白い言葉

@esato2171

第1話

         きれいな意味のない白い言葉

江里 健輔


1.教授回診

大和大学病院の外科学教室の教授回診は週に一度あった。医局員は怒られないように、回診を抜けられるようにすることに腐心していた。5人の患者さんの診察が終わり、6人目で、教授の足がふっと止まった。


教授

「これは乳がンだ。右乳房にふれる腫瘤は硬く、境界明瞭、表面不整、皮膚と強固に癒着している。これは皮膚にガンが浸潤している証拠だ。それが証拠に乳ガンに特徴的な『豚皮』が見られる。腋(わき)には硬い腫大したリンパ節が3個触れる。100%乳ガンに間違いない。

早急に手術の準備をするように、いいな」


担当医の大井は

「私も触診では、教授の言われる通りだと思います。まず、乳ガンに間違いないでしょう。しかし、万が一ということもありますので、術中に組織検査をして、病理学的に証明しておいた方が良いと思いますが、如何でしょうか?」


教授はやや顔をしかめ

「何?どうにゅう意味だ。お前の言ったことは。術中組織検査するということか?

臨床学的に乳ガンに間違いないのだ。お前もそう診断しているんだ。そのように診断しながら、術中組織検査をするなんて、患者さんに負担をかけるだけだ!医療の無駄だ。お前達は検査、検査と主張し、臨床学所見を無視している。そうならば、患者さんなんか診ないで、すぐ、組織検査すればいいんだ。

お前は臨床学的診断をどう思っているんじゃ。善金病棟医長、早速来週の手術スケジュールのいれておくように」


背の高い細い体の色黒の善金病棟医長は

「ハイ、分かりました。早速、手術スケジュールに組み込んでおきます。教授の言われる通り、術中組織検査は無駄でしょう」

と額に汗を滲ませ、平身低頭しながら、ノートに書き込みをした。


大井は

「教授、御言葉を返すようですが、万が一ということはありませんか?100パーセント確信の状態で手術した方が良いと思いますが・・・・、術中に迅速検査が出来るように病理の教授には待機して貰うように予約しています。病理の先生への予約は断りましょうか?なんだか失礼なことをしたようで、気がひけますが・・・・」


教授は目をつり上げ、顔筋を真っ赤にして

「無駄な検査をするなと言っているんだ。何回言ったら解るんだ。臨床所見で100パーセント間違いないんだ。病理の先生には鄭重に断っておけ。いいな」


問答無用な言葉を大井に投げた。


大井は無表情に

「そう言われても、乳がンという組織学的確証がない限り、乳房切除するのはまずいのではないでしょうか?」


教授は担当医の顔を睨めつけ、

「大井君、お前は俺を信用しないのか、お前は俺の指導を受けるために、入局したんだろう。そうしたら、俺の言うことを素直に聞いたらどうだ。俺は外科医を34年間している。その間、沢山の乳がンの患者さんを診察し、治療してきた。お前は外科医になってたった3年じゃないか。それでも、俺と対等に議論しようとするのか。

よう考えてみい。

この俺の手をよく見ておけ。だてに沢山のシワができたんじゃないんだ。患者さんの苦痛が染みこんでいるんだ。

善金君、来週の手術予定に組み込んでおくように。いいか、善金君。こんな若造が言う通りに治療したら、患者さんは大迷惑だ。病棟医長がしっかり医局員を教育しないと口だけが育つんだ。今後、俺にこのようなことを言わせるな。判ったか」


善金病棟医長は苦しそうに顔をしかめ、野良犬のように口を半開きし

「はい、判りました。来週の手術予定に組み入れておきます。今後、もう少し気合いをいれて指導します。申しわけございません」


大井は善金の持ってつけたような返事に、孤独感にひしひしと胸がしめつけられるような気持に落ち込んだ。ただ、黙っていた。


患者さんは教授と担当医の議論をじっと聞きながら、“私はどうなるの”という不安な表情を浮かせながら、一つ一つの言葉にうなずいていた。


教授は患者さんの顔を見ることなく、話しかけることなく、次ぎの患者さんの診察をはじめた。

善金は大井に近寄り

「教授がああ言うんだから、黙って従ったらどうだ。教授が黒と言えば、白でも黒なんだ、それがこの世界だ。それが不満で、納得出来なければ、辞めるしかないな。黙って従っていればすべてうまくいくんじゃから。乳房を一つ摘出するだけのことじゃ、命まで取るんじゃないんじゃ。そんなに深刻に考えることじゃないんじゃないか。正常な乳房をとるわけじゃないんだ。大きな腫瘤をもった乳房をとるんだ。万が一、乳ガンでなくても、あの塊は摘出しなきゃいけないんだ。放置できるような疾患ではないんだぞ」

大井は随分乱暴な言葉を投げかける先輩だな、とじっと彼の顔をにらめつけた。

これが医師の言葉かという嫌悪の念が滲んでいた。善金には大井の気持を受け取ろうという姿勢は全くなかった。

大井は胸が潰れるような思いを反芻し、一呼吸おいて

「そうですか?先生もそう考えるんですか?術中の組織検査って、簡単な検査じゃないですか?患者さんも麻酔がかかっていますので、苦痛もないし、検査料金も安いですから、万が一のことを考えて病理検査すべきだと思いますが・・・、一番大切なことは取る必要のない臓器を摘出することは許されないんじゃないですか?それに乳房は女性に取って『命』です。ガンとほかの良性の病気とは手術方法も異なってきますから」


「お前の言うことは間違っていないよ。でも、教授の主張も正しよ。間違っていないよ。ただ、俺達が考えておかなくちゃならないのは、診療の責任者は教授じゃ。お前じゃないんだ。それを良く考えてみい。患者さんが訴えたら、責任は教授なんだぞ、お前じゃないんだ」

大井は責任のことまでうんぬんされたら、ただ黙っているしかなかった。


善金

「それじゃ、来週の手術予定にいれておくから、患者さんに説明しておけ」


大井は『命』を奪う、奪わないの問題ではなく、触診だけで、女性にとって二つしかない『命』である乳房を確定診断することなく、触診で摘出してよいだろうか? 誤診だったらと不安で一杯であった。しかし、大井には、最終的な責任を負うわけではないので、教授に逆らうことは医局を辞めなければならない。今の若さと経験で、雇ってくれる病院もなく身分を考えると途方にくれるだけであった。

大井は言葉をわすれてしまった人のように、這い上がることの出来ない谷に落ちた気分で黙り込んだ。


2.手術説明

手術の前日、大井は患者さんと家族に手術の内容を説明した。

大井

「明日、予定通手術をします。今の予定では乳ガンですので、乳房摘出術と周囲リンパ節を廓清します」


患者さんは

「周囲リンパ節を廓清するということはどういうことですか?ガンはお乳にあるんですから、お乳をとるだけで、充分じゃないのですか?


「普通なら言われる通りです。お乳だけとれば充分です。でも、貴方の場合、腋のリンパ節が腫れています。しかも, 固いです。まわりの組織と結構癒着しています。このリンパ節にガンがあれば、別な言葉で言えば、転移していれば、取らなければ、ガンを残すことになります。ガンを残した手術は意味がありません。兎に角、手術することで、ガンを徹底的に取らなければなりません。鎖骨の下のリンパ節も取る予定です」


傍で聞いていた主人が

「先生、家内の病気は進行しているんでしょうか?長く生きれるんでしょうか?

手術しても、再発っていうことはありませんか?」


大井は

「先のことは判りません。腋のリンパ節に転移していなければ、再発の可能性も少ないと思います。手術してみないと判りません。肺や肝臓、骨に転移していませんので、あまり心配しないで下さい。今、再発するかどうかと問答しても、私の口からはっきり申し上げることはできません。手術結果をまちましょう。宜しいでしょうか?」

と、ゆっくり、分かり易く話した。


「それではよろしくお願いいたします。家内の『命』は先生に任せますので、再発しないような手術をして下さい」


「はい、判りました。手術は私ではなく、教授がされます。何千という患者さんの手術をされていますので、大船に乗った気持でいて下さい。今晩はゆっくりと熟睡して貰うため、眠り薬を処方しておきますので、必ず飲んで寝て下さい。先のことをあまり考えないことです。いいですね」


大井は術中組織検査のことは説明しなかった。患者さんや御主人は「ガン」、「ガン」で、頭がいっぱいなので、術中組織検査のことを説明しても、患者さん達を悩ますことになるだけと思ったからであった。


3.手術

手術は予定通り行われた。

大井達は手術着を着て、手洗いを済ませ、麻酔のかかっている患者の胸部をイソジンで消毒し、手術敷布を掛け、いつでも手術が始められる態勢が出来た時、看護師に

「教授の手術準備ができました、と伝えて下さい」

と指示した。

やがて、教授は大井が従順に従ってくれたことに満足し、上機嫌であった。大きな声で、話しの内容はききとれなかったが、看護師さんになにかを話していた。

やがて、手術室に入ってくるなり

「大井君、俺は外科医を34年間、やってきた。自慢じゃないが、誤診の経験はほとんどない。やはり、慎重に患者さんを診察した結果と思うよ。当時は今のように最新式の検査器具もなかったから、仕方なかったが、それだけに、診察に時間をかけたよ。昔、こんな逸話があるよ。ある高名な外科医が直腸診をし、肛門から直腸まで人先指を入れて、時間をかけて、おもむろに、『直腸ガン』だと叫び、人の『生命』は直腸診をするかしないかで決まる。汚れた指は洗えば元のように綺麗になるが、失った『生命』は元に戻らないと言われたそうだよ。大井君、この言葉をしっかり覚えておくことだよ。今頃の若い医師は検査、検査と言い、患者さんを診察する前に検査をする傾向がある。俺にはよう判らんが、検査しなければ、診断できんと思っているふしがある。臨床病理学とか言う新しい学問が流行し、“患者さんを診察するまえに検査あるきだ。検査する前に患者を診たら、検査データを読み違える可能性があるので、患者さんを診察する前に検査データーをみよ”という馬鹿げたことを言う教授がいるらしいが、検査はあくまでも補助手段だ。これでは患者さんを診ない医師が育ち、本当の臨床医は育たないね。困った風潮になったよ。

俺の言うことに間違いはない。しっかり診察し、最小限の検査で済ませるべきだよ。大井君、そう思わないか?俺の言うことを心に刻んでおけば、きっといい臨床医になれるよ」


大井はじっと黙って聞いていながら,何かに堪えているようであった。教授からジェットのように吐き出される言葉が大井の目の前を通り過ぎるだけであった。

大井は元来無口で、べらべらしゃべることはなかった。だから、積極的に自分の意見を述べることはなく、どちらかというと上手な聞きタイプの人間であった。今回のように、上司に向かって面と意見を述べた大井を仲間達は何かに憑かれているのではないかと思ったほどであった。でも、大井の心では、最新医療器具を縦横無尽に活用することは、触診、聴診では得られない情報が分かり、医療の質を高めるために必要じゃないかと思っていた。

教授に反発するエネルギーも失せて、今はただ誤診がないように、と祈る気持で涙が出そうあった。


教授の前立ちをする第一助手の佐伯助手は分厚い首を縦に振りながら

「もっともです。もっともです。教授の言われる通りです。最近の若い医師は患者さんを診る前に検査データを見ます。検査がなにより優先すると思っていますから。まあ、コンピューターがこれほど医療の世界に入り込んで来ると仕方ないかもしれませんね」

と、さも判ったような言いぐさであった。


手術には乳ガンの標準術式であるハルステッド術式が行われた。右乳房より約5cm離れて紡錘状に皮膚切開を入れ、乳房を摘出し、更に局所リンパ節を廓清するため、腋のリンパ節、鎖骨下リンパ節も完全に跡形なく徹底的に取り除かれた。後に残ったものは人工呼吸器に合わせて、上下に動く血色のないゴツゴツした肋骨だけであった。恰も、毛をむしり取られ、やせ細った鶏があえぎあえぎ息をしているようにも見えた。摘出された乳房は哀れなもので、『生命』である体から離れると、尊厳な『生命』を感じさせない単なる脂肪の塊であった。

教授は自慢そうに

「これで良し、これくらい乳房を含めて周囲組織を徹底的に取れば、リンパ節に転移があっても、全部、取ってあるから、再発することはないな!これが乳ガンの手術だ。大井君、しっかりと覚えておけ。単に乳房だけ取るぐらいなら、経験が少ない大井君でも出来るだろう。しかし、鎖骨下や腋窩動静脈、更に、神経を損傷することなく、周囲組織を取り除くことは簡単に見えるが、難しいんだ。相当経験を踏まなければ出来ない手術だよ。だから、経験未熟な大井君にさせることは出来んよ。よう見ておけ」


マスクをしている大井が、笑っているのか、怒っているのか、感心しているのか傍目にはわからないが、目は無表情であった。担当医としての自覚は完全に失われているように見えた。


佐伯は

「凄い手術ですね。これくらいリンパ節を含めて徹底的に周囲組織を摘出してくれるような技術を持った外科医に手術を受ける患者さんは幸せですね。転移した局所リンパ節を取り残したら、100パーセント再発しますから、ガンを持った乳房を取ることも重要ですが、それと同じくらいリンパ節廓清は重要ですからね。

俺の女房が乳ガンに罹ったら、教授、是非お願いしますよ」

ととって付けたようなお世辞を言いながら感心した面持ちであった。

教授はその言葉を聞きながら、看護師に手術着や手袋をゆっくり脱がせて、最後にヒモをほどきながら

「お疲れさま」

と手術場のスタッフに満足そうに声を掛け、

「出血量は2000mlか、これくらい出血しても当たり前だな。よう肥えて女性だからなあ、佐伯君」

佐伯は皮膚を縫合しながら、教授の方に目を向けることなく、

「そうですよ、大きな手術ですから、2000mlの出血はたいしたことはないですよ。バッチリ輸血していますから」

教授は

「判った、そうだな。術後の感染を防ぐため、化膿止めの抗生物質をエネルギッシュに投与するように。大井君、頼んだよ。いくら立派な手術をしても、術後感染したら、もともこうもないからな」

大井は頷いたように、頭を下げたが、返事はなかった。

佐伯が

「判りました。感染したら、皮膚が壊死になりますので、いつもより多めに投与しておくように、大井に指示しておきます」

教授はその言葉を聞くこともなく、手術場のドアをドンと開けて出て行った。


大井は佐伯に向かって

「本当に、乳ガンですかね。今更、言ってもどうしようもないですが・・・」

とぼそっと言った。

佐伯は

「教授がそう診断したのだから、そうだろうよ。例え誤診であっても、俺達には関係ないからね。その時は、お前が患者さんや家族に不信がられないように、詳しく説明すればいいんだよ。摘出した腫瘤は確かに硬いし、周囲組織と強固に癒着し、石灰沈着もあるから、肉眼的にはガンだよな。問題は組織検査だな」

と他人事のような、大井の思いを無視するような言葉を発した。

大井は、佐伯は教授におべんちゃらを言う奴だと思いながら、それとはなしに聞き流していた。


4.誤診

数日後、病理組織診断書が送られてきた。それを目にした瞬間、大井は呆然とし、顔面は蒼白になり、頭がぼっとして、血の気が引くのが判った。


“結核”

であった。


大井は患者さんに納得して頂くために, どう説明すべきか判らなかった。誤診でした。取らなくても良い乳房をとりました。申しわけ御座いません、と真実を告げるべきかと迷った。いろいろ考え、教授回診で、教授が患者さんにどのように説明するかを聞いて、教授の説明と齟齬がないように説明しようと思った。ただ、教授がなんと言われるようが、摘出する前に腫瘤に一部を取って、病理組織検査をすべきであった。頑固に意思を連ねるべきだと神経が張り裂けるようであった。一人、心の中で涙した。


教授回診日

大井は

「組織検査が判りました。乳ガンという診断で手術しましたが、病理組織検査の結果、“結核”でした。やはり、術前に病理検査をすべきでした」

教授は大井の報告を聞きながら

「そうか、結核で、ガンではなかったか。良かった、良かった. 臨床学的にはガンだったから、仕方ないね」

と言い、患者さんに向かって

「良かったですねえ、臨床診断では乳房ガンで、その診断で手術しました。しかし、“結核”で、ガンではありませんでした。良かったですね。乳房ガンなら、これからずっと抗ガン剤を投与しなければなりませんが、その必要ななくなりました。傷が治り次第、退院されても良いですよ。おめでとうございます」

と。

患者さんは教授の向かって

「ありがとうございました、ありがとうございました。先生のご恩は決して忘れません。ガンでなかったのですか?ガンだと覚悟していましたのですが、嬉しいです。なんだか、元気が出てきました」

と、蒼白な頬が紅潮し、不安が吹っ切れ、気持が弾んでいるのが、大井にも伝わってきた。


教授は

「私は万が一、ガンを考えてガンの手術をしておきました。これくらい注意しておかないとガンだったら、大変な事になりますから。ご主人さまの大喜びでしょうね。ガンであると、余命が宣告されたようなものですからね」

と、患者さんの手を取り合って喜びを分かちあっていた。


摘出しなくても良かった乳房を摘出したお詫びの言葉は教授の口から一言も発せられなかった。なんだか、乳房を摘出したことが正当化されたようで、誤診は川の流れの水のようにざわざわ音をたてながら、次第に霧散してしまった。大井は手術を興味ある遊びしか思っていない教授を許せないと竜巻のように荒々しい憤りを抑えることが出来なかった。この教授の下で指導を受けても、患者さんに信頼される外科医にはなれないなあと教授の顔をまじまじと眺め、ただ、黙っていた。教授の声をかける気力も失せてしまっていた。

患者さんへの説明も回診時の教授からの患者さんへの説明で、大井から説明することは何もなかった。


翌日、大井は准教授に辞表を提出した。誰も、大井の行動に関心を示す医局員はいなかった。大井がどこの病院に勤めているかは誰も知らなかった。興味を持つ医局員もいなかった。

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