第41話 とんとん拍子
「お父さん、お母さん。僕はですね、絶対に
僕の両親は絶句して顔を見合わせた。思った通りの反応だ。絶対に二人は僕の海外留学など反対するに違いない。
「海外留学っていうと、学費が高いってイメージがありませんか? 年間何百万も学費が取られるって。その上、航空チケットや現地での生活費も高くつくって。でも、それはアメリカやイギリスに留学する場合のみなんです。ドイツの音大の学費がいくらか知ってますか? タダですよ、タダ!」
父さんと母さんは目を見開いた。二人とも、「タダ」の一言には弱いよね……。
「まぁ、タダとは言いつつ、実際には各学期ごとに300ユーロくらいのゼメスター・バイトラーク(Semesterbeitrag)、つまり在学する上での諸経費が必要になるわけですが……。とはいえ、これ、日本円で4万円程度ですよ? しかも、その中に大学の所在する都市の交通機関の無料パスも含まれているんです。電車もバスも乗り放題なんですよ。東京で大学に通うための定期代やいろんな場所に行く時の交通費を考えてみてください。学費の話に戻りますが、日本で国立の大学に通っても、半年で25万円はかかります。ということは、ゼメスター・バイトラークと比較すると、五分の一ですよ、五分の一! 年間40万円は浮かせることができる計算です」
「40万といえば、わたしの一か月分の月収くらいにはなるわね……」
と母さんが皮算用を始めた。だんだん雲行きが変わって来たような……。
「生活費や住居費もニューヨークやロンドンに留学するならいざ知らず、ドイツは都市部でも物価はだいぶ安いです。東京の芸大に通うよりもずっと安くすむでしょう。そして、航空券ですが、取り方によっては往復10万円以内で買うことができるんです。安ければ5万円程度から出ているチケットもあります。もし、東京の芸大に通うことになれば、どうですか? ここから東京まで新幹線を使えば片道1万円はかかります。夏休みに帰省するにしても、交通費の差額は5万円もすればいい方ですよ」
「お金の話はわかった。でも、いきなりドイツに留学させろと言われても、我々じゃ想像もつかないもんでね」
父さんは少し慎重だ。だが、奏佑の熱弁は止まらない。
「それはわかります。いきなりドイツ留学と言われても、困ってしまいますよね。でも、よく考えてみてください。律は音楽の道に進みたがっている。ドイツは音楽を志す者にとってどういう国がお二人もご存知でしょう。僕が入学を打診されている音楽院は、世界でも有数の音楽教育機関の一つなんです。ここから、今では世界的に活躍する数多くの音楽家たちが輩出されています。世界中から、優秀な学生が集まって来るんです。でも、俺は律は絶対にその中でもやっていけると思っています。逆に、ドイツの音楽院の方が律にとってずっといいと思う。世界的に権威のある音楽家と直接人脈を築ける機会は圧倒的に多いですし、律の実力ならきっと音楽院の中でも頭角を表していけるはずなんです」
「はぁ。でも、音楽の世界なんて狭き門なんでしょ? いくら奏佑さんがピアニストとして成功されているといっても、うちの律なんかが……」
と母さんが小々心配そうな素振りを見せる。すると、奏佑がフフンと笑った。
「だったら、ドイツの総合大学を考えてもいいんですよ? ドイツの総合大学も学費はタダ。ドイツ語の力さえしっかりつけておけば、入学試験もありません。その上、ドイツの大学に入れば、ドイツ語と英語、両方身に付けることができるんです。今の時代、ドイツでも英語で受ける授業も多いですからね。しかも、ドイツの大学の教育水準はとても高いことで定評がある。だったら、律がこれからトリリンガルになり、さらに高い専門性を身に付けてグローバル企業で大活躍、なんて未来も描けます」
「まぁ、トリリンガルですって⁉」
と母さんが叫んだ。最初は奏佑を拒絶していた母さんだったが、奏佑があまりに僕がドイツに行くことを魅力的に語るので、すっかり奏佑に丸め込まれてしまったようだ。一体、奏佑のやつ、どこでこんな話術を身に付けたんだ。まるでセールスマンだよ。通販番組でも見ているような気分になって来る。
「という訳でですね、費用の面でも効果の面でも、せっかくだから留学した方がいいと思うんですよ。それに、もし律の身に何かあっても俺が一緒にいますから」
奏佑は調子に乗ってウインクしてみせた。最後の、僕と奏佑が一緒にいるって所は
「本当ね! わたしもそういう話なら賛成だわ。最近、海外留学する人も増えているし、そんなに安く行って来られて、信頼できるお友達もそばにいてくれるなら、わたしもこんなに安心なことはないわ」
って、母さん!? 何説得されちゃっているんだよ!
「そうだな。それに、奨学金でも得たら、生活費まで浮く訳だろ? 行かない手はないよ。頑張れ、律。父さんも応援しているから」
父さんまで……。僕は思わず立ち上がった。
「ちょっと待ってよ! まず、奏佑は僕の友達じゃないし。彼氏だよ、彼氏。それから、そんな留学しろなんて言っても本当に大変なんだよ。語学だってどうするの? ドイツ語だよ、ドイツ語! 英語だってできない僕がドイツ語だよ!」
「それは、俺が何とか面倒を見ますから」
って、奏佑!? それ、本気で言ってるの?
「そんなことまでしていただけるの? 本当にありがたいわ。この前はごめんなさいね。あなたに随分失礼なことを言ってしまったわ」
母さんったら、調子良く奏佑に謝り出した。僕らの関係をこれで完全に認めたはずはないが、すっかり留学話につられてしまっているようだ。
「いえ、全然気にしていませんから。よーし、律、頑張るぞ!」
奏佑はニッと笑った。
奏佑は僕の両親と話したその足で
それからというもの、僕はにわかに忙しくなって来た。学校の勉強に加えて家に帰るとドイツ語の勉強にピアノの練習に追われ、休む暇もない。加えて福崎先生とのピアノレッスン、福崎先生に紹介してもらったドイツ語の先生との個人レッスンが加わった。週末の奏佑とのデートはドイツ語の勉強会と化していたし、昼休みの音楽室では僕のピアノの練習に奏佑は付き合ってくれた。すっかり奏佑は僕のピアノの先生気分で、僕の演奏にダメ出しをする。
「奏佑、もうちょっと優しく言ってよ」
と僕が泣きごとでも言おうものなら、
「甘ったれてんじゃないぞ」
としこたま叱られた。奏佑との甘い恋人としての時間を返してほしいよ……。今や奏佑は僕の彼氏というより、鬼コーチといった感じだ。おまけに、僕の留学話が出てからは、福崎先生まで厳しい指導を繰り返すようになり、僕はこの所叱られてばかりだ。だが、僕の受験勉強に付き合う
それに、奏佑に強引に推し進められるまま、なあなあで始めたドイツの音楽院受験だったが、一度始めてみると、すっかりお尻に火がついてしまっていた。音楽の本場で音楽を勉強する機会なんてまたとないし、奏佑も一緒にいてくれるんだから百人力だ。何となくその辺の芸大か、芸大が無理なら普通の大学への進学を目指すより楽しかった。
そんな日々を送るうちに季節は巡り、僕らは高校三年生になっていた。クラスメートたちもいよいよ受験生になり、勉強が忙しくなる中、僕は楽典の問題をドイツ語で解いたり、ドイツ語の試験勉強をしたり、異色の受験勉強に
こうやって皆からの注目を集めるというのも悪くないものだ。小学校からずっと一人で過ごして来た僕が、高校三年生という学校生活最後の一年で初めてクラスのちょっとした人気者になるなんて皮肉なものだ。どうせだったら、もっと早く皆と打ち解ければよかったのに、と僕は少し後悔していた。受験勉強で大変ながら、僕は学校生活には大いに満足していた。
そんな高校三年生の夏休みに入る頃、僕は奏佑に、
「律、夏休みに一緒にベルリンの先生に会いに行こうよ」
と誘われた。
「律も先生に一回レッスンしてもらったらいいよ。それに、音楽院の雰囲気もわかるし、きっといい刺激になるよ」
「レッスン!? いや、無理でしょ。まだドイツ語だって完璧には話せないのに」
「大丈夫。俺が通訳してやるからさ」
「奏佑が?」
「うん」
あまりにも得意気に奏佑が頷くので、僕もついつい奏佑のその笑顔につられてドイツ行きを決めてしまった。
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