勾陳

「うひぃっ!!」

 情けない叫び声をあげ、前に立つ男の袍の袖を思わず掴む。

 周囲の人間は、深縹ふかきはなだ色(濃い藍染の色)の朝服を着たその男、下道しもつみち朝臣あそみ吉備きびの不調法を睨んだ。


 霊亀三(西暦七一七)年二月二十三日。

 遣唐使達は平城宮の朝庭(政を行う朝堂内にある広場のこと)で天皇にまみえた。

 朝庭に隣接する大極だいごく殿院でんいん(即位の礼など国家の重要な儀式が行われた場所)の南門に、天皇が出御される。

 真吉備は押使大使といった使節や他の留学生るがくしょう留学るがくそう達と共に、ゆう(笏を構えて上体を前に傾ける礼のこと)をして下げた頭を上げた。

 すると幽鬼がひとり、門の基壇の階段に腰掛けていたのだった。

 そのモノがどんな姿かたちをしているかまでは分からない。

 分からないが、何となく人のカタチをして座っているのだろうな、ということは分かった。

 晴天の朝という幽鬼が出現するにはあり得ない時間帯に現れた、そのモノが纏ううずたかい妖気によって、南門で遣唐使達を見ているはずの美貌の女帝は全く見えなかった。

「お、大君の、ま、前にが!大君の御姿が!」

 真吉備は蚊の鳴くような情けない小声で言い訳をしたが、言ってから世迷言でしかないことに気づき、ますます赤面した。

 すると、

「おや?下道殿も見鬼だったのですか。それは知りませんでした」

 真吉備に袖を掴まれた青年は、真吉備に聞こえるほどの声量で呟いた。

「?え?も?」

「ほら、他にも見えている者は居りますよ……あれは玄昉げんぼう殿と申されたかな」

 前の男、阿倍朝臣仲麻呂は振り返ることなく話し続ける。

 僧衣を着た集団の中に一人、嫌そうな顔で南門から目を逸らしている男がいる。

 他にも、顔をそむけたり顔を引きつらせたりしている者が数名いるようだった。

 仲麻呂は袖を掴む真吉備の手にそっと自分の手を添えた。

「!」

「人であってもなくても、心が真っ直ぐ正しくあれば恐れるモノは何もない。頭をあげて、堂々とそれを見返してみるといい。そうすれば、恐れる必要のあるモノなのかどうか、下道殿にもわかるでしょう。さあ!」

「う……」

 仲麻呂にひっつかんばかりに寄り添っていた真吉備は、恐る恐る前を見た。

「!!」

 目鼻の分別などできるはずないのに、目が合った。

 真吉備にはその感覚が確かにあった。

 そして、

「笑った――」

 確かにそれは微笑んだのだった。

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