十一

 夕方になり、庭園は薄闇に包まれていた。

 庭園のあちこちに灯明の小さな明かりが灯っている。

 真備と皇子は、廂の板間に敷かれた白い毛氈もうせんの上に、東西向かい合い胡坐をかいて座っていた。

 真備の表情はいまだ険しく酷薄なままだ。

 真備は己の両手を開いて、閉じてみた。

 麻痺も痛みもない。

 先程体が熱くなったのは、治癒の術をかけたということなのか?

 真備は皇子を見る。

 皇子は着替えた衣の上に、白虎に肩を引き裂かれた朱華色の袍を肩にかけている。

 辺りに血の匂いは漂っていないので出血は止まったのだろうが、右腕は見えない。

 大刀を交えた時よりもずっと穏やかな皇子の顔は、よくよく見ると賜死した時の年齢よりも五~六歳ほど若いように真備には感じられた。

 二人の目の前には、方几ほうきと呼ばれる脚がとても短い小さな机が据えられ、その上には黒漆の箸と匙、それぞれ強飯と汁物の入った椀、そして犀の角でできた盃が置かれている。

 皇子は左手に持った青銅製の金色の胡瓶(酒瓶)を突き出して酒を注ごうとするが、真備は方几の上の盃を取ろうとしない。

「酒は飲みません」

「飲めませんではなく?」

「飲みません」

「鴆の毒でも警戒しているのか?飲まんと先程の虎のようになるぞ」

「……」

「……ここで死ぬと二度と会えなくなるぞ。そう、阿倍仲麻呂にな」

「!」

 皇子は真備の動揺を見て、唇の左端を曲げてニヤッと笑った。

「命が惜しかろう?だったら一杯位つきあえ」

「……頂きます」

 真備が観念して盃を差し出すと、皇子は機嫌よく酒を注いだ。

 一気に飲み干す。

「もう結構です」

 そう言って、盃を方几の上に置いた。

「頑なだな」

 采女が二人、大小さまざまな黒漆のつき(深皿)を載せた方机を恭しく持ってきて、それぞれ二人の前に据えた。

「!?」

 真備は驚いて、自分の前に方几を置いた宮人の顔を凝視した。

 昨日話をした宮人その人だったからだ。

みまし、何故ここに!?もしや、皇子の事をご存じで吾に声をかけたのですか!?」

 真備は思わず話しかけたが、無表情の宮人は答えず、もう一人と共に黙って下がっていった。

「!あの方に一体何をなさったのです!?」

 真備は身を乗り出し、坏の中の塩抜きした塩鰹の切り身を箸でぎこちなくつまんでは、もぐもぐしている皇子に聞いた。

 皇子は平然とした顔で、

「吾は何もしていない。ただはいぜん(給仕)を頼んだだけだ。いかがわしい事でもして篭絡させたとでも思ったか?」

「は?」

「分かっとらんようだな。惚れているのか?あの者に」

「理解しておりますし、そうではありません。あの方は皇子の采女ではないはずです。解放して頂きたい」

「ふむ……それは、汝の返答次第だな」

「!?……何をすればよいのです?」

 真備は皇子の意図を察して聞いた。

「震旦では昔から、音曲の伴わない食事はまともな食事ではないという。そうだろう?」

「はぁ」

 皇子は傍らの五弦の琵琶を手に取り、

「どうしても一曲聞きたくてな。四弦の琵琶が弾けるなら問題なかろうと思っていたが、いざ実際に手に取ってみると勝手が違って自分ではうまく弾けん。そこでだ……汝、これがどういう物かわかっていそうだな」

「五絃です」

「唐ではそういうのか?見たままだな……では、今すぐこれを弾きこなせる者を探して連れて来てくれ。汝と共に渡海した唐人の中に、できる者がいるかもしれん」

「その必要はありません」

「ほーぅ、何故?」

「吾が弾けます」

「!?まことか?」

 皇子は思わず身を乗り出した。

「汝は方術だけでなく音曲も極めているのか!?」

「どちらも極めているというわけではありません」

「では一曲所望する」

「!」

 真備は思わずのけぞった。

「どうした?やはり弾けんのか?」

「これは奏でるためのものではありませんので、恐れ多く……」

おびと(聖武天皇)の叱責が怖いのか?汝に手を出すようなら吾が始末するから気にすることはない。遠慮なくやるがいい」

 皇子は優しく物騒なことを言う。

 顔が微かに醜く歪んだ。

「お止め下さい、そのようなことは!」

「では弾いてくれるか?」

「……承知致しました」

 真備は頭を下げた。


 真備は落ち着きなく何度も手巾で汗をかいた手を拭きながら、琵琶の弦軸(ギターでいうペグ)をいじったり撥で弦を弾いたりしてチューニングしていた。

「駄目だ……鑑賞するための品だからか、若干荒い作りになっているんじゃないか?音が違うような……」

 と、浮かない顔で呟く。

 皇子はニコニコしながら手酌で酒を飲みつつ、真備の顔を見つめていたが、

「これを使えと言ったのは吾だ。どうしてもできんのならそのままで構わんよ」

 と声を掛けた。

「はぁ……それでは」

 真備は居住まいを正すと、撥で弦をビンと弾いた。

 ――踊りだしたくなるような、明るく楽しい曲調ではない。

 琵琶という楽器がそうであったように、唐よりずっと西の国からやってきた楽人が、戻るにはあまりに遠すぎる故里を恋しがって一人奏でるような、日本にも唐にもない異国情緒を漂わせたゆっくりで物悲しい旋律。

 何も考えずに弾き始めたが、夕闇に沈むこの時間帯に合った選曲のように感じられて、真備は自分の勘が正しかったことに安堵した。

 それにしても――

 皇子からは何故常に恨みや憎しみの感情を感じないのだろうか?

 真備は昨晩聞いた老婆の話を思い出した。

 死者は黄泉路を行く、という理を自ら外れて妖厲になってでも姉の身を守ったということは、その姉が死ぬと知った時は筆舌に尽くしがたい苦しみに襲われたに違いない。

 簡単に己の憤怒怨嗟を忘れることは決してないはずだ。

 自分は生者との別離ですら耐えかねて、苦しい思いをしているというのだから。

 ――苦しい思い?

 情けない!

 今日も結局一人では……しかし……

 耳はきちんと音を聞き、手は乱れなく動き続ける。

 しかし、頭の中ではいつも音曲とは関係のない思索に耽ってしまうのだった。

 頭をあげて空を見ると、晴れた空に月が浮かんでいた。

 今、仲麻呂も同じように月を見ているのだろうか?

 齢四十を過ぎて女々しいことは重々承知だが、会って声が聞きたい。

 吾のしていることは真っ直ぐ正しいのか否か、と――

 ビン、と撥が弦を一つ弾いて手が止まり、真備は自分が曲を演奏し終わったことに気づいた。

 ふうと息を大きく吐いて、真備は皇子を見た。

「うわっ!」

 皇子はその血溜まりのような赤い両目から、大粒の涙を流していた。

 方几をどかすとその場に突っ伏し、

「姉様……姉様!」

 と呻きながら嗚咽する。

 真備は皇子がなぜこれほどまでに慟哭するのか見当がつかなかった。

「姉様の御姿を思い出した……顔も……身体もありありと」

「は?」

「すっかり忘れていた……誰よりも慈しんできたはずなのに……情けない!幽愁暗恨の情念に流され、己が宝珠の御姿を思い出さずに日々を過ごすとは!」

「はぁ」

「……汝、誰かのことを強く思慕しながら弾いただろう?筒抜けだぞ」

「!!まさか、そんなこと」

「違うか?」

「あ……その……そうです」

「正直だな」

 皇子は起き上がると衣の袖で涙をぬぐい、

「長安で誰も何も言わなかったのか?雑音のない素晴らしい撥捌きもさることながら、これだけ聞く者の心を掻きたてることができる奏者を吾は知らん。汝の奏でる音を聞いた者はきっと、汝と同じような思いを抱いて泣き咽ぶことだろう」

「!?」

 真備は昨日の加丹麻呂の言葉を思い出した。

「そ……うなんですかね?」

「実感がわかんか?どうも汝は男女の心の機微というものに疎そうだからな」

「う……」

 皇子は鼻をすすると、

「とにかく、姉様を思い出させてくれた汝に感謝する。采女は解放しよう。実は昨日あの女が汝と話しているのを見て、汝を驚かせようと思って声を掛けたのだ。本当にいかがわしいことをしたわけではないから安心しろ」

「はぁ。しかし、そのような軽い理由で人を振り回すのは良くないと思います」

「ほほぅ。吾に説教するか」

「う……申し訳ありません」

「ふふっ。罵倒されることは多々あっても、諭されるのは久方ぶりだ。嬉しいよ」

 泣き腫らした顔の皇子はニッと子供っぽく笑ってみせた。

「あの、一つお願いがあるのですが……やはり、この五絃をお返し頂きたいのです」

 真備は抱いていた琵琶をそっと横に置くと、頭を下げて言った。

「なんだ、要望が多いな。では、一つこちらの要望も飲め」

「承知しました」

「よし、ならば言おう。下道真備よ、吾の麗しき友になれ」

「?」

 真備は驚くよりも突然何を言い出すのか、と不思議そうな顔をした。

 暫く顎髭をしごいて考えていたが、

「……たとえ相手が皇子であったとしても、いきなり古琴の友になることは難しいと考えます。まずは普通の友垣となりましょう」

「汝、分かっとらんな」

「?解釈は間違っていないと思いますが」

「まぁいい。帰ってそれを内蔵頭に渡せ」

 皇子は琵琶を指差して言った。

「はぁ、ありがとうございます」

 自分で言っておきながら変な話だが、なぜ盗んだ相手に礼をしなければならないのか、と真備は腑に落ちない顔をしつつ頭を下げた。

 皇子はその顔を見てふふっと笑うと、

「そうだ、一つ。汝が疑問に思っていた、何故吾が禍々しい妖気を纏っていないかを教えておこう」

「!」

「吾は民草が噂するように朝廷や京師の民を恨んでいるわけではまったくない。今日も汝は吾を殺す気でいたかもしれないが、吾は汝を殺す気など毛頭なかったのだぞ。今や実現は不可能となってしまったが、吾は経世済民の志を忘れてはいない。ただ……ただ、己が命を差し出してまで交わした約束を違えた草壁と、その子々孫々を許さないだけだ。絶対にな」

「!!」

 皇子は白虎を斃した時に一瞬見せた、夜叉のような恐ろしい顔になっていた。

 そうか、これが勾陳なのか。

 確かに、皇子の中で青龍と勾陳が存在していた。

 真備はやっと納得した。

 と同時に意識を失くし、その場にバタンと仰向けになって倒れてしまった。

「気力が切れたか」

 元の穏やかな表情に戻った皇子は、真備のそばに寄り左手で抱き起こした。

「そうかそうか、あの留学生か……あの二人、まるで幼い頃の吾と姉様のようだった。ふふっ、懐かしい……気に入った」

 皇子は真備の頬に顔を寄せる。

「悪いがこの男は吾が貰い受けるぞ、阿倍仲麻呂」

 そう言い終わると、皇子は真備を抱いたまま崩れるように床に突っ伏した。

「……汝が前後不覚のうちにもう少し戯れたかったのだが、実に惜しい……吾も血を流し過ぎたか……」

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