第40話 共に海を渡る
僕と奏佑が泣きはらした顔のまま楽屋を出て帰ろうとすると、
「津々見くん、お疲れ様。いい演奏だったね。これからも頑張って」
とオーケストラのコンサートマスターに声を掛けられた。奏佑は涙を拭うと頭を下げた。
「どうも、ありがとうございました」
しかし、その声はまだ涙声で、鼻は真っ赤、目も泣きはらして涙の跡が何本も頬に残っていた。
「あれれ、どうしたの? 隣の子は津々見くんの恋人だよね。二人で一緒に泣いたりして何かあったの?」
心配するコンサートマスターに奏佑は自身のドイツ留学について話した。
「へぇ。それは絶対に行かなきゃだめだよ。彼氏くんと別れることになってもね」
コンサートマスターはそう言った。そんなにはっきり「別れる」なんて言わないでよ・・・。それだけで僕の心がズキズキ疼く。
「はい。それは俺もわかってます。でも、こいつと別れるのはつらすぎて・・・」
「うーん、気持ちはわからないでもないけど・・・。あ、そういえば、彼氏くんもピアノやっていたんじゃなかったっけ?」
コンサートマスターは僕に話を振った。奏佑のドイツ行きの話と僕がピアノをやっていることとどんな関係があるというのだろう。僕は怪訝に思いながらも
「はい。やってます」
と答えた。コンサートマスターは僕に続けて質問を投げかける。
「全国大会で二位になったって聞いたけど?」
「ええ、まぁ、一応・・・」
「だったら、彼氏くんもベルリンの音楽院受験しちゃえば?」
「ええ⁉」
僕にとってその提案は青天の霹靂だった。
「そっか。その手があるじゃないか!」
奏佑の顔が急にキラキラと輝き出した。
「え、ちょっと待ってください。僕がいきなり海外だなんて・・・」
僕はにわかに不安が押し寄せて来た。海外音楽留学なんて、今まで考えたこともなかったからだ。
だが、コンサートマスターは、不安がる僕にドイツの音楽院について、優しく教えてくれた。日本の芸大に通うには多額の学費がかかるが、ドイツでは学費が無料であること。クラシック音楽の本場で研鑽を積むことで、確かな技術と音楽への深い知識が身に着くこと。そして、世界へ羽ばたくきっかけが格段に多いこと。コンサートマスターも、若いころにドイツに留学し、技術を磨いて来た経歴があるそうだ。
「いや、でもドイツ語なんて僕、全然話せないし・・・。英語だって全然できないのに」
「ヨーロッパは秋入学だから、今高校二年生なんだったら、後一年半は時間があるんだ。その間にしっかり勉強すれば、無理な話ではないよ」
「え、でも、僕は英語を中学から五年間勉強してますけど、全然話せるようになってないんですが・・・」
「そこは努力と根性で何とかするしかないよ。大丈夫。私だって、同じように語学で苦労したから。頑張れば何とかなるよ」
努力と根性か・・・。でも、不安だなぁ。僕なんか日本の中だって北海道にも沖縄にも行ったことがないというのに、いきなり海を越えてヨーロッパだなんて・・・。
「ああ、そうそう。後、きみたちのようなゲイの子にとってはベルリンは楽しい街だと思うよ。大きなゲイパレードがあったり、ゲイの子が集まるバーやクラブもたくさんあるから」
え、いきなりそっち方面の話ですか?
「ああ、確かにそれは俺も楽しみにしてるんです。こいつと行けたら最高に楽しいですよね」
奏佑はすっかりノリノリで話している。さっきまであんなに泣きじゃくっていたくせに、すっかり満面の笑みを浮かべて。本当に調子がいいんだから。僕はため息をついた。
「だいたい、こんな機会生かさない手はないよ。ベルリンにはベルリン・フィルハーモニーの本拠地もあるし、オペラハウスも三つもある。しかもチケット代は学生だと1500円程度で入れたりするんだ。音楽をやるのに、こんないい場所はないよ。彼氏くんも頑張って津々見くんと一緒に行って来なさい」
コンサートマスターが難しい顔をして悩んでいる僕の背中をポンと軽く叩いた。
「ありがとうございます!」
奏佑は僕の代わりに調子よく大声でコンサートマスターに礼を述べ、頭を下げた。
それからの奏佑はすっかり上機嫌だった。すっかり僕がドイツに行くことが彼の中では決定済みの事項のようだった。だが、僕の心境は複雑だった。もちろん、奏佑と一緒に大学に通えることは嬉しい。離れ離れにならずに済むことも。だが、日本の芸大ですら入るのが大変なのに、ドイツ語で受験しなければならないドイツの音楽院なんて、考えただけでもお腹を下しそうな程不安でいっぱいになる。
それに、どうやって僕のあの両親を説得すればいいのか・・・。ピアノを続けることから奏佑と付き合うことまで、これまで無理を押し通してばかり来たのに、この上更にこんな無理が通るのだろうか。
すっかり元気を取り戻し、終演後に入ったレストランで元気に肉を頬張る奏佑を眺めながら僕は何度もため息をついた。
「なーんだ、まだ悩んでるのか。こういうことは早く決めた方がいいんだぞ。受験するにしても準備がいるし、明日受けるって訳にはいかないからな」
「わかってるよ。だけど、僕の実力で入れるかわからないし、そもそも僕の母さんが許してくれるとは思わないし・・・」
「入れなかったら、また次の年に受験すればいいじゃん? それに、無理だったら普通の大学に進学すれば? ドイツの大学ってめっちゃ入りやすいらしいよ」
「そう簡単に言うなよ。もう、僕どうしたらいいのかわかんない」
僕はテーブルの上に突っ伏した。
「じゃあ、俺が律の親説得しに行ってやるよ。それならいいだろ?」
「はぁ? もう奏佑は僕の母さんに対して相当角が立ってるんだから、そんなことしたら逆効果でしょ」
「そんなことないって。俺に任せときな」
奏佑は意気揚々とグラスの水を口に流し込んだ。
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