コダマ

月花

第1話 コダマ

「彼女」と初めて出会ったのは、小学校三年の夏休みだった。


俺の両親は共働きだったため、夏休みはいつも祖母の家で過ごしていた。その年、当初は8月最後の日まで祖母の家にいる予定だったのだが、両親が少しだけまとまった有給を取ることが出来たため、早く自宅に帰ろうということになった。

仕事が終わったその足で、両親は車で、祖母の家まで、俺を迎えに来てくれた。

なのに、馬鹿な俺は、両親にそっぽを向いた。

「帰らない」

予想外の俺の一言に、両親は絶句した。

「……どうして、陽一?」

「だって、明日、ばあちゃんと山にカブトムシ取りに行く約束してるから」

俺の言葉に、祖母が口を挟む。

「陽ちゃん。カブトムシなんか、いつでも取れるだろう?母ちゃん達がせっかく迎えに来てくれたんだ。帰りな」

「絶対やだ!明日、山に行く約束だもん!」

幼い俺は、信じていたのだ。

こんな夏休みは、これから何度でも巡ってくるのだと。

「やれやれ……せっかく母ちゃん達が早く迎えに来たってのに」

祖母は、ため息をついた。

「しょうがないわね……。じゃあね、陽一。また迎えに来るまで、おばあちゃんの言うことを聞いて、いい子でいるのよ」

「うん!」

馬鹿な俺は、次の日のカブトムシ取りにばかり、心を捕らわれて、二度とない母の「またね」という言葉に、笑顔で手を振ったのだった。

それから1時間もしない、晩飯を食べてる時だった。

静かな食卓に、電話の音が響いた。

祖母が箸を置き、受話器を取る。

「はい、もしもし?」

その後、見る見る祖母の顔が青ざめていくのが分かった。

「ばあちゃん?」

両目を覆った手から、涙が滲み出しているのを見て、俺は驚いた。

「ばあちゃん、何、どうしたの?」

しばらくして、祖母に抱き締めながら聞かされたのは。

あの後、自宅に向かっていた両親は、対向車線をはみ出してきたトラックと衝突し、亡くなったという事実だった。


その夜。泣き疲れて眠った隣の祖母をそっと置いて、俺は一人で山に入っていった。

それは、祖母の家の裏にある山で、カブトムシを取りに行こうと言っていた山だった。

そんな夜に山に入るのは、初めてだった。その時の俺は、突然消え去った幸せに、心がさ迷い、悲しみと絶望に、どうしたらいいのか分からなかったのだ。

人のいない、ただ夜の静けさに、自分の足が踏みしだく草の音と、虫達の声だけが聞こえてくる。

どこまで進んだのか分からないほど歩き続け、月光だけが差す薄暗い山の中を俺はたださ迷った。

「あっ……」

途中、出っ張った木の根っこに足を取られ、俺は転倒した。

ずっと歩き疲れたのと、心が乾ききっていた俺は、そのまま意識を手放した。


しばらくして、俺は仄かな温もりを感じ、そっと目蓋を開いていった。

誰かの膝の上に、俺は寝ていて、頭を優しく撫でられている。小さな頬にかかる流れるような長い髪は、茶色い絹糸のように煌めいていた。

そっと顔を上げた先にあったのは、月明かりに照らされた、淡く輝くような白い肌の美しい女性の顔だった。

「だ……れ?」

小さく俺が尋ねると、彼女は鈴の音のような声で答えた。

「……コダマ」

俺は、その柔らかな声を聞いた後、打ち寄せる波のような眠気に襲われ、再び意識を手放した。


「……陽一。陽一」

名前を呼ばれ、俺は、うっすらと目を開けた。

その先に、母の顔を思い浮かべたが、映ったのは祖母の顔だった。

「もう、お昼だよ。陽一」

顔を横に向けると、和室の網戸越しに、白く強い日差しが差し込んでいる。

(あれ、俺、山の中にいたんじゃ?)

月光に照らされた美しい顔が浮かんだ。

(全部、夢だった……?)

不思議に思いながら、半分起こした俺の体を祖母は、ぎゅっと抱き締めた。

「陽一。これからは、ばあちゃんと一緒に生きようね……」

「……」

たった、その一言で。昨夜の両親の事故が夢ではなかったのだと、小さな俺は悟ったのだった。


その後、中学まで育ててくれた祖母だったが、持病が悪化し、高校進学直前に亡くなった。

他に引き取り手のない俺は、一人暮らしにバイトをしながら、今を生きている。


両親が亡くなったあの夜から。

「コダマ」は、度々俺の元に現れた。

初めて会った時に、名前を教えてくれた以来、彼女は言葉を口にすることがなかった。

ただ、俺がどうしようもなく寂しさを覚えた時。

何かに迷っている時に現れ、ただ優しく抱き締めてくれたり、頭をそっと撫でてくれたり、物は言わずとも、答えに導いてくれたりしたのだった。


両親を失った、あの日。

俺は、心も失った。

祖母は本当に良くしてくれたが、やはり両親という存在そのものに、代わるものにはなれなかった。

そんな隙間をコダマはそっと埋めてくれた。

……だが、最近全くコダマに会っていない。

会いたい。

ここのところ、無性にコダマに会いたい気持ちが募っている。

「何よ、ボーっとして。まさか熱中症じゃないよね?」

カラッと明るい声で覗き込んできたのは、高一から同じクラスの相田穂香あいだ ほのか

「俺に絡むな」

いかにも鬱陶しそうに、俺は相田から顔を背けた。何が面白いのか知らないが、コイツは、一年の頃から、やたら俺に絡んでくる。頼んでもないのに、弁当や手作り菓子を押し付けてきたりして、何がしたいのかさっぱり分からない。

「ねぇ、今日こそ一緒に帰ろ?」

「断る」

「じゃあ、放課後遊ぼ?」

「予約済み」

「うっそ!絶対一人でしょ?」

ああ、そうだよ。

俺は、陰キャのぼっち。

それでいいんだよ。俺はもう誰とも関わりたくないんだよ。

「じゃあな」

まだ騒いでる相田を後にして、俺は一人教室を後にした。


バイトから帰ってきて、一人アパートの部屋で横になっていると、なぜか無性に寂しくなってきた。

「コダマ……」

以前なら、こんな時、いつも現れてくれたじゃないか?なぜ会いに来てくれない?

俺はベッドの上で、体を横に向けた。

窓からは、あの夜に似た月明かりが差している。

優しい、どことなく母に似たコダマの白い顔が、浮かんでは離れてくれない。

しばらくベッドに転がっていたが、心の乾きは止まらず、俺はスニーカーを履くと、家を後にした。


向かった先は、この近くにある山。ハイキングコースもあり、散策に訪れる人間も少なくない。

ただ、それは昼間の話で、こんな夜に登るやつは誰もいない。俺は整備された道を歩いていたが、途中から、山林の中へと入っていった。

祖母の家の側の山は、自然なままの山だった。人の手の入っていない木々や草が生い茂り、獣達が息づく、そんな山だった。

コダマに会うには、そんな自然の中でないと会えない気がするから。

舗装されていない山肌は、上手く歩かないと、あの夜みたいに転びそうだ。

「コダマ……」

お前がいないと、俺は本当のぼっちになってしまう。誰とも関わらず生きてこれたのは、お前が側にいてくれたからだ。

会いたい……。

さらに山の奥へ分け行った、その時。

「村木ー!!早まるなー!!」

聞きなれた声が、静かな静寂を切り裂く。

「は?お前……?」

見ると、俺と同じくコースから外れた山肌を慣れない足取りで、こちらに向かってくる相田の姿があった。

「何してんだ、危ないだろ!」

俺が声にした瞬間。

「あっ!」

山の斜面で、相田の体が大きくバランスを崩した。

「相田!!」

俺はとっさに相田の元に走り寄り、彼女の体を抱き止める。

それでも、バランスを持ち直すことは出来ず、俺は彼女を抱き締めたまま、斜面を転がり落ちていく。

そして、山肌の木の幹に当たり、頭と背中を打ち付け、そのまま意識を失った。


しばらくして、俺は仄かな温もりを感じ、そっと目蓋を開いていった。

誰かの膝の上に、俺は寝ていて、頭を優しく撫でられている。零れ落ちる長い髪は、茶色い絹糸のように煌めいていた。

そっと顔を上げた先にあったのは、月明かりに照らされた、美しいコダマの顔だった。

「コダマ……会いたかった」

俺は小さな子供のように彼女の体に、顔を埋める。

すると、コダマは、初めて会った時以来、その唇を開いた。

「陽一。あなたは、もう、一人じゃない」

その声は、昔聞いた母の声にも似ていた。

「どういうことだよ?俺は……」

コダマのその白い頬に触れようとした瞬間。

月の満ち欠けのように、コダマの姿はすうっと溶けるように消えていった。

「コダマ……!!」

俺は自分の叫び声に、目を覚ました。

誰かの温もりを感じる。

気づくと、俺は相田の膝に横たわっていた。

相田は真剣な眼差しで俺を見つめている。

「……どういうつもりだよ、お前。こんなとこまで付いて来やが……っ!」

言いかけて、言葉を飲んだ。上から俺を覗きこむ相田の瞳から涙が溢れ落ちてきたからだ。

「それはこっちの台詞よ!!こんな所で終わろうとするくらいなら、もっと他人ひとと関わりなさいよ!?」

……。こんな所で、終わる……?

すぐには意味を理解できなかったが。

ああ、そうか……コイツは……俺が思い詰めて、夜一人で山に入って、自ら命を……そう勘違いしているのだ。

「……それは誤解だけど、悪かったよ」

相田の濡れた頬に、手を伸ばした。

両親が亡くなったあの日。

もうこんな風に、俺のために泣いてくれる人は、この世にいないと思ってきた。

なのに、相田は何度俺が拒んでも、必死に関わろうとしてくれたんだ。

俺の頬に、相田の涙が、温かな軌跡を残す。

「……遅いから、帰ろう」

俺は相田から離れ、いったん立ち上がると、彼女に背を向け、片膝を折った。

「足挫いたんだろ?おぶっていってやるよ」

相田は、ミニスカにミュールという山登りには不釣り合いな格好だった。

彼女は顔を赤らめながらも「うん」と言い、俺の背中に体を預けた。

「夜の山って、不思議だね。でも、月明かりが綺麗」

相田が呟く。

背中越しに伝わる相田の温もりが、寂しかった気持ちを埋めていく。

「今度は、昼の山に来よう」

彼女の鼓動を感じながら、俺は言った。

コダマ。

そうだな、俺は、一人じゃない。

あの夏、失った温もりは、手を伸ばせば、すぐ側にあったのだから……。

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コダマ 月花 @tsukihana1209

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