天平七(七三五)年五月、上旬――

 薄明の平城京は左京の南、東市に近い辺り。

 築地塀に囲まれた坪(居住区画)の真ん中を東西に仕切る小路を、黒い頭巾に黄の袍を着た一人の直丁じきちょう(中央諸官司で雑用を行う良民)の男が歩いていた。

 住民達は既に起き出し、家々からは様々な生活音が聞こえてくる。

 年の頃は三十代前半、辺りをキョロキョロしながら歩く姿はまるで不審者だ。

 しかし、すぐにある家の門前で立ち止まり、手に持った木簡を確認した。

「ここだと思うんだがなぁ。最近来たモンだって言うから……おーい!下道真備殿ぉー!」

 門の向こうの家に向かって声を掛けるが、返事はない。

「もう日が昇るんじゃねぇか?急がねぇと!おーい!」

 直丁は門を開け、遠慮なく家の敷地に入った。

 敷地の広さは十六分の一町(約九五〇平方メートル)、縦長で奥行きが深く、去年の大地震の影響か掘立柱の塀が一部崩れたままだ。

 敷地内には主殿らしい広めで平屋の掘立柱建物に、それよりは少し小さい建物が二棟、井戸が一つ。

 畑の痕跡はあるものの、家主は耕していないようで雑草が生えて荒れていた。

「下道真備殿はいるかー!?下道のー!おーい!下道真備ー!」

 しつこく男の名を呼ぶが返事はない。

 直丁は主屋の出入り口の戸を勢いよく開けると、頭を突っ込んで中の様子を見た。

 が、何も置かれておらず、誰もいない。

 不思議そうな顔をしつつ、小さい方の一棟へ向かうと、連子れんじまどから中を覗いた。

「!?何だここ!!」

 主殿とは対照的に、身舎もや(建物の中)の半分を山と積まれたからびつ(脚のついた大箱)が占領している。

 そして、残り半分の板敷きの床には、細い木簡を束ねて作られた典籍が、足の踏み場もないほど散乱していた。

 直丁が目を凝らすと、部屋の奥の方に典籍の山が見える。

 ガタッ、ガタガタッ

 山が微かに動いた。

「んー……」

 男の呻き声が山の中から聞こえてくる。

「!?なんだぁ!なんかいるのか!?」

 呻き声を聞いた直丁は、慌てて出入口の戸を開ける。

 中に入って典籍の山をかき分けると、白い汗衫かざみ(肌着)に白い褌姿という一般的な庶人の衣を着た男が、床に突っ伏していた。

「死んでんのか!?おーい!もしかしていましが下道真備殿か!?生きてるかー!!」

 直丁は慌てて男を揺さぶり起こした。

「!?」

 男はビクッとして直丁の顔を見た。

「没認錯人吧?我叫真備……你是誰?」

「はぁ!?」

 直丁は男が何を言っているかサッパリわからず、ぽかんとしている。

「!……あぁー……失礼しました。寝ぼけてしまって……吾が下道真備です」

 下道真備は、申し訳なさそうな顔で髻が乱れた頭を掻きながら起き上がった。

 口と顎には品のある整えられた髭を生やしている。

 温和で人が良さそうなほわほわっとした顔は若く見えるが、髪と髭には白髪が混じっていた。

「そうか!じゃあすまんけど急いでんだ。偉い官人様が汝を連れて来いってさ、朝一番に!」

「!本当ですか!?」

 今まで寝ぼけてぼんやりしていた真備の顔が、一瞬にしてぱあっと明るくなった。

「やっと叙任の話が来た!わかりました、すぐ仕度します!」


 あれから十八年。

 留学生として渡唐した下道真吉備は「真備」と名を変え、この年の四月に帰朝した。

 唐で手に入れた数多くの貴重な品々が、真備によって献上されたことは正史にも記されている。

 しかし実際は、それ以外にも献上に相応しくないと判断した雑多な典籍や物品、見聞を書きとった木簡の束などが数多くあり、そのほとんどが航海中の嵐や長距離の移動によってぐちゃぐちゃになってしまっていた。

 真備は叙任の勅が下りるまで休假くけ(休暇)扱いとなったため、母の待つ故里に一度帰った後は、ぐちゃぐちゃになった荷物を整理しようと日がな一日格闘していたのだった。

 直丁は喜び勇んで着替えて現れた真備の朝服が、身分の低い官人が着る深縹色だったことに驚いていたようだった。

 だが、平城宮への道々、真備が「けんとーし」という人生の中で聞いたこともない身分だったことを知ってもっと驚いた。

 興味津々と言った顔で話を聞く直丁の顔を見て、真備の顔もほころぶ。

 人に物を教えるのは嫌いではない。

 自分はそのために戻ってきたのだから。

 博士はかせ(学生に教え研究する者のこと)になり、自分が得た知識でこの国をより善くしたい。

 かつての自分のような若い学生達を善い方向に導きたい。

 それが真備の本心だった。


「えー下道真備。殿上に巣食い大君を心身共に苦しめる凶悪なる鬼を掃滅し、奪われた宝物を早急に取り返すように」

「は?」

 真備の顔が引きつる。

 路真人みちのまひと虫麻呂は、木製の椅子にふんぞり返って座り、机の上の木簡に記されていた文章を仰々しく読み上げた。

 内蔵頭くらのかみである虫麻呂は、あさ色(薄い緋色)の袍を着る太った中年の男である。

 叙任の話かと思いきや、連れてこられたのは朝堂で政務をとる内蔵寮の長官の前であった。

「汝は本当に唐の京師みやこへ行ったのか?」

「十八年居りました」

「汝は長安で広汎に学を修めたと聞く。ならば、当然道術も使えるのであろう?」

「!……道術はすべて修学した訳ではありません。効果の期待できないいかがわしい術も多く、それらを習得する必要はないと判断致しました」

「じゃ、退治できんのか?」

「できます」

「どっちなの!?」

「しかし何故吾なのですか?この世ならぬモノの退治ならば祝部ほうりべ(神官)や僧侶といった方々が適任かと存じますが」

「汝は余計な気を回さんでも良い!」

 虫麻呂は抑え気味に声を荒げた。

「……申し訳ありません」

「昨日、汝と同じ唐帰りの留学僧を呼び出したが「アラガミ退治は吾等僧侶の役目ではない!吾等は呪師ずしではない!!」と、すごい剣幕でしゃべるだけしゃべって勝手に帰ってしまった」

「!」

「勅命を蹴るなんて大君よりも偉い御身分なんだなぁ、唐帰りのお歴々ってのは」

 カンカンと木簡で軽く机を叩きながら、虫麻呂は嫌味たっぷりに言う。

 己にお鉢が回ってきた理由が分かった真備は、小さくため息をついた。

 しかし彼を責める気は毛頭ない。

 彼、僧玄昉にこの勅命を果たす才(超常の力)がないことを真備はよく知っていた。

「で?どうする?できる?できない?」

 虫麻呂は真備の顔を見て、改めて尋ねる。

 吾は博士だ、道士ではない。

 玄昉と同じく、場違いなアラガミ退治などやりたくはない。

 唐で得た知識を存分に発揮して活躍するなら自分が望む場で、と思う。

 しかし、しかし仲麻呂ならこんな時どう返答する?

 真備は顎髭をしごきながら、唐の国に一人残った親友のことを思い出した。

「……なれがもし、生きて故里の地を踏むことができたなら、吾の分まで故里のために尽くして欲しい。それを汝にやって欲しい!」

 真備は別れ際に己の手を取った仲麻呂の顔を思い出した。

 涙を浮かべていた――

「……そうだ、吾はもう一人だけの身体ではない」

 真備は小さくつぶやいた。

 位階はいまだ唐へ行く前の従八位下のままで、叙位がいつ行われるのか、行われるのか自体分からない。

 どんなきっかけでもいい、少しでも名を売って出世の足掛かりにする。

 今の位階のままでは、二人分の忠義を尽くすことは到底できない。

 出世を望むなんて自分の柄ではないことは重々承知だが、仲麻呂ならばこれは好機と喜んで受けることだろう。

「謹んでお受けしたいと存じます」

 真備はゆうをして答えた。

「そうかそうか、では早速頼む」

 やっと虫麻呂の表情が緩んだ。 

「一つお伺いしたいのですが、盗まれた宝物とはどのような品でしょうか?」

「それは禁秘故教えられん。汝が鬼を倒せばわかること」

「はぁ……あの、ではいくつか許可を頂きたいのですが」

「何かね」

「鬼を探すための呪占具と鬼を退治する際に必要な大刀の貸与、鬼について精査するために図書寮への立ち入りと、鬼を見つけ出すために大極殿や内裏等への立ち入りの許可を。あ、そして鬼と対峙する場所と時間はこちらで決めさせて頂きたいです」

「んんんなんだって?」

 虫麻呂は、隣席にいる史生ししょう(書記官)が木簡に書き取った真備の言葉の内容を確認した。

「……貸与と立ち入りに関しては許可する。もし断られたら内蔵寮と吾の名を出せばよい。こちらから説明するようにする。ただ期日は明日までだ。明日までに結論を出し、明後日の朝、吾に報告せよ」

「二日でですか!?」

「やっぱりできんのか?」

「やります!」

 真備は自らを鼓舞するように、大きな声で答えた。


「鬼……鬼……鬼……やはり、アレのことだろうな……」

 真備は朝堂の殿舎を出ると、あまり人目のつかない軒先の壁にもたれて思案した。

「あのことは記憶から消してしまいたかったのに!思い出してしまった……」

 頭を抱えてしゃがみ込む。

 にっこり微笑んでいるらしい幽鬼の姿がありありと目に浮かんだ。

「しかし……だとするなら、白昼でもこの辺りにいるかもしれないな。いたのは隣の朝堂だった訳だし」

 平城宮には朝堂と呼ばれる場所が二か所、東西に並列して存在している。

 真備が現在いるのは東にある朝堂だった。

 立ち上がって目を閉じ、深呼吸をして集中する。

 しかし、気配を探った所で感じるのはここで働く数多くの生きた人間のものばかりだ。

「流石にそう簡単にはいかないか……」

 真備はため息をついた。

 すると、真備のいる場所すぐそばの出入り口から、深緑色の袍を着た男が顔を出した。

 男は真備の袍を見ると、あからさまに見下した顔で、

「おい、ましはこんなところで何をしている!?中務省の者ではないだろう!怪しいなー、何か探っとるのか!?」

 と文句をつけた。

「!あー……申し訳ありません」

 真備は慌てて殿舎から離れた。

「……とにかく式盤が必要だ」

 真備は朝堂を出て、官衙(官庁のこと)へ向かった。

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