図書寮は、陰陽寮と同じく中務省の中にあった。

 今までと違い、図書寮の書庫への入室はすんなりと許可が下りた。

「素晴らしい!全部読み尽くしたい!」

 高床倉庫である書庫の中に入った真備は、目をキラキラさせて感嘆の声を上げる。

 書物を読むことが好きだった真備は、大学寮にいた頃に読めたものはすべて読んだ。

 だが、ここには持ち出し禁止になっている国内外の典籍や、正史に編纂されなかった未整理の記録類がまだ沢山ある。

 唐の時代には失われた物も、もしかしたらここにはあるかもしれない。

 ずらりと並べられた典籍や木簡に真備は興奮を隠せなかった。

 真備は一冊でもよいから未読の書を読みたいと思ったものの、伸ばした手を何とか抑えて典籍を調べる。

 しかし、

「……十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大來、還至京師。癸丑、地震……だめだ、もう新しい情報はない!」

 真備は頭を抱えた。

 蔵書を読むために用意された別棟の机に向かって、関連するだろう資料にすべて目を通したが、結局新しい情報を得ることはできなかった。

「狀貌魁梧、器宇峻遠。幼年好學、博覽而能屬文。及壯愛武、多力而能擊劍。性頗放蕩、不拘法度。降節禮士、由是人多附託!記憶していた内容とほぼ同じだ。ならばなぜ見いだせない?典薬頭殿は嘘を?……いや、疑いたくはないな……」

 そうつぶやいて、傍らに置いていた削屑の文字を見た。

 その時、ぐうう、と腹が鳴る音が辺りに響いた。

「あぁー、朝から何も食べていないんだった」

 真備は急に力が抜けて、典籍の山に突っ伏した。


 資料を調べ終わった真備は、入室を許可した史生に礼を言った。

 自分と同じ色の袍を着たその男は話しかけやすい柔和な顔つきだったので、真備は男に質問した。

みましは大津皇子についてご存知ですか?実は大津皇子について調べて」

みまし、その名を口にしてはいけませんよ!」

 男の顔が急に険しくなり、真備の言葉を遮って叫んだ。

「どうしてですか?」

「吾はまだ死にたくない。子が生まれたばかりなんだ!」

「は?」

「ご存じない!?いいですか、とにかくくれぐれも、その名を口にしてはいけませんよ!少なくとも、この宮城ではね!」

「は?」

 真備は室内を見渡す。

 他の官人達も困り顔を真備に向けていた。

「さあさあ、用が済んだなら早く行って行って!」

 違う官人が真備を急き立てた。

「おい、誰か神祇官まで行ってきて!」

「流石に大袈裟だろ!」

ましは死にたいのか!?」

 真備が建物を出ても、戸惑う官人達のざわつく声が聞こえた。

「学生達といい、皆怯え方が尋常じゃないな」

 真備は顎髭をしごいた。


 南中の時間はとうに過ぎ、朝集殿の前を歩く仕事を終えた官人の姿がぽつぽつ見られるようになった。

 真備は朝集殿の石段に腰掛けて休憩していた。

 ここへ来るまでも何人か声を掛けやすそうな人に皇子の話を聞いたところ、全く知らないか、怖がられ嫌がられるかのどちらかだった。

「皇子に怯える者が多いのは何故だ?」

 真備はうつむいて頭を抱えた。

「あー……仲麻呂がいれば、もっと早く居場所を突き止められただろうなぁ。いや、今こんなに聞いて回らずとも、十八年前に見た時点であの厲鬼が皇子だと分かっていただろう」

 大きなため息をつく。

「情けない!この年になっても相変わらず仲麻呂に頼りっきりで!」

「何か悩み事でもおありですの?」

「?」

 真備が横を見ると、髪をけい(カツラの一種、かもじを頭の頂につける)に結い、浅縹あさきはなだの衣を着た宮人くにん(女性官人)が隣に座っていた。

 年齢は二十代後半といった所で、仕事を終えて帰るところなのか、荷物をくるんだ絁の包みを抱えている。

「!!うわぁああぁ!!」

 その存在に気づいていなかった真備は、驚いて一メートル程横に飛んだ。

「も!申し訳ありません!!とんだ御無礼を!!」

 動揺のあまり平伏しそうな勢いで頭を下げる。

「何も問題はありませんわ。それよりどうかなさいまして?ひどくお疲れのようですけれど」

 宮人は柔らかく微笑んだ。

「あ……いえ、大丈夫です。問題ありません」

 ぐうう、と腹の音が鳴った。

「あぁ……」

 気を抜くと昔ながらの情けない姿を晒してしまう、と真備は再び頭を抱えた。

「あら、それでしたら」

 宮人は包みを解き、荷物の中から何かをくるんでいる手巾しゅきん(ハンカチ)を取り出す。

 中には剥いた胡桃がいくつか入っていた。

「お腹が空いた時にこっそり食べますの。全部如何?」

「!!あ……ありがとうございます!い、いただきます!あっいえ!!大丈夫です!!」

「はいどうぞ」

 宮人は手巾ごと混乱する真備に手渡す。

「!!あの…お!一つお伺いしたいことがあるのですが!!」

「なんでしょう?」

 宮人は笑顔を崩さない。

「大津皇子の御霊がこの宮城に」

「いけませんわ」

 宮人は真備の言葉を遮ると、

「その御名を口にするだけで魅入られてしまう、と皆々恐れているのですよ」

 と真備の耳元で囁いた。

 耳に息がかかる。

「!?」

「魅入られるだけでなく、死んだり行方不明になったりした者も多数いるとか」

「!!そ、そそそうなのですか!?に、わかには信じがたい話です!!」

 真備はいつも通り冷静に答えたつもりだったが、声は上ずり続けている。

「本当に。信じない者も多いですわ。吾もその一人です。三年、膳司かしわでのつかさ(後宮で食事の配膳などを行う)に居りますけれども、まだ見たことはありませんもの」

 宮人は変わらず笑顔のままだ。

「ご、ご教授下さりありがとうございます!参考になりました!ではこれで!!」

 真備は頭を下げると、腰に下げた黒い革の小袋に手巾ごと胡桃を押し込み、傍らの式盤を抱えて慌ただしく去っていった。

「まるで童のように純粋なお方ね。綺麗にお髭を蓄えてらっしゃるのに」

 宮人はくすくす笑って見送った。

「……で、誰に魅入られると?」

 宮人の後ろで若い男の声がした。

「はい?……!」


 真備は年相応とは決して言えない先程の狼狽ぶりに、罪悪感にさいなまれつつ別の場所で貰った胡桃を平らげた。

 その後も宮城のあちこちを歩き回り、厲鬼の気配を探りつつ皇子についての話を聞いて回った。

 しかし厲鬼は見つけられないし、宮人の情報以上のことは分からないままだ。

 もう一度式盤で厲鬼の居場所を探知したかったが、自分の心の中に迷いがある限り、何度探っても見つけ出すことはできないことを経験上よく知っていた。

「己が見た厲鬼と、人々が話す皇子の噂がどうも合致しない。厲鬼と皇子にまだ知らない秘密があるのか?」

 真備達がかつて太上だじょう天皇てんのう(元正天皇)とまみえ、厲鬼と遭遇した大極殿院の南門まで足を向けたが、鬼どころか人すらおらず閑散としていた。

「ああいうお方というのは普段どういった場所でお過ごしになるのか……まさか内裏にはいないだろうが……いや、禁裏にも入らないといけないのだろうか?」

 真備が髭をしごきつつ、広足から情報を得るためにもう一度典薬寮へ行くべきかどうか悩んでいると、鐘が三回鳴り、続いて太鼓が七回鳴った。

 申の正刻、現代でいう午後四時だ。

「おいそこの!官人は家に帰る刻だぞー!早く出ないと朝堂に閉じ込めるぞー!早くー!」

「!」

 衛士が真備に声を掛ける。

 日は翳り、真備から延びる影も昼間より伸びていた。 

「申し訳ありません、今すぐ出ます!」

 真備は慌てて朝堂を出た。

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