第7話 少年
この世界の人々の記憶はみな自分の家から始まる。
ただ、部屋の中に立っているのだ。みなが一人で生まれ、一人で死ぬ。
少年もそうであった。
少年の最初の記憶は春昼からはじまっていた。ぽかぽかとして暖かい。少年が生まれた時には、世界には春しかなかった。夏も、秋も、冬も知らない。
ときたま寒い日があった。少年はなすすべがなく、泣いてばかりいたが、しばらくすると太陽が出てくるようになった。少年は泣くことで太陽を呼び寄せることが出来たのである。少年は家の中を歩き回り、近くにあった本を取り出し、破いたり、投げたり、口に入れたりした。あまりおいしいとは言えなかったので口に入れることはやめた。
数年がたち、少年は簡単には太陽を呼び出せなくなってしまっていた。泣くだけでは太陽は出てきてくれないのだ、と少年は学んだ。肌寒い時には、少年は押し入れにあった毛布にくるまるようになった。そのころから少年は絵本を眺めるようになった。
それからしばらくたつと、夏が来るようになった。少年は夏が来ると、部屋の中心にパラソルを立て、たくさんの麦茶を飲み、塩むすびを食べた。学ぶ必要などなかった。すべて少年がすべきことは脳内にあらかじめインプットしてあったからである。麦茶がなくなったときはかなり困ったが、しばらくすると新しい麦茶が冷蔵庫の中に入っていた。たいていの場合、冷蔵庫に何かしらが入っていたので飲み食いに困ることなどなかったし、考えたこともなかった。食べたり飲んだりするのに疲れると絵本を読むようになった。
ときたま近所のひととお話をした。近所の人たちは少年の家に天井と玄関がないことを大層不憫に思っていたが、少年は全く気にならなかった。生まれた時からないものは別にほしくならないのである。そのころには少年は本を読めるようになっていた。そのためか、少年は年のわりに礼儀正しく、近所の人たちから好かれるようになった。
少年は、近所の人たちのお手伝いをするようになった。もともとは大好きな本をくれる人たちへのお礼として何かしらを頼まれていたのだが、順番が逆になるようになった。本以外に欲しいものはないの?と聞かれたが、本以外にはほしいものは思い浮かばなかった。そのころから急激に本が増え始め、少年は本棚がうまっていくことがうれしくなった。
ある日、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。少年はとても驚いた。少年の家には玄関がないので、お客さんが来た時にはたいていの場合、直接声を掛けられる。呼び鈴なんてうちにあったんだな、と感心しながら入り口へ行くと誰もいなかった。入口のそばに何かが置いてある。キャンプで使うような携帯型の暖炉だった。少年は暖炉の必要性を感じたことが無かったのだが、とりあえず自宅に置いた。まだ冬を経験したことが無かったのである。とりあえず使い方がわからなかったので本棚の中からキャンプ雑誌を取り出し、暖炉をつけてみた。暖炉の中の火はとてもきれいで太陽を思わせた。そのころには少年は全く太陽を呼び寄せられないようになっていた。
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少年はその日、夢を見た。
女の子の夢だ。女の子は少年と同じくらいの年だった。少年は、自分と同じくらいの年の子をほとんど知らなかったので、どうしてもしゃべりたいと思い、近くまで駆けていった。
「ねえ」と少年がいうと、女の子は顔を赤らめて
「なあに」といった。
近くで見るととてもかわいい。女の子は白いワンピースを着ていた。風が吹くと白いワンピースがゆらゆらとして太ももがすこし見えた。黒いナイキのスニーカーを履いており、くるぶしくらいまである花柄の白いソックスを身に着けていた。
女の子は少年の目をまっすぐと見つめ、
「私あなたのこと好きよ」といった。
少年はびっくりしたが
「僕もだ」と答えた。
なんだか頭がぼーっとして心がぽかぽかした。その心のぽかぽかは春昼の太陽を少年に連想させた。ふたりは手をつないで白い光の中を歩いた。どこにいくあてもなく、ひたすらに手をつなぎながら歩いた。実際どこに向かってもいなかった。
ふたりがしばらく歩いているとずっと先に黒いもやもやしたものが見えた。それは球体で地面から50cmくらいのところで宙に浮いていた。
「ねえ、あれ何?」少年は女の子にきいた。
「わからないわ。なんか怖い。」
「あっちに行こうよ。」女の子は近くに行くのを嫌がったが、少年はどうしてもその正体を確かめたかった。二人は手をつなぎながら近くまで駆けて行った。
黒い霧のようなものだった。中心に行くに従って色が濃くなっている。全長は二人の背丈ほどもあった。
「これなんだろう。」少年はすこし近くまで来たことを後悔したが、どうしても何なのかを確かめたかった。
「離れましょうよ。」
女の子がそういった瞬間、黒い霧は飛び散った。成長した、と言ってもいいかもしれない。突然10mほどの全長となり、少年と女の子はその霧のなかに取り込まれた。そして、すぐに消えてしまった。あたりは白い光のみだ。
「何だったんでしょう。」女の子は少しおびえているように見えた。
少年はここまで来たことを後悔したが、もうどうしようもなかった。
「ごめん。」と女の子に謝る。
「いいえ。もういいわ。別にあなたがすべて悪いっていうわけでもないのよ。でも怖かった。」
少年は再び彼女の手を握ろうとしたが、そこに彼女の姿は見当たらなかった。
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少年は寒さで目を覚ます。いままで感じたことのない寒さだ。毛布一枚ではどうにも我慢できそうにない。風がびゅーびゅーと部屋に入り込んで、少年の体温を奪っていく。
少年は目の前の暖炉に火をともす。あらかじめ火のともし方を調べておいたことに安堵した。火をともすと暖炉はオレンジ色に輝いた。さっきの霧の塊みたいだ、と思った。
これが少年に訪れた初めての冬だった。
冬と家 吉田 慎二 @idadai
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