蛍舞い上がり、零れ落ちる泪2
実家にすら連絡せず久しぶりに帰ってきた地元。
私は真っすぐあの場所へ向かっていた。とっくに日も暮れ夏と言えど辺りは暗い。
プロポーズをされたあの日以来、初めて来るこの場所。森の中へ誘うような道もあの日と同じ。でもあの日とは違って1人で、時折頭を垂らした草に撫でられながらその道を進んだ。
そう長くない道を進むと少し開けたその場所はちゃんとそこにあった。相変わらず響き渡る川のせせらぎと辺りを舞う蛍。
でも彼を思い出し懐かしさに包まれながらも憂愁が滲むように広がり悲痛で複雑な気持ちだ。
するとそんな感情で立ち尽くしていた私の聞き間違いか物音が聞こえた。それが何か考えるより先に、反射的にその音を見遣る。
そこには女性が1人座っていた。アコースティックギターを抱えた髪が短くピアスをした若い女性が。
目が合ったまま数秒だけ時が止まった。
「あーっと。――こんばんわ」
戸惑いながらもお姉さんは低めの声で先に挨拶をしてくれた。
「――どう......も」
言葉が静かに消えると再び沈黙に包まれ少し気まずい。
「あの、よかったどうぞ」
どうしていいか分からず落ち着かないでいるとまたお姉さんが先に声を掛けてくれた。お姉さんの横に向けられた手は「座ってもいいよ」と言っていた。少し迷いはしたがここで断ったら更にどうすればいいか分からなくなるので一言お礼を返し、お姉さんの横に腰を下ろす。
足を抱えて座った時、私は初めてクッションのようになった草がシロツメクサだと言う事に気が付いた。同時に昔、太一と四葉のクローバーを探したのを思い出す。結局1つも見つからなかったけど私にとっては探しているその時間が幸せだった。四葉のクローバーを見つけるまでもなく私の幸せはそこに。
「ここ、よく来るんですか?」
視線をシロツメクサに向けているとお姉さんが会話をしようとしてくれてるんだろう、質問をしてくれた。
「久しぶりですね。昔は何度か来たんでけど。綺麗でいい場所だから」
「分かります。蛍が綺麗ですしいいですよね。私は最近たまたま見つけてちょくちょく来てるんです」
まだ2~3言葉を交わしただけなのに、ここに足を踏み入れた時に込み上げてきた感情は少し落ち着きを取り戻していた。人と話をして気分が紛れたのだろう。そう思うとここに人が居て良かったのかもしれない。
実はここまでの道のりの間、少しだけこの場所に来るのが怖かった。想い出が詰まっているからこそこの場所に来たら今まで以上に恋しくなって会いたくなるんじゃないかって。余計に辛くなるんじゃないかって思ってた。
だけど思ってたより心理状態は良い。きっと彼女のおかげだろう。
「ギター弾けるんですね」
私はずっと気になっていたギターを指差した。
「いや、まぁ。上手くないですけど、ちょっとだけなら。まだ練習中です」
お姉さんは照れくさそうにしてたが全く弾けないどころか触ったことも無い私からすれば十分に凄い。
「あの、もしよかったら何か聴かせてください」
「えっ。えーっと」
「迷惑でなければ......」
「そんな。迷惑じゃないですけど。ちょっと自信が......。でもまぁ、いいですよ」
まだどこか抵抗があるようだったけどお姉さんはギターに視線を落とした。
「ありがとうございます」
「えーっと。それじゃあ知ってるかは分からないんですけど......」
その言葉の後、世界へすぐさま溶け出してしまいそうな音を先頭に波のような心地好さの旋律が漂い始めた。それを追いかけるように聞こえてきた色鮮やかで透き通った歌声。触れれば消えてしまいそうで心奪われる程に美しい声が旋律に乗り私を包み込む。
何の偶然か私はその曲を知っていた。まだ始まったばかりだったけど、確信が持てる程に私はそれを知っていた。それは彼のプレイリストに入っていた曲で彼が好きだった曲。
気が付けば私の頭には曲を聴く彼の姿が思い浮かび、心には愁雲が垂れ込める。穏やかな蛍景色を眺めながら次々と浮かんでくる数えきれない太一との想い出。連鎖するように心には太一への愛が溢れ出し、その想いは雫となって目から流れ落ち始めた。1滴また1滴と流れる速度は増していき次第に止まらなくなる。
「大好きだったのに......」
泪と共に零れる想いの欠片。
そんな私を慰めるように聴こえる闇夜をふわり舞う蛍のような旋律と玉を転がすような歌声。
すると突然、不思議な事が起こった。泪でぼやけた視界の見間違いなんかじゃなく。水面を飛び回っていた蛍たちが私達を囲うようにゆっくりと広がり始めたのだ。生い茂る夏草に囲まれたこの小さな空間一杯に広がる無数の蛍火。
そしてそれは宇宙を思わせるようにゆっくりと上へ上がっていく。まるで夜空に吸い寄せられるように上へ、そのまま星となって夜空を彩るように高く。それは幻想的かつ神秘的で美しい光景だった。舞い上がる蛍たちを見上げ口を半開きにし呆然としてしまう程に美しい光景。
だけどそれでも泪だけは絶えず溢れ頬を伝い続ける。
そしてそれはあまりにも強過ぎた想いが見せた幻なのか私は自分の目を疑いつつも目の前の光景に目を見張った。蛍たち紛れるようにそこには太一が佇んでいたから。彼の姿に気が付き勝手に動き出す体。立ち上がった私は1歩2歩とまるで蛍火のように淡い光に包まれた彼へ近づいた。
「双葉」
近くにいるのにどこか遠く儚い声だったけど、それは紛れもなく聞き慣れた太一の声だった。声を聞いただけで――いや、その姿をもう一度見れただけで泪の勢いが増す。
「来てくれてありがとう」
「太一......」
言いたいことは沢山あったはずなのに泪と一緒に言葉も流れてしまって何も言えず、私はただ彼に抱き付いた。そんな私を優しく抱き締め返してくれた手が背に触れるのを服越しに感じる。
それから少しの間だけあの日までと同じ様に、私達は抱き合っていた。だけどそれは本当に少しの間だけ。
「ずっとこうしてたいけど――」
まだ全然足りないのに。太一の手は言葉が消えていくのに合わせそっと私の背から離れていった。でも私はもう二度と離れたくなくてずっと抱き付いたまま。
なのに彼の体は私の腕からすり抜けるようにゆっくり上へ、上がり始めた。蛍達と一緒に夜空へ上っていく。
「やだ......」
彼がまた離れてしまう。私はそれを止めようと咄嗟に手を伸ばすが、そんな手とすれ違い彼の両手が私の顔へ伸びてきた。大きくて優しい手が顔を包み込むように頬に触れる。
そして私の願いを一度だけ叶えるように彼の顔がぐっと近づいた。それから唇に触れる不思議で懐かしい愛と温もり。最後にしたのいつだろう。そんな事を考えながら彼の首に腕を回す。
最初は少し緊張したけどそれからは何度も交わしてきた。何度も沢山。でも彼はいつも短めが好きで私は少しだけ物足りなさを感じてた。たまに少し長めにしてくれる時こともあったけど、それでも私はもっとしたかった。
でも今回は特別に長くて。私が満足するまでずっと触れ合っていた。
だけど私の心が愛で満ち溢れるとそれを感じ取ったのか彼はゆっくり離れていく。唇には余韻と物寂しさが残り、回していた腕すらすり抜けた彼はどんどん遠ざかって行った。
「ずっと愛してたよ双葉」
私は必死に手を伸ばし何とか彼の手首を掴んだけどタイムリミットを告げるように徐々に滑っていく。手首から掌へ。
「私も――私も愛してる。ずっと......。だから――」
そして掌から指まで滑り。
「僕が居なくてもちゃんと幸せになってね」
「行かないでよ」
最後は指先が微かに触れ、完全に離れ離れになってしまった。
「じゃあ――またね」
太一は私から夜空へ顔を向けると蛍たちと共にずっと上へ、上へ。振り返らず。
まだ伸ばしたままの手と止まることのない泪。私はその後ろ姿を見送る事しか出来なかった。
「――さん? ――お姉さん?」
気が付けば体を揺すられ女性の声が聞こえた。導かれるように顔を上げると隣ではギターを片手にお姉さんが少し心配そうに私の顔を見ている。私は頭の理解が追いつくより先に夜空を見上げた。でもそこには蛍も太一の姿も無い。
「あの......大丈夫ですか?」
その言葉に私はお姉さんへ顔を戻した。
「えっ? あっ、はぃ」
今にも消えそうな声でとりあえず返事を返した。
「ならいいですけど。とりあえずこれどうぞ」
そう言ってお姉さんが差し出したのはハンカチだった。
「何の夢を見てたかは分からないですけど、これで拭いてください」
私はハンカチを受け取る前に自分の目元に触れた。指先が濡れると自分が酷い顔をしてるんじゃないかって急に恥ずかしくなった。
「あ、ありがとうございます」
お礼を口にしつつ顔を逸らしながら少し慌て気味でハンカチを受け取った。
そして泪を拭きながらさっきの夢現な出来事を思い出していた。遠ざかっていく太一の背中。思い出すだけでも、子どものように嫌だって思ってしまう。だけどそう思いながらも心のどこかでは止めることが出来ないことも、もう一緒に居られないことも全部分かってた。
どれだけ願っても、もう太一は居ない。
もしあれが私自身が自分に見せた夢だとしても、本当に太一がお別れをしに来てくれた現実だとしても。どちらにしてもちゃんと心のどこかでは分かってるんだ。いつまでもこのままじゃダメだって。目を背けてばかりじゃダメだって。
すると1匹の蛍が私の方へふわふわと飛んできた。そして左手の薬指――指輪の上にゆっくりと止まった。まるで何かを伝えるように長さの違う点滅を繰り返す蛍火。
まずは第一歩。踏み出せる時に踏み出さないと。
私がゆっくり立ち上がるとその蛍は飛び立ち、私が歩き出すと傍をふわり飛んでついて来た。数歩だけ足を進めた私は緩やかに流れる小川の前で立ち止まりその場にしゃがみ込んだ。
そしてハンカチは膝に乗せ少し震える手を指輪に伸ばす。目を瞑ると太一との想い出が瞼裏に映し出され、私は時間を掛けて指輪を指先へと進めた。これがあればずっと彼と繋がっていられるような気がしてた。まるで赤い糸を可視化してくれてるように。これが今となっては唯一の繋がりだって。
でも結局これに縛られて――しがみ付いてただけなのかもしれない。だから私はずっと太一の手を離せないでいた。だけどもう......。
そして思ってたよりもすんなりと外れた指輪と共に目を開いた。最後に指輪へ視線を落とす。
「約束だもんね」
そう小さく呟いて指輪に軽く口づけをした。
そして私はその指輪を川へと近づけた。蛍はそれに合わせ水面へ。微力ながらも浅く澄んだ水を照らしてくれた。蛍にお礼の笑みを浮かべると冷たい水が手を包み込む。
私は川底でそっと指輪を手放した。
これでお別れだと思うと胸が締め付けらる。でもそれでいて心は穏やかで清々しく温かかった。
少し涙腺が緩みながらも水面から手を出すと蛍は上へ舞い上がる。顔でその姿を追いながら濡れてない方の手でハンカチを取り立ち上がった。その間にも見上げた蛍どんどん夜空へ向かって飛んでいく。
そして淡く儚い蛍火は煌めく星に紛れ消えた。
「これで最後だね。愛してるよ太一」
―完―
蛍舞い上がり、零れ落ちる泪 佐武ろく @satake_roku
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