十
門の向こうは饗宴用の庭園になっていた。
敷地は東西八十メートルに南北百メートル程の広さで、平屋の建物が二棟あり、壁に沿うようにして松や梅、桜に柳といった様々な種類の木々が植えられている。
敷地の中央には玉石が敷き詰められた逆L字型の池と、その池に流れ込むものと池から流れ出るもの、二筋の小川のような曲水が作られていた。
ビン――
低い弦楽器の音が響く。
「……琵琶の音か?」
真備は音のする方を見た。
「!」
人のようなモノが、庭園の中央、池の端に佇む長方形の平屋建物の
螺鈿細工で彩られた五弦の琵琶の弦を、これまた螺鈿細工が施された赤漆の撥で弾いている。
「勅を受けたのは
若い男の声がした。
真備が凝視すると、声の主の顔は厳つくはなく整った美しい顔立ちで、瞳の色が血溜まりのように毒々しい赤であることは遠目からでもよく分かった。
身に纏うのは、褪せた朱華色(薄い赤色)をした
その体は透けておらず、結髪をほどいた白髪の頭には、鹿の角に似た二本の金色の角が生えていた。
「何だあの角は。厲鬼ではないのか?それに……盗まれたというのは
真備は抜刀すると、その鋒を妖厲に向けた。
「
「撥弦の響きに剣抜の
その妖厲が池の方に向かって撥を持つ腕を振った。
すると、水面に張り出した、廂とつながる露台(屋根のない台)に置かれていた大きな櫃が、突然爆発したかのように四方に飛び散った。
辺りに黒い靄が立ち込める。
「!」
靄が晴れた露台の上には、老若男女だけでなく、犬や牛馬の魂まで固まって団子になった魑魅魍魎が蠢いていた。
「一つ所に多くの者が住み続けると、有象無象も湧きだすものだ。住処の近くにまで来られると不快だから時々片付けるのだが、最近は数が増えて面倒になってな。汝が片付けといてくれ」
わざわざ集めて櫃に詰めたのか?
面倒と言うわりには
「……ならば」
真備は動じず、革袋から伏虎の文鎮を取り出す。
「勅令、站起来撃敗敵妖厲、急急如律令」
そう呟いてから息を吹きかけ自分の前に放り投げた。
すると、文鎮は翡翠色の瞳を持つ大きな白い虎に変化した。
毛並みもフカフカで生きている虎そのものだ。
「ほう!」
妖厲は食い入るように白虎を見つめている。
白虎は咆哮すると魑魅魍魎に飛びかかり、その鋭い爪と牙とでバラバラに引き裂いて、あっという間に食べつくしてしまった。
妖厲は満足そうに舌なめずりする虎を見ながら、
「これは参った!早々に追い払おうと思ったら、逆に倒す敵が増えてしまったな!」
と、言葉とは裏腹に嬉しそうな声色で言った。
琵琶を置き、代わりに黒作大刀を掴んで立ち上がる。
「!?」
真備より少し背が高い皇子の後ろに、金色に輝いてくねる龍の尾が見えた。
「尾まで生えているのか!」
真備は流石に面食らった。
唐でも日本でもこの目で見たことのない姿かたちだ。
「民が流布する俗伝のおかげで、身体から変な物が生えてきたよ。便利な時もあるし、何より面白いから構わんのだが。実はな」
ウオオオオオゥ――
白虎は楽しそうに話す妖厲の言葉を遮るように再び咆哮をあげると、妖厲に襲い掛かった。
妖厲は眉をひそめ、
「本当に汝は情緒がないな」
と言って抜刀し、ひらりと飛んで州浜の上に降り立つ。
「吾が
妖厲は余裕の表情で、息荒く噛みつこうとする白虎を優雅に避ける。
「これが虎かぁ!生きている虎もこんな感じで獰猛なのか!?」
真備は気づかれぬよう静かに間合いを詰めると、懐から取り出した呪符木簡を一枚投げ、
「禁閉」
と呟いた。
木簡はまるで妖厲に吸い寄せられるように飛んでいく。
しかし妖厲は白虎の攻撃を避けつつも、素早い動きで大刀を振るい、木簡を叩き落した。
「隙をついて動きを封じようなど甘い甘い!しかしこの虎は噛みつくだけか?能がないな」
その時、白虎の爪が妖厲の左肩に当たった。
「!!」
三本の爪が朱華色の袍を引き裂く。
「よくも!!」
妖厲の顔が、余裕のある顔つきから、夜叉のような憤怒の表情に変化した。
手に持つ大刀の刀身が、薄い緑色の光を纏う。
妖厲は太刀を振り上げると、牙を剥いて襲い掛かろうとする白虎に向かって勢いよく振り下ろした。
光は三日月状の鋭い刃となって飛んでいき、白虎に当たる。
すると、白虎は左右対称に真っ二つになった。
「!」
地面にどうと倒れた二つの体はみるみる小さくなって肉感がなくなり、元の硬い錫の文鎮に戻った。
何だあの術は?唐では見たことがない。
真備は心の中でつぶやいた。
「姉様のお付きのアラガミが使っていた必殺の術だ。汝は見たことがないのか?
親切に説明する妖厲の顔は、元の余裕のある表情に戻っていた。
「!」
思考を読み取る術まで習得しているのか、と真備は内心舌を巻く。
「そう言えば汝にだけ名乗らせて、吾は名乗っていなかったな。吾が名は大津。宮城に深く係わる者すべてが口にすることを躊躇する、忌まわしい名だよ」
その妖厲、大津皇子は自嘲気味に笑って言った。
皇子は着ていた朱華色の袍を、流觴亭の廂の欄干に投げ掛ける。
「もっと見せてくれるんだろう?汝の手の内を」
皇子は口の左端を上げて笑った。
真備は大刀の柄を強く握りしめる。
「……心が真っ直ぐ正しくあれば、恐れるモノは何もない!参る!」
自らを奮い立たせるために再び大声を出すと、おっとり――人によってはトロく見える今までの動きとは一転、斃された白虎のように素早い動きで皇子との距離を詰めた。
「速い!!」
皇子の眼前に立った真備は、何度も自分の大刀を皇子に打ち込む。
皇子は受けるのが精いっぱいだ。
刃先が皇子の頬をかすめ、赤い筋を作る。
真備は右手で大刀を振るいながら、握りしめた左手を皇子に向かって突き出した。
「!?」
左手に嵌めた三つの戎指からそれぞれ一本ずつ、まるで琴の弦のような輝く糸が放たれた。
皇子は避けようとしたが間に合わず、右腕を三本の糸に絡み取られてしまった。
「何だ!?蜘蛛の糸か!?」
真備はぐっと力を込めて左手を引くと、絡みついた糸がギュッと引き締まり、皇子の腕から鮮血が飛び散った。
「!!」
ボトボトという音と共に、大刀を握ったままの右手と衣の端切れ、骨のついた腕の肉が地面に落ちる。
「ぐああっ!!」
皇子は痛みで思わず呻いた。
「これで
「……吾の術がそれだけと思うなよ!」
額に脂汗を浮かべた皇子は、残った左手で千切れた右腕を押さえ、流觴亭の屋根の上に飛び移った。
「この程度で勝敗はつかないか」
真備は舞うような軽やかさで屋根の上に飛び乗った。
「!汝、道術を極めているな!」
「道術は習得していない」
「では何だ、その身のこなしは!?」
「汝が知る必要はない」
真備は再び斬りかかった。
大刀を受け止める術を失くした皇子はただ避けるだけだ。
しかし、ビッと真備に向かって右腕を振った。
「!?」
真備の顔に血がかかり、視界が遮られる。
皇子は一瞬怯んだ真備に回し蹴りを入れた。
「!」
真備は何とか受け身を取った。
皇子は不安定な屋根の上でもバランスを崩すことなく、真備に蹴打を喰らわせる。
真備は攻撃を受けつつ袍の袖で目をぬぐうと、再び斬りかかった。
「!蹴っても吹き飛ばないのか!?やはり道術を極めているな!」
「極めてはいない」
「ならばこうだ!!」
突如地面がグラグラと揺れ出した。
地震だ。
大きな揺れではないが、左右に揺れる。
しかし、真備は慌てず、上手くバランスを取って立っている。
「!?」
「なゐが来るのは承知の上だ」
真備は屋根の上から飛び降りた。
「ふん……良く調べてるじゃないか!吾のこと気に入っているのか?……おわっ!!」
真備は降りながら右手を突き出し、再び三つの戎指から三本の糸を繰り出すと、皇子の体に絡みつかせた。
「また!!」
地面に降り立った真備が右手を引くと、皇子は宙に舞い上がり、地面に叩きつけられた。
同時に地面の揺れも治まった。
「さぁどうする?このまま返さねば汝の命がなくなることになるぞ」
「吾が命!?……ㇵッ!!命など、とっくの昔に尽きている!!」
皇子は立ち上がり、力を込めて真備を引っ張った。
「!?」
予想以上に強い力に耐えきれず、真備はよろける。
「フッ!!」
皇子は左腕に渾身の力を込めると、胴体と腕をまとめて絡めていた糸を引きちぎった。
「!?硬い銀糸を引きちぎるとは!」
血塗れの皇子は一瞬で真備との間合いを詰めた。
「!!」
そして、真備の右の脇腹に拳を打ち込んだ。
現代でいう『リバーブロー』だ。
「ぐあっ!」
真備は横に数メートル程吹っ飛び、地面に転がった。
呻き声をあげ、起き上がることができない。
「……汝に凝った術などいらん。この手でその首ねじ切ってくれよう」
皇子は真備に近づくと、その喉元を掴んだ。
「!」
その時、戎指から放たれる糸と同じ、銀色に輝く糸が皇子の後方の地面から無数に飛び出し、再び皇子の手足を絡め取った。
「!!後ろからだと!?」
皇子が振り向いたその時。
鋼でできた鎗の穂先だけが六筋、地中から高速で飛び出してきた。
「おぐっ!?」
穂先はすべて皇子の背中に勢いよく突き刺さった。
皇子は身動き一つしない。
「……やったか?」
真備はようやく立ち上がった。
「……やってなどおらんよ」
「!?」
ガタン、ガタンという音と共にすべての穂先が地面に落ちた。
龍の尾で器用に穂先をつかんで捨てたのだ。
どの穂先にも血は微かにしかついていない。
「どういうことだ!?」
真備が思わず大きな声を出したその時。
バチイッ!!
皇子の身体がフラッシュを焚いたように一瞬光ると、稲妻が真備に向かって奔った。
「ぐふっ!!」
雷撃を喰らった衝撃で、真備の身体が跳ね上がる。
銀糸はふわっと光ると同時に、跡形もなく消えてしまった。
「あ……あ……」
真備は再び地面に倒れ、うずくまって痙攣している。
皇子は真備に近づくと、たやすくその手から大刀を奪い取った。
真備はなんとか声を振り絞り、
「……な……ぜ……」
皇子は奪った大刀を地面に突き刺すと、懐から木簡を切って作った刀型の呪具を取り出した。
「汝は否定するが、方士ならばわかるだろう?防御に長けた方士に刃は通らんよ」
「くっ!!」
その可能性のことを失念していた。
皇子は刀呪具をしまって大刀を引き抜くと、真備の腹を蹴って仰向けにし、真備の上に跨った。
「汝はよくやったよ。当代一といってもいい位の腕前だ。ただ、相手が悪すぎた。残念だったな」
そう言うと刃先を胸につきつけ、口の左端をあげてにやりとした。
大刀を振り上げる。
やはり自分一人では勝てなかったか――真備は観念した。
固く目を閉じ、
「すまない、すまない仲麻呂!!」
と叫んだ。
「仲麻呂だと?」
刃が真っ直ぐ振り下ろされる。
「……!?」
真備は、なぜか頬に冷たい感覚を覚えた。
脇腹がカッと火がついたかのように熱くなったかと思うとすぐに熱が引き、体中の痛みも痙攣もなくなった。
「な……?」
痛みから解放された真備が目を開けると、皇子は鼻が当たりそうなほど近くに自分の顔を寄せていた。
「!!」
真備は思わず息をのみ込んだ。
驚きのあまり声をあげたかったが、あまりに皇子の顔が近すぎて、息をかけるのも憚られた。
大刀は真備の胸ではなく、左の頬すぐ横にあった。
鋒は地面に突き刺さり、刀身が頬に当たっている。
「……はっはっはっ!そうかそうか、汝あの留学生か!吾を見て前の男の陰に隠れたあの!」
「!?」
あの情けない様を忘れていなかったのか。
真備は大見得を切った手前、あまりの恥ずかしさにまるで恥じらう乙女のように顔が赤くなった。
「国の未来を拓くという重い使命を背負い、海を渡って山河を超え、故里の言葉の通じぬ異国の街でただひたすら勉学に勤しむ……ここまで人を鍛えあげるとは、相当苛酷な試練なのだな、渡唐とは。ふーむ……」
皇子は立ち上がって言った。
「……一杯つきあえ」
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