この長安では銭がなければ何一つ手に入れられな……」

 真備は振り返って仲麻呂を見た。

 仲麻呂のはずだった。

 しかし、そばにいたのは仲麻呂ではなく、黄色の袍を着た皇子だ。

 あたりには人混みどころか、先程よりも行きかう人が減っている。

 燈篭もない、満月もない――ここは平城の京だった。


「ひぃ――!!」

 真備は恥ずかしさのあまり叫び声を上げると、その場にしゃがみ込んでしまった。

「もう限界だ!……学生の鏡とならなければならない立場なのに!ほんのわずかの報酬の銭にこだわって生きていたなんて、儒士じゅし(儒学者のこと)の風上にも置けない!!その上酔ってもいないのに夢と現の区別がつかなくなるとは!もう……ううぅ……」

「真備!?なれ泣いているのか!?どうした!?」

 ストレスが限界に達し、パニック状態の真備は包みに顔を埋めて嗚咽している。

 人々は足を止め、ある者はいぶかしげに、ある者はくすくす笑いながら真備の様子を見ている。

「!……大丈夫ですよ、博士。落ち着いて!吾は言いふらしたりしません!京師では誰だって生きていくには銭も必要です。孔子だって博士を責めたりしませんよ。蓄財は行き過ぎでも、銭を手に入れること自体を忌避する必要なんてないのです、ね!」

 皇子も真備の横にしゃがんで、背中を撫でながら真備をなだめた。

 後ろからやってきた、数人の供を連れた馬上の男女も真備達を見て笑っている。

「!?」

 突如真備が頭を上げた。

 その顔に涙はなく、妖厲ようれい(妖怪)と対峙した時に見せる厳しい表情になっていた。

「あれは現か!!」

 真備は立ち上がると、眼の前を通る男女を見て呻く。

 幻の中で、馬に乗った貴人の男と女に化けた狐だけが現実だったのだ。

「女だけが狐か……もしやあの邸宅の?」

「ご存じなのですか博士?」

 皇子も立ち上がって男女を見たその時。

 馬上の女が、真備達に向かって流し目を送った。

「!?」

 今度は皇子の顔がみるみる険しくなった。

「……あの獣、吾の真備に色目を使いおった!吾から真備を奪う気だぞ!!」

「は?吾にですか?そんな馬鹿な」

 真備はキョトンとして言った。

「吾にはわかる!吾の大っ切なものを盗る狼藉者は、どこの誰であろうと絶対に許さん!一回ギャン言わせてやる!!」

「吾は皇子の私物になったつもりはないん」

「来るのか!?来ないのか!?」

 皇子は真備の言葉を遮って二択を迫る。

「行きます!」

「よし!」

「お待ちください」

 真備は過ぎ去った一行の後を追おうとする皇子の袖を慌てて掴んで止めた。

「距離を置きましょう。相手に感づかれます。それに、焦らずとも行き先はもうわかっております」

「そういえば心当たりがあるようだったな。誰だ……いや待て。あの顔誰だっけか……」

 皇子は腕を組んでしばらく考え、

「……藤原朝臣麻呂か」

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