真備は中務省の中にある陰陽寮にやってきた。

 朱色と白の華やかな朝堂の殿舎と違い、建物の柱は朱で塗られておらず、屋根も檜皮葺と質素な作りだ。

 真備はその中でも広い一棟に入った。

 そして、出入り口から一番近い席にいて、木簡に一生懸命筆記している深縹色の袍の若い男に、

占筮せんぜいに使う式盤を一日お借りしたいのですが、よろしいでしょうか」

 と声を掛けた。

 すると、奥の方の席に着いている薄緑色の袍を着た老齢の男が、

「式盤は国の重要機密だ。陰陽寮以外の何人たりとも貸し出せん!」

 と真備の方を見ずに怒鳴った。

「勅命を果たすために必要なのです。事情は内蔵頭の路虫麻呂殿が後で説明するとのことなので、是非ともお貸し頂きたいのですが」

 真備が穏やかに返すと、

「そんな話は聞いていない!陰陽寮の者でもない下っ端のくせに、大きな顔でずかずか入ってくるな!」

「!?」

 真備は面食らった。

 虫麻呂の名を出しても通用しないし、何らかの博士らしいこの男が、なぜ急に面罵し始めたのかも分からない。

 他の席に着いて作業をしている官人達も、真備を見向きもしないか、鬱陶しそうに睨んでいるかのどちらかだ。

「おい何をやっている!ボーっとしてないでさっさと出ていけ!!おい!!コイツを追い出せ!!」

 男は近くにいた黄の袍の得業生(博士を目指す学生)に顎で指示する。

「困ります!式盤がないと幽鬼の居場所を見いだせないのです、協力していただけませんか!?……ひゃあっ!」

 得業生は困った顔で真備の腕をとり、建物の外へ連れ出した。


 得業生の若者は、真備を人気のない寮の敷地の隅に連れて行くと、

「……みましは唐から帰った留学生の方でしょう?下道真備という」

 と聞いてきた。

「如何にもそうです」

「やっぱり!下道殿のことは陰陽寮で噂になっていますよ。なんでも唐で最も名を上げた留学生だとか」

「そうなのですか?それは阿倍仲麻呂のことで、吾ではありませんよ」

「ご謙遜を!」

 話をしているうちに得業生と同じ黄の袍を着た男が一人、二人と集まってきた。

 学生がくしょうらしく若い彼らは、中で仕事をしていた官人達と打って変わってニコニコし、興味津々といった面持ちで真備を見ている。

「年寄り達は、己の席に下道殿が座るんじゃないか、もしくは皆を追い出して陰陽寮を全く新しいものに作り変えてしまうんじゃないかと恐れているんです。馬鹿馬鹿しい事ですよ!そんな席取り争いなんかしていて国が善くなるはずがありません」

「はぁ」

「下道殿、新しい暦を持って帰られたのですよね!吾はれき博士を目指しているのですが……もし、新しい暦についていろいろと教えていただけるなら、吾が式盤をお持ちします」

「!本当ですか!?指南はありますか?」

「指南?……すいません、式占はまだ勉強中で……」

「では、六壬栻盤りくじんちょくばんをお願いします。大衍たいえん暦のことでしたら説明しますよ。興味を持って下さる若い方がおられるとは、嬉しい限りです」

「ありがとうございます!今お持ちします」

「吾も!吾も教えてください、お願いします!!」

「式盤を使った占いで見つけるのですか!?」

 他の学生達も口々にお願いや質問を投げかける。

 いつしか真備は学生達に囲まれていた。

 一旦その場を離れていた得業生は、あしぎぬの包み(風呂敷のこと)を抱えて戻ってくると、学生達とその場で輪になって座っていた真備に手渡した。

 袋から出された式盤は、一辺が二十センチ程の真四角な板の中央に、丸い円の板を組み合わせてできている。

 両方の板には方位や宿、神将の名前などびっしり字が書きこまれており、円型の板中央に描かれた北斗七星は、何故か裏向きに描かれている点が特徴的だった。

 真備は式盤を確認すると、

「助かります!これで家に帰らずに済みます」

 真備は笑顔を見せた。

「指南とは何ですか?」

あかがねの匙で、持ち手が必ず午の方角(南)を差すのです。それと天盤(円型の板)のない式盤を使います」

「匙ならどこかで借りてこようか?」

 他の学生が気を利かせて言った。

「あ、いえ、匙なら何でも指南になるわけではないのです。特別に調整しなければ持ち手が南を差しません……ということは、陰陽寮に指南は伝わってないのでしょうか?ふむ……」

 真備は顎髭をしごいて考えこむ。

「吾は式占を長安で学びましたので、この国の陰陽道のことはあまり把握していないのですが……汝は六壬栻盤を理解している、ということは六壬神課をご存じなのですよね?」

 真備は手を止めると得業生に聞いた。

「えぇ、一通りは」

「失せ物探しができる六壬神課をご存じで、陰陽寮ではなく吾に勅が下るということは、陰陽寮ではあの幽鬼を見いだせない、ということ……ですよね……」

「!!……その通りです」

 得業生は言いにくそうに答えた。

「大君は、吾や玄昉が唐から持ち帰った新しい知識に大きな期待を寄せておられるということだろうか?これは……全精力を注いで取り組まないと難しいな……」

 真備はプレッシャーを感じて、また髭をしごいた。

「で、できるんですか?できないんですか?」

 心配そうに学生の一人が聞く。

 真備は手を止めて、

「できます。式盤は使いますが、違う使い方をします」

「どうするんですか?」

「やはり指南を使います。この場合は匙にこだわらず底が丸くて回転しやすく、細長いものであれば何でも構いませんが、かねでできた物だとありがたいです。これは吾が長安にいた頃、阿倍仲麻呂から教わったこの国発祥の呪いを己が使いやすいように工夫したもので、星が読めなくても占うことができます」

「すごい!それ、吾にも教えて頂けないですか!?」

「式占は星を読むことができれば誰でも占うことができますが、この方法は超常の才がなければできないものなのです」

「なるほど、巫覡ふげきが使う呪いに近いものがあるのですね」

 得業生が感心して言った。

「そうです。かつて天照大神の御霊みたまを憑依させ、神宮を造営する場所を探して放浪なさったという伝説の御杖代様は、鏡に手をかざすだけで、五十里先にいるアラガミの居場所を鏡に映し出すことができたと仲麻呂から聞きました。当然吾の力は足元にも及びませんが、頭の中で対象のことを強く念じて両手をかざすと、指南の先が探すものの居場所を明示してくれるのです」

「それはよく当たる占いなのですか?」

 学生達は臆することなく真備に質問する。

「残念ながら神の力を得たとしても百発百中はあり得ません。相手が何らかの呪師やカミである場合、こちらの術を妨害する可能性があります。それに、御杖代様も相手の名前や特徴が詳しく分からないと探索は難しかったそうで、それは吾も同じです」

「!!妨害……」

 学生達は引きつった顔を見合わせた。

「!……なるほど」

 真備はその様子を見て、

「それで、ひとつ質問があります。皆さんは吾が探している幽鬼に心当たりがあるようです。できればその詳細を教えて頂きたい。実は渡唐する前はずっと大学寮に籠っておりまして、宮城きゅうじょうの内情についてはほとんど知らないのです」

「!!それは!それは、ちょっと……」

 学生達は思わずのけぞった。

 バツが悪そうな顔で立ち上がり、立ち去る者もいる。

 得業生は申し訳なさそうな顔で、

「吾等は知っているからこそ、お教えすることができないのです」

「?なぜですか?」

「それは……」

 得業生は言い淀んだ。

 そして、立ち上がってその場を去ろうとした。

 真備も慌てて立ち上がり、

「どうしてです?吾が見たのは怯えなければならないような、おどろおどろしい悪鬼ではありませんでしたよ」

「え!?」

 得業生は驚いて足を止めた。

 真備と得業生はお互い不思議そうな顔を見合わせる。

「……そうだ!典薬頭殿に伺うとよろしいでしょう」

「典薬寮ですか?」

「今の典薬頭である韓国広足殿は、医人や薬師ではなく呪禁師じゅごんし(ここでは治癒と防護に特化した方士)と聞きます」

「そうなのですか!そのお方なら詳しくご存知でしょうね」

「では、が、頑張ってください!死なないで下さいね!」

「は?」

 先に帰ったはずの学生の一人が真備の下に駆け寄ってきて、木製の匙を真備に握らせた。

「木のしかなくて、すいません!それ返すの、生きて帰ったらでいいんで!」

 学生は慌てて走り去る。

「は?」

「それでは!!」

 得業生も学生の後を追って奔り去ってしまった。

「あ、ありがとうございます……?死なないで下さいね?」

 一人取り残された真備はぽかんとして学生達を見送った。

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