第6話 本性

 その日、平田と少年は平田の家で一晩を過ごした。

 翌朝、平田はラグの上で目を覚ます。少年はまだ眠っている。結局あれから朝方まで話をしていたが気づかぬうちに眠ってしまったようだ。

 

 平田が換気のためにカーテンと窓を開けると風が入りこむ。風は冷たいが、心地の良い冷たさだ。どうやら冬は過ぎ去り、他の季節が来たらしい。ベランダから外を眺めると、イチョウの木が黄色く色づいている。秋のようだ。


 平田はひどく腹が減っていることに気が付く。

 時計を見るともう10時だ。成長期の平田にとって1食を抜くのは、カントの『純粋理性批判』を読み解くことよりも難しい。


 平田は、窓から入ってくる涼しい風に当てられて、トマトソースパスタをごくごく大盛りで食べてやろう、という気分になってくる。キッチンに向かい、鍋にたっぷりの湯を沸かし、塩と400gほどのスパゲティーニを放り込む。鍋からは蒸気とともにセモリナ粉の香りが平田の顔を襲い掛かってくる。鉄パンにバターをひとかけら落として火をかけ、冷蔵庫から作り置きの揚げナスとベーコン入りのトマトソースを取り出して温めていく。取り出したスパゲティーニをトマトソースと絡めて皿にもり、最後にパルミジャーノレッジャーノをチーズグレーターで削り入れる。平田の家中は、バターとチーズ、そしてトマトソースの香りでいっぱいになっている。



 少年はその匂いにつられて目を覚ます。


「おはよう。朝から君の家は、平穏をかき乱す香りに満ち溢れているんだな。」

「それは誉め言葉として取っていいのかい?」平田は笑いながら少年に応える。

「もちろん。しかも最高級だよ。」







 少年と平田は食事を済ませ、満腹感を感じながら、部屋に入ってくる心地の良い風にあたっていた。平田はベッドに寝転がりながら、『生の短さについて』を眺めており、少年はソファにうずまりながらボードゲームの駒をいじっている。


「最高においしそうな食事を目の前にするとさ、どんな気分になる?」少年は駒をいじりながら平田に問いかける。

「そりゃ、一目散にたべたいって気分になるよ」平田は『生の短さについて』から目を外して少年にいう。

「そうだよな。最近さ、自分が本能で生きているのかそれとももっと高尚な精神のもとに生きているのかって考えることがあるんだよ」

少年はお坊様からいわれた、生きる意味を考えてみなさい、という言葉を思い出していた。


「「一目散にたべたい」って思うことが本能で生きていることとつながるんじゃないかってこと?」平田は『生の短さについて』を閉じてしまう。

「そう思うんだ。結局本能のもとに動いているんじゃないかってね。でも、そう思うと背筋が寒くなるくらい怖くなるんだよ。自分の行動はすべてあらかじめプログラムされていて、結局、機械や何かと一緒なんじゃないかって。」

「うーん。でも人は理性によって行動を変えられるじゃないか。もし君が今日はカロリーを抑えた食事をしよう、と思っていたら量を減らしたりだとか、そういったことはできるだろう?」

「もちろんある程度の自由は与えられていると思う。でも、例えば、僕の腕は僕の意思で上げたり下げたりとかできるけど、許された範囲でしか動かないだろう?あらかじめ決められた範囲にしか僕の意思は及ばないんだよ。」


平田は足を細かくゆすり始める。

「そりゃそうだけど、なんでそれが君を怖がらせることにつながるんだい?何かしらの自然法則に従って動くのは当たり前だけど、自然法則の中である程度の自由があるじゃないか。僕らは完全じゃないし、神じゃないんだからすべての自由を手に入れられないよ。僕らが生身で空を飛ぼうとしたって、それは無理な話さ」


「僕が怖いのはね。僕たちは自分たちの自由の制約のすべてに気づいていないんじゃないかっていうことなんだ。僕たちは腕を動かすときに「ああ、腕は腕が許された範囲でしかうごけないんだ」なんて思いながら腕を動かさないだろう?それと同じように、生きているときの制約についてまだ気づいていないことがあるんじゃないかって」少年はずっとボードゲームの駒をこねくり回している。駒の腕が取れてしまいそうだ。

「うーん。それはそうだけど。セネカだったら『その現象をストイックに受け入れなさい』っていうだろうよ」平田は少年が言うことにいまいちピンと来ていない。



 少年はそれ以上この話題について話さなかった。

 少年は自らの制約がなぜ生じているのかどうしても理解できなかったが、それをうまく伝えられなかった。


 少年は、今ここにきている理由が、少年の家に「天井と玄関がない」ことは起因していることに気付き始めていた。しかしながら、なぜ、少年の家には天井も玄関もないのか、なぜ感情とは関係のない音楽が心に直接ひびいてくるのか、なぜ少年は本を集め続けているのか。少年はまだ、その問いすら立てることが出来なかったのである。

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