虎松殿の兄弟

みよしじゅんいち

虎松殿の兄弟

 *


 ときは戦国。ところは遠江とおとうみ引馬ひくま。五月の夕べにさわやかな風が吹いていた。

「小太郎、今日はどうでしたか。和尚様からはそろそろ手習いを始めると聞いていましたが」

「今日はお寺に来ていた旅の者に剣の稽古を付けて貰いました。まこと達者で驚きました」

「そう。よかったですね」

「はい。小太郎より八つばかり年上でしょうか。たしか虎松とらまつと名乗っておられました」

「——虎松?」

「強いばかりでなく、教えるのが上手いのです。勉強になりました」

「——そう。小太郎も剣術は得意ですものね」

 母上はそう言って、泣きそうに、とても綺麗に笑った。


 *


 その前日。馬が三頭、草の中を走っていた。馬上の男が手綱を引き馬を止める。先頭の馬に乗っていたのはまだ十五歳になったばかりの少年だった。慣れた手つきで馬具から身をひるがえし、地面に降りる。井伊虎松。遠江の浜名湖のほとりにある井伊谷を治める井伊家の次期当主である。


「近くの川まで水を汲みに行く」

「では、」

「よい。一人で行く。すぐ戻る」


 ついてこようとする従者の奥山六左衛門をとどめ、虎松は一人で歩き始める。集落に入りさらに少し行くと、大きな門構えの屋敷が見えてきた。虎松は門の目の前で足を止めた。

「おそらく、ここが松下の家——」

 母のいるところだ、と思った途端、足がすくんだ。すぐにその場を立ち去ってしまいたいような心地がする。もし自分が顔を出したら、母上はどんな顔をするだろうか。鼓動が早くなり、口の中が乾いた。迷惑に決まっている。今日は諦めようと踵を返そうとした時、突然声をかけられた。

「何か御用でございますか」

 振り返ると、女が立っていた。

「あ、いえ。あの、少し、迷ってしまって」取り繕うように言うと、女はそうですか、と虎松の全身を検分するように眺めた。何か言わなければ、と思った。

「こちらは松下のお屋敷でしょうか」

「はい、左様でございます」

 やはり、母上がここにいるのだ。虎松はごくりとつばを飲み込んで、精一杯人当たりの良い笑みを浮かべた。

「——でしたら、知っている道まであと少しのようです。助かりました」


 逃げるように足を進めた。どうして、と虎松は自問する。井伊家の当主になる男として強くあらなければと鍛錬を重ね、心身ともに弱点を克服してきたつもりだった。母上のことは、——母上に会いたいという気持ちには区切りをつけたつもりだった。焦りや動揺を落ち着かせるように一歩一歩踏みしめながら、来た道を足早に戻った。


 馬を止めた木の下まで戻ると、六左衛門が虎松様、と口を開いた。

「ずいぶん遠くまで行かれたのですな。川ならすぐそこにありましたぞ」と松下屋敷と反対の方を指す。

「お、おう。そうであったか。これは気が付かなかった」

「あと少しで浄土寺です。先を急ぎましょう」

「うむ。分かった」


 浄土寺の宿舎に横になったが、その日は寝付けなかった。松下の屋敷を思い出し、母のことを思い出した。


 虎松の一番古い記憶は、藁に包まれた塊にすがって、何やら誰かを罵る言葉を吐きながら取り乱して泣いていた母の後ろ姿だ。


 それから乳母めのとが泣いている姿。「そんな、虎松様があまりにもおかわいそうです」乳母はそう言って、虎松の小さな体を抱きしめてまた泣いた。


 幼い虎松には、ただ不吉に感じるだけで、何が起きているのか分からなかった。一つ目の記憶は父が殺された時のもの、二つ目の記憶は母の別の家へ嫁ぐことが決まった時のもの、と分別がつくのはずっと後になってからだった。


 井伊の先代当主であった父、直親なおちかは虎松が三歳になる前、今川の手にかかった。桶狭間の戦い以降、弱体化していた今川の支配を逃れ、水面下で徳川に寝返ろうとした内通が露見してしまったのだ。弱体化したとはいえ、太守は太守。申し開きすらさせてもらえず、ただ、斬られたのだと聞いている。


 虎松が五歳になったとき、井伊家の当代直虎なおとらはふたたび徳川と内通を試みた。しかし、徳川も井伊にふたごころがないか見破る術はない。信じる者は裏切られる。そこで徳川から「ひよ殿を松下に嫁がせるように」と条件が出された。


 ひよは虎松の母で、井伊が徳川を裏切るならば斬り捨てられる。人質である。徳川の条件を断れば井伊は今川と共倒れになる。小さな谷の小さな家が生きのびる道は他になかった。「母は行かなければなりません」あの日の母の声がこだまする。母が嫁いで後、虎松は今川から逃げるように、三河の鳳来寺に身を寄せることとなった。


「難儀なものだな――」母の泣いている顔ばかり思い出す。楽しかったことを思い出そうとすると、やはり母の顔が浮かんだ。手習いで覚えた漢詩を諳んじれば「虎松は賢いですね」とほめてくれた。怪我をして泣いていれば「痛いの痛いのとんでいけ、鶴のところに飛んでいけ」と唱えてくれた。どうして鶴なの? と聞いても、母は悲しそうに笑うだけで何も教えてくれなかったが、そう唱えられると不思議と痛みが和らぐような気がして、虎松はそれを唱えてもらうのが好きだった。


 昼間訪れた、松下の屋敷を思い出す。あれから十年も経っている。母は自分のことを覚えているだろうか。

 泣き叫ぶ母。諳んじた漢詩。痛いの痛いのとんでいけ。それから——。通り抜ける風が冷たい。体にかけた布を握りしめる。空が白み始めていた。


 翌日、よく眠れなかった重たい体を起こし、浄土寺の庭を歩いていた。道場を借りて体を動かそうか、とぼんやり思案していた時だった。

 あっ! と叫ぶ声がして、左腕に熱が走った。どこからか石が飛んできて、それが当たったらしい。ぱたぱたと駆け寄ってくる足音がする。

「申し訳ありませぬ。怪我はしておりませぬか?」

 溌剌とした声に顔を上げると、七、八歳の男子が慌てた様子でこちらを見ていた。石を蹴って遊んでいたらしい。虎松の腕に血が滲んでいるのをみて、声をあげる。

「平気だ、これくらい舐めておけば」

 治る、と言い終わる前に、小さな手に腕を取られる。そのまま、怪我の上にその手がかざされた。子供が真剣な表情で唱えた言葉を聞いて、虎松は目を見開いた。

「いたいのいたいの飛んでいけ、鶴のところに飛んでいけ」鶴のところに飛んでいけと、また繰り返される。

「鶴——?」

「ああ、これですか。怪我をすると母上がいつもこうしてくださるのです」なにゆえに鶴なのかは分からないのですがと笑う子供を驚いて眺める。

「そなた、名はなんと言う」

「小太郎と申します。ええと――?」

「虎松だ」

 とらまつ、と小太郎は繰り返す。

「——母上はご健勝か」

「はい! 虎松殿は剣術を嗜まれるのですか?」虎松が腰に帯びている刀をみつけて、小太郎がはしゃいだ声を出す。頷くとパッと顔を輝かせた。「では勝負しましょう! こう見えて小太郎は剣術が得意なのです」


 それから小太郎に付き合って体を動かした。小太郎は確かに筋がよかった。このまま成長すれば立派な武士に成長するだろう。体を動かすうち虎松は少し落ち着いた。

 小太郎の動きが少し鈍る。休憩しようと声をかけ、並んで腰を下ろす。

「虎松殿は強いですね。とても敵いません!」

「いやいや。おまえもよく鍛錬しているな」

「強い人との手合わせは勉強になります」小太郎は嬉しそうに笑ってから、ぽつりと呟いた。「兄上がいたら、こんな感じなのでしょうか。虎松殿にはご兄弟はおられますか」

「——さあ、な。小太郎は長男なのか」

「はい。——あ、でも違うかもしれません」実は、と、小太郎は声をひそめる。「小太郎には、本当は兄上がいるそうなのです」

「——死んだのか?」

「いえ。母上が前にいたお屋敷におられると」

「そうか」一度落ち着いた気持ちが、またざわざわと騒ぎ出す。心臓が速いのは、運動のせいだけではなかった。

「母上が、会いたがっておられました。立ち聞きしただけなので、内緒なのですが。強くて、賢くて、優しい人だと。それで小太郎も会ってみたくなりました」

 いつか会えるでしょうか、と言う小太郎に耐えきれず、その小さな頭に手を伸ばした。柔らかな髪の感触が、虎松の掌に残る。

「そうだな。——うん、会えるさ」虎松が言うと、小太郎は嬉しそうに笑った。

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