太陽は完全に沈み、辺りは真っ暗になってしまった。

 三人は足元が見えなくなってきた路地を急ぎ足で進んでいた。

 真備達の住む坪よりも南の地域だ。

「あの官人様足遅ぇなおい!」

「失礼なこと言うな!けんとーし様は翁なのに頑張って若い吾等について来てんだぁ、もちっと労われ!」

「あの、吾まだ四十一なんですが」

 やっと追いついた真備が訂正した。

「それより!夜間に外出すると衛士の方に見つかって取り押さえられますよ!大体、今の時間からお邪魔するというのは失礼になります。吾一人で明日伺いますからその、家の場所をお教えいただけませんか」

「官人様。悪ぃけど実はな……迷った」

「は?」

「何ぃ!?……いや待て、汝、その下っ端官人の名前は知らんのか!」

「えー?……何とかの鳥養だ。多分」

「よっし、それで十分だ。おーい!!官人の何とかの鳥養ー!!何とかの鳥養ー!!」

「!!」

 真備は叫び出した加丹麻呂の口を慌てて塞いだ。

「静かに!もう皆さんお休みになる刻ですよ!」

「うぐぐぐるじー!!」

「……まし等何騒いでんだぁ!?婆さんが起きちまっただろうが!!」

 ジタバタする加丹麻呂と真備がいるすぐそば、崩れかけた土壁の門から、痩せた男が顔を出した。

「わっ!……申し訳ありません、お休みの所を!」

 真備が慌てて謝罪する。

 加丹麻呂は、驚いて気を緩めた真備の腕をやっとのことで振り払った。

「……はーはー、苦しかったー。けんとーし様結構力あるなぁ!」

「おっ、いまし、鳥の!おい、加丹!こいつだ!」

 双六仲間の男が痩せた男を指差して叫ぶ。

「家分かったのか!?よし入るぞ、けんとーし様!ボーっとしてねぇで早く!」

「え!?うわぁ!」

「おい何だこんな刻に汝等!勝手に入ってくるな!おい!」

 加丹麻呂は真備の腕をとって遠慮なく門をくぐった。


「は?」

「年寄りってのはな、一度昔のことを話し出すとなげーんだ。今半分寝ているから長々話しはしないだろうが、聞きたい話聞いたらさっさと帰ってくれ。お互い明日も早いんだから」

 鳥養という名の男は真備の袍を見て言った。

「ありがとうございます。このお礼は後日必ず」

 真備が頭を下げると、鳥養も軽く頭を下げて離れ家を出て行った。

 真備は主殿とは別棟の離れ家で寝起きしている鳥養の祖母に会って、話を聞くことができたのだった。

 灯明の小さな明かりが真備と老婆を照らす。

 加丹麻呂達は主殿の方で双六をやっているのか、時折騒ぐ声が漏れ聞こえてきた。

 齢八十を超えているという老婆は耳が遠く、質問を理解してもらうまで時間がかかった。

 しかし話が分かると、

「大津皇子の話をするとの子はみんな喜ぶんですよぉ」

 と機嫌良く話し始めた。

 が、鳥養の言う通り、女儒にょじゅとして浄御原宮で数年働いたことがあったという老婆は、とにかく話が皇子以外のことに脱線し、ちっとも肝心の話はしてくれない。

 しかし真備は嫌な顔をせず、根気よく老婆の話に耳を傾けていた。

「皇子は本当に女儒達憧れのお方で、誰にも分け隔てなく接して下さって。皇子に声を掛けた女儒の相手をしたこともあると噂で」

「え?御妻みめ(正妻)がおられたのに?……それは嫌だな」

 真備はここで初めて嫌そうに眉を顰めた。

「引く手あまただったことは有名な話ではありませんか。石川郎女との御歌はご存知ない?」

「己が妻を愛せずして他の女を犯すことを喜ぶをいんとなす。婬欲(男女間の情欲のこと)はよろしくありませんね」

「あら珍しい。皆そうしたいと憧れになるのでは?特に殿方というものは」

「まさか!弄ばれる方の身にもなって欲しいものです」

 真備は今日一番の険しい顔をした。

 嫌なことを思い出しそうになり、おのずと手が顎髭に伸びる。

「皇子は」

 老婆は居住まいを正した。

「?」

「皇子は殺されたことを恨んでおられるのではなく、日並知皇子ひなみしのみこ(草壁皇子)が姉の大来皇子も殺そうとなさったのでお怒りになり鬼になった、と後宮の皆は言っておりましたよ」

「え!?」

 思わず大きな声が出た。

「それよりずっと皇子の日並知皇子への怒りは解けず、日並知皇子も長子の豊祖父天皇とよおおじのすめらみこと(文武天皇)も短命なのは、鬼になった皇子に呪い殺されたからなのだ、と」

「!」

 ――十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大來、還至京師。癸丑、地震。

 真備はふと、正史に書かれていた文言を思い出した。

「……まさか、あのなゐ(地震)は皇子が起こしたものと?」

「えぇえぇ。皆そう噂しておりましたし、何より日並知皇子がそう仰られておられたそうで」

「皇子自ら?……そんな文言どの典籍にも」

「どんなお方であっても、自分にとって都合の悪いことは皆言いたくないものでございましょう。ましてや何百年も先にまで残す話となれば」

「!……それは、そう。その通りですが……」

 真備は髭をしごきながら考え込んだ。


 真備は老婆と鳥養、加丹麻呂とその仲間の男それぞれに頭を下げて礼を言い、自宅に戻ったのは戌の刻も終わる(午後九時)頃だった。

 真備はその後もすぐには眠らず、櫃で満杯の書庫に入るとわずかな油の入った灯明皿に火を灯し、櫃の蓋を開けては中身をひっくり返していた。

「あの厲鬼は、典薬頭殿が言うように本当に大津皇子なのか?恨みを抱えているならば、皆が言うようにもっと禍々しく恐ろしい存在であってもおかしくないはずだが……いや、それより皇子は自分が思い抱いていたお方と違ってきているような……あぁそうか。青龍は桃花(色情)の災いも象徴しているからな……」

 真備は眠気覚ましを兼ねて一人ブツブツ呟きながら、櫃に頭を突っ込んで中を漁っていたが、

「あった!この中にあったのかぁ!」

 真備は心底ほっとした顔で、櫃の中から白葛筥しらくずのはこ(晒して白くした葛の茎を編んで作った箱)を取り出した。

 筥の中には包みが入っている。

 包みの結び目をほどくと、深碧色(濃紺)の盤領袍ばんりょうほう(襟が丸い上衣のこと)が現れた。

 自分の物ではなく、位階が上がって不必要になった仲麻呂の唐での朝服だった。

「よし、この筥に皆入れてしまおう」

 真備は包み直した盤領袍と呪符木簡の束、麻の袋に入れた六合靴(唐の官人が着用するブーツ)、柳筥やないばこ(柳の細枝を編んだ箱)と次々筥の中に入れていった。

「……で、この中に筥があるということは……あった!」

 真備は再び櫃の中を探ると、漆塗りの螺鈿の小箱を取り出した。

 蓋を開けると、中に銀製の戎指かいし(指輪)が六個と、錫製の伏虎の文鎮が入っている。

 これらはすべて、厲鬼を見つけた後に身につけて使う呪具だった。

 明日中にあの厲鬼を見つけられる確証はないが、見つけた後のことを考えておかなければならない。

 真備は戎指の一つを左手の人差し指に嵌めた。

「相手が理性ある存在なら説得もできるだろうが……厲鬼らしく自我を失くした状態ならば問答無用で戦うことになる。どちらにしろ、生きるか死ぬかを覚悟しないと」

 そう言った真備の表情が、今までのどこか人の良さそうなほわほわっとしたものから、スッと暗く冷たいものに変化した。

「……心が真っ直ぐ正しくあれば、恐れるモノは何もない。そうだな、仲麻呂」

 真備は左手の拳をグッと握りしめた。

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