薬師寺でしっかり朝餉を頂いて、再び壬生門の前に真備と玄昉が戻ってきたのは、申の初刻(午後三時)を過ぎた頃だった。

 真備は馬から降りると、玄昉を馬から下ろし、手綱を渡した。

みましは馬を返してきて下さい。後は吾一人で大丈夫ですから」

「玄昉と呼べというに!で、どこにいるのだ?馬を返したらそこに行く」

「ですから、一人で大丈夫ですからご自身の務めに戻って下さい」

「真備の勅の方がよっぽど重要事項だぞ!」

「……下道殿じゃないか!?」

「?」

 二人が壬生門を見ると、門の階段の端でたむろしていた黄の袍の集団の一人が、真備を指差していた。

「下道殿!」

 昨日の得業生が駆け寄ってきた。

「申し訳ありません、遅くなってしまって。式盤をお返しします。おかげで助かりました」

「いえ、それは急がなくて大丈夫です。それより……」

 得業生はバツの悪そうな顔で門の方を振り返った。

「!?」

 門のど真ん中に、広足が腕組みをして立っていた。

「本当に助かったのぉ?助かったっていうなら、じゃあもう見つけたんだよねぇ?今日は一日こっちに来なかったみたいだけど」

 真備は広足に向かって頭を下げたが、傍らの玄昉は露骨に不快そうな顔で広足を睨みつけた。

「何者だ?あの偉そうな官人は」

「典薬頭の韓国連広足殿です」

「おやおや、尻尾巻いて逃げるかと思ってたんだけどねぇー。厲鬼と向き合う覚悟は決まった?」

「覚悟?それはもう……既に決めております」

「!」

 玄昉は真備の言葉を聞くと慌てて真備の顔を見たが、真備は今までと変わらず穏やかなほわほわっとした顔のままだ。

「じゃ、その友垣と今までどちらへ?」

「薬師寺です。新益京だった地にある方の」

「へーぇ参拝にぃ?それとも、行基に会いに行ってたのぉ?」

「いいえ。それに行基殿にはお会いできませんでした」

「そりゃー残念!とんだ無駄足だったねぇー。吾に聞いてくれれば居場所教えてあげたのにぃ。今摂津の住吉にいるって話だったんだけどねぇー。間抜けだったねぇー」

「!?まし、間抜けとは何だ!」

「馴れ馴れしいわよ、留学僧の癖に未だ無位の小僧しょうそうが」

 広足はカモを見つけたとばかりに嬉しそうにニヤニヤしだした。

「何ぃ!?吾は紫袈裟を着る立場だ!三品だぞ!汝こそ!」

「ここは日本よ、唐じゃない。どこでも同じように通用すると思わないで欲しいわねぇ」

「喧嘩をしないで下さい!」

 真備は詰め寄ろうとする玄昉を抱えて制した。

「真備!吾等は此奴等を打ち倒すために命を懸けたのだぞ!」

「違います!この国を少しでも良くするためです!」

「!!」

「……騰蛇の挑発に乗ってはいけません。朝も話したじゃないですか。一歩ずつ、一歩ずつですよ」

 真備は小声で玄昉を諭す。

 得業生と学生達は固唾を飲んで見守り、帰宅途中の官人達は面白そうに見物している。

「そうだ……そうだった!」

「ここは皆さんの邪魔になります。場所を替えませんか?吾は冷静に話がしたいです」

「おやおや、これから楽しくなりそうだったのに、ざんねーん!まぁいいわ、お好きな所でどうぞ」

 広足は変わらずニヤニヤして答えた。


 真備達は、大極殿院の南門の前、朝堂にある朝庭にやってきた。

「……ここで見たのだよな、真備」

「!玄昉ど……!馬はどうしたんです!?」

「学生の子らが代わりに返してくれると」

「なんで皆いなくなったのかと思ったら、そういうことですか。駄目ですよ、彼らは使部つかいべじゃないんですから」

「分かった分かった、後でちゃんと礼するよ」

「……何を見たんだって?」

 広足が南門を見上げながら質問した。

「皇子を」

「何!?見つけてて今まで何やってたのよ!」

 広足は驚いて真備の方を振り返った。

「昨日今日はまだ遭遇しておりません。十八年前の話です」

「!そんな昔にぃ!?しかし、見たことがあるなら尚更何故見つけられない?留学生って口ばっかりの無能!?」

「何だと!?」

「玄昉!抑えて」

「真備!……やればできるじゃないか呼び捨て。それでいいんだよ!」

 玄昉は真備の手を取って喜んだ。

「!あぁ、いやそうではなく!これだけ分かったのならわかるはずなのですが、ちょっと……」

 真備は玄昉の手を優しく払いのけて言った。

「ハッキリしないねぇー。いまし大丈夫なのぉ?」

「吾等が見たあの厲鬼が皇子だとすると、皆さんが恐れおののくのを見ると違うのではないかと思う反面、皇子が安らかな心を取り戻したのかと言われると、それも言いきれないように思えるのです……吾は皇子を青龍と見立てているのですが、昨日それでは見い出せなくて」

「何?四神の?」

「いえ、十二天将の方です」

「なーにーぃ!?汝、人を十二天将なんかに当てはめて考えてんのぉ!?もしかして、人付き合い苦手!?」

「!」

 広足が今まで以上に大きな声で言ったので、真備は顔が赤くなった。

 一人残り、真備の包みを持って後ろで成り行きを見守っている得業生の視線が痛く感じられる。

「あわわわそそそういうわけでは……」

「……あのさぁ、汝、何で一つに決めてんの?」

「え?……主たる天将は一つなものではないでしょうか」

「でも一つに当てはまらないんでしょ?だったら、必要なもの全部当てはめたらいいじゃない」

「!しかし、そのようなことは今まで」

「それとも」

 広足は真備の言葉を遮って言った。

「青龍以外の天将に当てはまって欲しくないわけ?己が理想でも皇子に当てはめてんの?」

「!!」

 真備は顎髭をしごいて考えた。

「青龍でないモノ……」

「他に心当たりない?天将だったら」

「!!」

「心当たりあるのか、真備」

「しかし……」

「ほら!やっぱり認めたくないんじゃない。青龍じゃないって。そんな歪んだ目で見つけられんのぉ?」

「!」

 真備は髭をしごく手を止めた。

「心が真っ直ぐ正しくあれば、恐れるモノは何も……」

「何だって?真備」

 玄昉は心配そうに真備の顔を覗き込む。

「……その姿は金色の蛇。象意は闘争や停滞、愚直さ……天将の名は、勾陳」

「どっちも当てはまると思わない?」

「!!……すいません、式盤を!」

 真備は得業生から包みを受け取って、結び目をほどくと大きな白葛箱が現れた。

 白葛筥の蓋を開けて、中から柳筥を取り出す。

 そして柳筥の蓋を開け、その中から十五センチ四方の銅製の六壬栻盤と、六センチほどの長さの指南と呼ばれる青銅製の匙を取り出した。

 玄昉は苦笑して、

「また相変わらずいっぱい持ってきたな。道中重かったろう」

「大丈夫です、軽いものばかりなので」

 真備の六壬栻盤は得業生の持っていたものと違い、真円の板がなく正方形の板一枚に得業生のものと同じような数字や記号が書き込まれていた。

「下道の、ここでやるつもり?」

「どこでもできます」

 真備は六壬栻盤を持つと、真ん中に指南を据えた。

 指南は盤の上でくるりと円を描くように回転すると、持ち手が一点を差して止まった。

「この持ち手の指し示す先が午の方角(南)になります」

 真備は指南の持ち手の先が『午』に来るよう、盤ごと体の向きを調節する。

 地面に座って盤を地面に置くと昨日と同じように目をつむり、両手を指南にかざす。

「!?」

 広足の顔から意地悪そうな笑みは消え、真剣な顔で盤を見つめている。

「あっ!」

 得業生が声を上げた。

 真備以外の皆が盤上に注目する。

 指南は再び数回転すると、持ち手は盤に書かれた二十八宿の『箕』の字を差して止まった。

「!!」

 真備は目を開けて指南を確認すると、

「では行きましょう」

 と言って立ち上がり、持ち手が指し示す方向に向かって歩きはじめた。


 真備達はいろいろな往還を通っては門を潜りを繰り返し、宮城の東の端の方までやってきていた。

 両方が板塀に挟まれた路を歩く。

「ここら辺って東院じゃないですか?それに何で衛士が一人もいないんだろう」

 得業生は不思議そうな顔であたりを見まわした。

 玄昉はくしゅんとくしゃみを一つして、

「才がなくともこんなところにいたくないと思うだろうよ。空気が全然違うじゃないか!何だか寒い」

 門の横で真備の足が止まった。

 指南はくるくると回転している。

 真備は門を見て、

「門があって良かった。ここから入れますね。では、準備をします」

「門がなかったら塀を乗り越える気だったのか?」

 真備は得業生に持ってもらっていた包みを受け取る。

 そして、その場で今まで着ていた深縹色の袍を脱ぎ、白葛筥から深碧色の盤領袍を取り出して袖を通した。

「……淡々としてらっしゃるんですね。怖くないのですか?」

 怯えた顔をした得業生が聞くと、

「先程も申しましたが、既に覚悟はできております」

 真備の言葉に、玄昉が心配そうな顔をした。

 真備が烏皮履くりかわのくつ(先の尖った黒い革靴)から六合靴に履き替え、革帯を締めていると、

「……へーぇ、それ文官用の衣じゃない。動きにくくない?」

 黒作大刀(柄や鞘が漆で塗られた直刀)を手にした広足がやってきた。

 自分も一振りを腰に佩いている。

「居場所、御存じだったんですね」

「長いこと相手してるからねぇ。汝みたいにズバリと当てられなくても、大体は見当つくわよ」

「知っていて教えなかったのか!?底意地の悪い」

「はいこれ。どうせ丸腰じゃ戦えないクチでしょ?」

 広足は睨みつける玄昉を無視して、真備に大刀を投げる。

 真備は難なく受け取ると、柄を握ってゆっくり鞘から抜いた。

 刀身に映った真備の瞳が、今までのほわほわっとした温かみのあるものから、触れただけで凍りつくような冷徹で酷薄な光を放つものに変化した。

「!!」

 真備を見た玄昉の顔は渋くなり、広足の顔は険しくなった。

 得業生は微妙な変化に気づいたものの、理由が分からずおろおろと三人の顔を見る。

「ありがとうございます。これは必ずお返しします」

 顔つきも厳しいものに変わった真備は、刃こぼれがないか確認すると大刀を鞘に収め、腰に佩いた。

「真備、愚僧も行く!」

 玄昉が真備にしがみついて言った。

 真備は腰に下げた革袋から戎指を取り出して指に嵌めながら、

「駄目です。朝も申しましたが、これは吾が適任です」

「足手まといなのはわかっている!だが、汝を一人で行かせるわけにはいかん!己が身は己で守るし、怪我を治せるから全く役に立たない訳ではない」

「ですから」

「頼む!汝のことが心底心配なのだ真備!この通り!」

 玄昉が懇願すると、

「吾のことは別にいいのですが、どうしても行きたいと仰るなら……でも、命の保証はできませんよ」

 真備は懐に差し込んだ呪符木簡の中から四枚抜き出して玄昉に手渡した。

「使い方は分かりますね」

「ありがとう、感謝する!」

 玄昉は法衣の袖から数珠を取り出して、呪符と共に握りしめる。

 真備は荷物を片付け白葛筥を包みでくるむと、得業生に預けた。

「では行って参ります」

 残る二人に会釈をして、真備は門の扉に手をかける。

 すると、扉は力を入れる前にギイイ……とひとりでに開いた。

「!!」

 玄昉と得業生は驚いて門を凝視したが、真備は表情を変えない。

 真備と玄昉は門の内に足を踏み入れた。

 その瞬間。

「うわっ!!」

 玄昉の体だけが宙に浮き、あっという間に門の外へ飛ばされる。

 と同時に門はひとりでにバタンと大きな音を立てて閉まった。

 地面に転がった玄昉は慌てて起き上がり、門をどんどんと叩いた。

「門が開かないぞ、どうなっている!?真備!!返事しろ真備ぃー!!」

「あー、ダメダメ。中は仙境だから、いましの声なんか届かないわよ」

 地面に胡坐をかいて座った広足が、呆れた顔で玄昉を諫める。

「しかし!」

「汝等さぁ、一応戦い慣れてるっぽいけど、唐で何やってきたの?」

 玄昉は門を叩く手を止めた。

「……いまし等は知らないだろうが、とにかく食えないのだ。長安では……少しでも稼ぎを増やして飢えをしのごうと、才のある者は道士や仲麻呂から術を教わってアラガミ退治の真似事を……真備は、その中で一番タチが悪かった。戦い方が容赦ないのだ。敵にも、己にも。だから誰かがそばにいて、やりすぎを制止しないと死ぬことになる!」

「まぁまぁ、そんな心配しなさんな。小僧らしくそこで座って読経でもあげてさぁ」

「何だと!?」

「心配することないって。どうせ勝てやしないんだから。ただ……」

「ただ!?」

「勝機があるとするなら、ここかねぇ」

 広足は自分の胸を指さした。

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