「なんだい、浮かない顔してるじゃないか、けんとーし様!」

 辺りにいた人間が全員振り向くほどの大声が東三坊大路に響いた。

「あ……朝はお世話になりました」

 家路を急ぐわけでもなく、考え事をしつつ歩いていた真備の目の前に、今朝家にやってきた直丁が立っていた。

 黄の袍を脱ぎ、その手には青菜の束が握られている。

「双六で勝ったもんで、分捕ってやったんだ!」

 真備が頭を下げると、直丁は得意げに青菜を真備に見せた。

「そうだ!けんとーし様」

「あの、吾は遣唐使ではなく留学生なのですが」

「吾等と夕餉一緒に食べるかい!?」

 直丁は笑顔で誘った。

「!しかし……皆さんの大切な夕餉を減らしてしまうことになるのでは……」

 真備は躊躇した。

 一応言うべきことは言えるものの、真備は元々社交的とは言えない性格なので遠慮したい気持ちも確かにあったが、言葉の通り貧しい直丁達に己の分まで夕餉を出す余裕などないことを理解していた。

「遠慮するこたぁないよ。吾等、けんとーし様と同じ坪にいんだよ」

「そうでしたか!申し訳ありません、気づかないでおりました。ですがあの、吾は」

 真備は遠慮しようとしたが、ぐうう、とまたも腹が鳴った。

「よしよし、行こう行こう!こっからもうすぐだから!」

 直丁は真備の腕をとって引っ張っていく。

「ありがとうございます……あの、お名前は」

大洲おおずの加丹かに麻呂まろってんだ。それよりもけんとーし様、昨日の晩変な音出してたろ?」

「変な音!?……!あぁ、申し訳ありません。夜中に煩かったですね。大きな音を出さないよう気をつけます」

 真備は恐縮して謝った。

 昨晩愛用していた横笛おうてきが典籍に包まっていたのを偶然見つけ、嬉しくなってしばらく吹いていたのだった。

「遊んでしまったせいで片付け作業が遅れて、今日は寝坊してしまったんだ……そう言えば朝の鍛錬もしていない!やはり音声おんじょう(音楽)に現を抜かすのは良くないな」

 真備がぶつぶつ呟きながら一人後悔していると、

「謝ることなんてないって!やっぱりみましだったのかぁ。けんとーしとかいう身分だって聞いて納得したよ。髭も綺麗に生やしてるしよ」

「はぁ」

「実はさ、昨日里の皆であの音聞いてよ、何とも言えない良い気分になったんだよ。上手く言えんけど……京師にいるのによ、目の前に故里の山が見えてきて、吾妹わぎも(妻のこと)が出てきて、なんか懐かしくなって恋しくなって……涙が出た」

「はぁ」

「変な話なんだけどよ、吾、京師に来てからあんまり夜眠れなかったんだよ。だけど、けんとーし様の変な音聞いてから横になったら、すぐに眠れて夜明けまでぐっすりよ!他の奴もそうだったみたいで……ありがてぇありがてぇって言ってたんだ」

「はぁ」

 しゃべり続ける加丹麻呂の勢いに押され、真備は生返事をし続ける。

 力説されても、真備にはまったくピンと来なかった。

 二人は、檜皮葺の築地塀に囲まれた坪の、出入り口になっている棟門を潜る。

「だからよ、あの音出してるモンが分かったら、皆で礼しなきゃなって言ってたんだよ。だから遠慮すんな。飯位しか出せるもんねーんだけどよ。それにしてもありゃなんだ?鳥か鹿の鳴き声みたいな音だったけどよ」

「あれは横笛と言いまして、唐の国で流通している笛という楽器で」

「おーい!変な音出してた人を見つけたぞ!お礼に飯食わしてやろうや!」

「あ……」

 加丹麻呂は坪内にある家のうち最も南端、東側にある家の門を勢いよく開け放った。


 加丹麻呂は越後国から仕丁として京師にやってきて二年目、近隣の里出身の男五人と暮らしているとのことだった。

 真備が通された主殿は、真備邸の主殿と同程度の大きさだった。

 しかしこちらは男所帯らしく雑多なものが散らかった汚いもので、僅かに空いた土間のスペースに、真備を含む男七人が輪になって夕餉を取ろうとしていた。

 玄米すらほとんどない雑穀の飯が、碗いっぱいによそられて出てきた。

「けんとーし様はこんな粗末なの食べるかね?」

 同居しているらしい他の男が心配そうな顔で加丹麻呂に聞いた。 

 夕餉といっても雑穀の飯に先程の青菜を湯で煮た汁、小皿に盛った塩だけだ。

「粗末だなんてとんでもない!口にできるものがあるなんて、これ以上ありがたいことはありません。いただきます」

 真備は大事そうに椀を手に取ると、勢いよく飯をかき込み始めた。

「……よっぽど腹減ってたのかい?けんとーし様」

「苦労してんだな、けんとーし様なのに」

「髭生えてなきゃよぉ、吾等と同じように畑耕してそうに見えんだがなぁけんとーし様って」

 一緒に飯を食べる男達は、真備の勢いに圧倒されてひそひそと話しあう。

「なあに心配するこたあねぇ、けんとーし様なら将来きっと大臣おとどにおなりになるさ!」

「!吾はそんな器ではありません。その、今は官人になっておりますが……幼い頃は本当に、京師の南にある山の中の里で畑を耕しておりました」

 食べ終わった真備は碗を置いて言った。

「……なんかようわからんが、まことに苦労してんだなぁけんとーし様は!なぁ、ここ住み始めたばっかりだろ?京師で分からんことがあったら、吾に言いなぁ。吾ここで二年住んでんだ、大概のことは分かるからよ」

「本当ですか。では一つお伺いしたいことがあるのですが」

「おっもうかい!いいぜ」

「実は、かつて大津という名の皇子がいらっしゃったのですがご存知ですか?その方について今調べているのですけれども」

「知らんなぁ」

 全員声をそろえて言った。

「ミコってなんだ?」

 加丹麻呂が真備に聞いた。

「親王のことです。大君の息子にあたる方を敬ってつける言葉です」

「ほぉー!そうなのかい!」

「分かりますか?」

「知らねぇなぁ。京師に二年いるけど」

 加丹麻呂は即答した。

「そうですか……」

 場が気まずい雰囲気になりかけたが、

「……ずっと京師に住んでるモンなら知ってんじゃないか?」

 男の一人が口を開いた。

「おっ!それはあるかもな!近所のモンに聞いてみるか!」

 男の言葉に加丹麻呂は同意し、すぐさま外に飛び出して行ってしまった。

 真備は唖然として見送って、

「行動が早いな加丹麻呂殿は。見習わないと」

「ただせっかちなだけだって」


「謀反の罪を着せられて追われた皇子が二上山に籠って悪龍となり、京師に雨を降らせている……?」

 真備は驚いた。

 真備は汚さないよう袍を脱ぎ、井戸端で使い終わった皆の碗を洗っていると、せっかちらしい加丹麻呂らしく急いで帰ってきた。

 加丹麻呂が腕を掴んで連れてきた中年の男は、立ち上がった真備に慌てて頭を下げ、京師で流布されている皇子の噂話を教えてくれたのだった。

「そんな話があるのですか。でも、史実と違いますね。皇子は新益京あらましのみやこ(藤原京のこと)の近くにあった訳語田おさだの宮で死を賜ったとあります。二上山に籠ったのではなく、そこに陵墓があるのです」

「そうなのかい?だからこの京師は天気が荒れるんだってうちの母が」

 連れられてきた男は納得のいっていない顔で返答した。

「吾も昔、母から京師には龍がいて、よく日照りを起こしたり雨を降らしたりするのだと聞きました。その龍が皇子だったのかもしれませんね」

「おいまし、他に『おーつのみこ』ってのを知ってるモン、連れて来い」

「!いや駄目ですよ、この方にやらせるなんて!自分で探します」

「いーんだ!こいつ吾と双六やって三回も負けてんだよ、あと二回は何でも言うこときく約束よ」

「あの、双六での博打行為は禁止されているはずですが」

「青菜くれてやったんだからもういいだろうが加丹ぃ!後やれるもんっつったら身から出した糞ぐらいしかねーぞ!」

「だから、知ってるもん連れてきたら後のもう一回分は勘弁してやるから連れて来いっていってんだよ!」

「!!まことか!?それで許してくれんのか!!……なれ、益荒男だな!」

「だろ!?」

「何の話ですか?」

「なら任せろ!双六仲間の下っ端官人が、家の婆さんは飛鳥の宮で大君に仕えてたってよく自慢してたぜ!」

「本当だろうな!?おし!婆さんを連れてくるわけにはいかんから、こっちから行こう!連れてけ!ほら、けんとーし様も早く!」

「今からですか!?もう日が暮れるというのに!?……待って下さいあー待って!」

 真備は井戸の縁にかけていた袍を取って、袖を通しながら二人の後を追いかけた。

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