小傾国

 天平七年九月の初め(新暦九月下旬)――

 すじ雲が浮かぶ夕焼け空の下、ドォーン、という鼓の音が平城宮に響き渡る。

 宮城にある門のひとつ、若犬養門が閉まろうとしていた。

 ギゴオォォ……

 衛士達によって、朱色の大きな門扉が痛々しい音を立てて閉じられ始めた。

 すると、

「お待ちを!お待ちください!」

 という声と共に、官衙かんが(官庁のこと)の方から深緑のほう(上衣)を着た官人の男が、荷物をくるんだあしぎぬ(質の悪い絹布)の包み(風呂敷のこと)を抱えて駆けてきた。

 しかし、声が届かないのか門扉はゆっくり閉まり続ける。

 男は慌てて門基壇の階段を上り、門扉の隙間に無理矢理突っ込んだ。

「アヤヤヤヤヤヤヤヤ!!」

 挟まった男が呻き声を上げる。

 そこで扉がようやく止まった。

「なんだ、またいましか!もう宮城で寝起きした方がいいんじゃないかい?」

 門で警護にあたっていた衛士の一人が、呆れた顔で男に声を掛けた。

 男は骨の折れない絶妙な加減で門に挟まっている。

「いつもご迷惑をおかけしてしまってすいません。吾一人がずっと宿直とのい(泊りがけで所属する官庁の警備守護をすること)をすることもできなくて……」

 気の良さそうなほわほわっとした顔の男は、そう言って本当に申し訳なさそうに詫びた。

 髪や髭に白髪が混じる四十代の初老の域に入ったその男は、慌てて門まで走ってきたにもかかわらず、その息は乱れていなかった。

 衛士達によって門扉がほんの少し開かれると、男はようやく解放された。

「汝さ。そんなに若くないんだから、無理は禁物だって言ってっだろ?死んじまったら元も子もないんだぞ。ほれ、早く帰んな」

 衛士が心配すると、その男、下道朝臣真備しもつみちのあそみまきびは笑顔を見せた。

「ありがとうございます。気をつけます」

 衛士はそれ毎回言ってるけど、と文句を言いたそうな顔をした。

 真備は衛士に向かって包みを脇に抱えたまま拱手こうしゅ(右手の拳を左手で包む中国風の挨拶)をし、門の外に出た。

 基壇の階段を降りる前に、大きく息を吸う。

 そして、吸った息を全部思い切り吐き出して、

「……今日程やらかしてしまったことはない……」

と、ぐったり疲れ切った顔で呟いた。

 その時。

「はーかせ!お勤めご苦労様です!」

 突然、後ろから誰かに肩を叩かれた。

「ひゃっ!?」

 完全に不意を突かれた真備は、変な声を出して驚いてしまった。

「……あぁー、またみっともない声を出してしまった!今日は厄日ではないはずなのに!」

 真備は抱いた包みに顔を埋めて後悔する。

 しかし、すぐに顔を上げると咳ばらいした。

「失礼致しました。どなたですか?」

 と言って振り返り、相手の顔を見る。

 硬直した。

 そして、

「ぅ、うわあぁあ――!!!!」

「何だなんだ!刺されたんか!?」

 真備は衛士達がどよめくほどの大声を出して叫んだ。

「ど、ど、どどどうしてここに!?」

 午前中、講堂で発したのと同じ言葉を相手にかける。

「あれからずっと探していたのですよ!指南まで使って!でも結局見つけられなくて!」

「なんだ、探して下さったのですか!?光栄だなぁ。だったら京師けいし(都のこと)から出なければ良かったですね」

 真備の眼前に立つ男は、悪びれた様子もなくニコニコして答えた。

 真備よりも十センチ程高い身長に、引き締まった体躯。

 その顔は気品があって端正、太めの整った眉にやや吊り上がった目尻と緑がかった黒い瞳、長い睫毛。

 真備が目を凝らしても何が見えるということはない。

 しかし、その特徴がある顔つきに、真備は大いに心当たりがあった。

「皇子!朝はどうしてあのような御戯れを、っうっ!」

 真備に「皇子」と呼ばれた少年、というには少し苦しい二十代前半に見える男は、真備の肩に腕を回して引き寄せると、空いた手で素早く真備の口を塞いだ。

「嫌だなぁ博士!吾は皇親(天皇の親族)の者ではありませんよ。この姿では掃守宿祢かぬもりのすくね大津、大津とお呼びください」

「んんん……んばぁ!」

 真備はなんとか皇子の腕を払う。

「吾も博士ではありません!一体どういうおつもりですか!?み……いえ、大津……殿」

「おっ!名前を呼んで下さった!嬉しいなぁ。大学助だいがくのすけ殿も講義をされることになったのですから、博士と呼んでよろしいと思いますよ?」

 国直属の官僚育成機関である大学寮の助(次官、現在の大学副学長)となった真備は、この九月から実験的に本科(主流の科目で儒教・法律・書などを学ぶ)で紀伝の講義を行うことになった。

 紀伝とは、主に史記・漢書・後漢書といった正規の歴史書を使って中国の歴史を学ぶ科目のことをいう。

 しかし、肝心要である初めての講義の場に皇子が現れ、不意を突かれた真備は驚きすぎて取り乱すという失態を学生がくしょう達に見せてしまったのだった。

「本当に……何の目的ですか?」

 真備がいぶかしげな顔で質問した。

「目的?そう!そうなのです。実は吾、一度大学に通ってみたかったのです」

「は?」

 皇子は無位を示す絁製のくすんだ黄色の袍を、襟を開けた状態で纏っている。

 黄色の袍は無位であると同時に学生の証でもあった。

「死んでからもう五十年近く経つ。その間論語すらろくに目を通していなかったからなぁ、何もかもすっかり忘れてしまった。あまりに無知だと真備に友垣と認めてもらえなくなるし、真備が講義を持つと聞いて、いい機会だから憧れの学生生活を送ってみようと思ったのだ!」

 皇子が真備の耳元で囁く。

「学生生活!?」

 近寄った皇子の袍の襟を留めながら話を聞いていた真備は、驚いて思わず大きな声を出した。

「その通りです博士!よろしくお願いいたします」

 皇子は真備から離れると、真備を真似て拱手をしてみせた。

「ど……どうやってですか?無断で堂に入って講義を受けるおつもりですか?」

「いいや、れっきとした学生としてだよ。帳簿に名を書き入れておいたからな」

「!? ……大津殿!もしや、入学すべき者を落として替わりに入ったのではないですか!?本科の定員は四百人なのですよ!」

「しっ!人聞きの悪いことを言うな。蹴落としてなどいない、付け加えたんだ。だから今年は四百一人だよ」

「!!」

 真備は血相を変えて若犬養門の門扉まで戻った。

「開けて下さい!確認しないといけないことがあるんです!!お願いします!!」

「だから務めは明日しなって!!死んじゃうから!!」

 呆れ顔の衛士達は、門扉をドンドン叩く真備を引っぺがした。

「さ、もう暗くなりますから帰りましょう!博士の御屋敷はどちらにあるんです?」

「わわっ!」

 皇子は真備の手を取って無理やり階段を降りると、若犬養門の前を東西に走る二条大路に出た。

 真備も引っ張られてつまずきそうになりながら、何とか地面に降り立つ。

「……吾家わぎえは左京です。左京八条」

「左京八条!?遠すぎないか?ここまで一体どれぐらいかかるんだ!?」

「二刻(一時間)程ですかね」

「二刻も歩くのか……」

 真備の言葉に皇子はげんなりした顔をした。

「もう暗くなってまいりましたし、お話はまた後日ということにしませんか。明日は休假くけ(休暇)の日ですので、明後日にでも」

「いや、折角だから真備の屋敷へ行く。真備は務め務めで全然会いに来てくれないからな」

「!吾家は屋敷と言えるような大きなものではありません。小さく狭いものですのでみ……失礼、大津殿をお呼びするのは失礼にあたるかと。それに、先月お会いしたばかりではありませんか」

「友垣ならもう少し短い間隔で会ってくれても良いだろう?吾いつも一人で寂しいんだぞ」

「はぁ」

「ここで立ち話もなんだ。歩きながら話そう。いつもどの道を通るんだ?」

「どうしても吾家を見たいとおっしゃるのですね。後悔なさっても吾は責任持てませんよ」

「俄然興味が湧いてきたな!その衣の着こなしと同じ位、家も整えられているのだろうな。いや、見た目だけ取り繕って家はそれほどでもないのか?」

「後者ですね」

「フフッ即答か。正直だな!」

 大人しくいつも一歩引いているため気が弱いと思われるせいか、昔から皇子や玄昉のように押しの強い人によく振り回されてきた。

 だからこの程度の我儘は慣れっこだ。

 否定しても聞き入れてもらえない場合は、実際に体験して後悔してもらうに限る。

「では参りましょうか。早くしないと暗すぎて歩きにくくなりますからね」

「そうだな!急ごう急ごう!」

 そう言うと、皇子は口の左端を上げて笑ってみせた。

 自分の我儘が通って満足したのか、それとも自分の心を読んだ上での反応なのか。

 真備にはまだ判別が難しかった。

「いつもこちらから帰ります」

 真備は朱雀大路のある東に向かって歩き始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る