第5話 友人
少年には尊敬する友人がいた。
彼の名前は平田という。平田も一人で暮らしていたが、彼の家には天井や玄関はもちろん存在した。彼の家は手狭だったが、天井が高く窮屈さを感じさせなかった。そして、いつも暖かくいい匂いがした。平田も無類の本好きであったため、部屋の一辺は大きな本棚が占めていたが、彼の部屋には、ふかふかのベッドやソファ、心地の良いラグがあったし、壁には様々な写真や絵画が飾られていた。シーリングライトは部屋を包み込むような暖色を常に発しており、ベッドのわきには間接照明が用意してあった。そして何より、大きな暖炉が部屋の中心に設置されていた。彼の部屋は暖炉を中心にインテリアが構成されており、彼の部屋に通された人間は常にあたたかな気分になることが出来た。
とはいっても平田はごく親しい友人以外には、ほとんど人を招かなかった。彼の玄関ドアは重厚な金属製になっており、開閉するのでさえ一苦労であった。そのためか平田はあまり外に出ず、ほとんどの時間を自宅で本を読むことに使っていた。ただ、親しい友人は別である。平田は親しくなった友人を必ず家に招いた。少年が真夜中にぶるぶる震えながら訪れたこともあったが、彼は嫌な顔一つせずに部屋に通した。暖かい紅茶を入れ、クローゼットから毛布をだして少年を温めた。
平田と少年は、よく平田の自宅で自分たちが読んだ本について語り合った。平田は少年の自宅に屋根と玄関がないことを知っていたので、冬が少し長引いた際には少年を自宅に招くことにしていた。大体ひと月に一回くらいのペースだろうか。ひと月もすれば、お互い新しい本を何冊か読み終えていたので、話は尽きなかった。
平田と少年は過去に一度、大喧嘩をしたことがある。
「本を持ち合わせるか否か」についてである。
平田は本を収集することには特段興味がなかった。一度読んだ本の内容はたいてい忘れなかったし、忘れるような内容は必要ないものだと思っていた。だから少年から本を借りることはあっても、本を収集するために多くの時間を使う必要はなかった。
一方で少年はほとんどの時間を本を収集するために使っていた。少年は毎日のようにお手伝いに出かけ、その褒美として本を集めていた。少年は「本を読むために必要な労力だ」と平田に言ったが、平田には理解できなかった。本を読みたいのならば借りればいいし、貸してくれる大人たちはたくさんいた。少年が「自分が手に入れた本でなければ意味がない」というのにもまったく同意できなかった。本は本だ。本から得られる経験の多寡は所有によってきまるものではない、と平田は感じていた。
冬が2,3日続いたので、平田は少年を招いた。
平田はセネカの『生の短さについて』を読み、感動を覚えていた。少年に話したくてワクワクしていた。
ピンポーン、と呼び鈴が鳴り、少年を迎え入れる。
「やあ、なんだか久しぶりだな」平田は満面の笑顔である。
「そうだったかな。ひと月ぶりか。相変わらず暖かくて落ち着く部屋だなあ」少年は玄関を上がり、ウィンドブレーカーを脱ぎながら言った。
「紅茶を用意するからソファーで座って待ってて」
「いつもありがとう。」
平田は紅茶とクッキーを用意するためにキッチンに向かう。
少年は、部屋の中心の暖炉に目をやる。いい暖炉だ。アンティークな柄だが燃料はエタノールのようだ。落ち着く色をしている。
「さ、召し上がれ」
「ありがとう」
甘酸っぱいレモンクッキーを二人はほおばる。クッキーはしっとりとしており、とてもおいしい。紅茶で口を潤し、しばらくして、二人は本題に入る。
「いきなりなんだけどさ、生きる意味について、どう思う?」少年はいつもそんな風に、悪びれもなく、突然に問いを投げかける。
「ほんとにいきなりだなあ。なんの本を読んで、そんな疑問が生まれたんだい?」平田は笑いながら少年に聞く。
「疑問が生まれた、って程じゃないんだけどね。エピクロスの『教説と手紙』を読んだんだ。それで、人生で何を追い求めればいいのかなあって。」
少年は先日お坊様からいただいた本をだしながら言った。
「エピクロスか。実は僕も同じ時期に生まれた哲学者の本を読んだばかりだよ。セネカの『生の短さについて』なんだけど。読んだことあるかい?」
平田は本棚を指さして言った。
「いや、読んだことはないな。ストイックな考え方だって聞いたことがあるけど」
「そうだね。セネカはストア派っていう学派なんだけど、ストアっていうのがストイックの語源だよ。エピクロスはどんな考え方なんだっけ?」平田は目を輝かせている。
少年はふーっと大きく息を吐き、頭の中を整える。
「エピクロスはね。人生は快楽を追い求めるためにあるっていう考え方を持っているんだ。そして快楽の種類を3つに分けている。なんか、紙なんてあるかい?ほんと切れ端でいいよ。」
平田は郵便受けに入っていた広告を渡す。
「あ、これ、裏面かけるんじゃないかな。これ、鉛筆。」
「ありがとう。エピクロスは快楽を「必須かどうか」と「自然かどうか」で分けているんだ。一つ目は自然でないもの。これは例えば富とか名声とかだね。どれだけあってももっともっと、って求めちゃうもの。上にはうえがいるから、これは追い求めない方がいい。次に、自然かつ必須でないもの。豪華な食事とかがそうだね。最後に、自然かつ必須なもの。健康的な体とか健康的な精神とかそういったものだね。」
少年は広告の裏面に三つに分かれる樹形図を描いて説明する。
「その快楽の合計値を高めていくのが人生の目的ってこと?そうすると全部の値をできるだけ高めていけばいいのか」と平田はいう。
それに対して少年は難しい顔をしていう。
「そんなに単純でもないんだ。ほら、よくいるだろ。富や名声のために頑張りすぎて体調崩しちゃう人。つまり、ある一方の快楽を求めることである一方の快楽が得られなくなることがあるんだ。だからこの順番が大事なんだよ」
少年は「自然かつ必須」の文字の上に大きな丸を、「自然かつ必須でないもの」の文字の上に中くらいの丸を「自然でないもの」の文字の上にに小さな丸を描く。少年はつづける。
「エピクロスは快楽の最大化を求めているんだけれど、行動面においては最大化というより最小化の方をもとめてる、といった方が正しいかもしれない」
「えっ、どういうこと?」
少年はもう一度ふーっと大きく息を吐き、頭を整える。
「君のいっちばん好きな食べ物って何?」
「んー、チーズバーガーかな。」平田は答える。
「そのチーズバーガーが毎日5つ食べられるとして、それを食べ続けるかい?」
「いや、飽きるな。たまには健康的なものだって口にしたいよ。」
「そうだろ。だから好きなものとか豪華な食事は、普段質素な生活をしているからこそ大きな快楽を得られるものなんだよ。豪華な食事ばっかりしていると身体の健康も失われていくしね。」少年は鉛筆をくるくると手の中で回しながらいう。
「そうすると、健康とかそういった、必須で自然な快楽を最大限満たしたうえでその他の快楽を満たしていく、ということが大事なんだね。」
「恐らくそうだと思う。これに関してどう思う?」
平田はラグの上で腕組をしながら考え込む。
「そうだな。なんとなく、消極的な考え方に思えるというか…。もちろん身体的な健康や精神的な健康はとても大切なことだと思うんだ。でも、より大きな快楽をもとめると言っているはずが、苦難から逃れるべきだ、って言っているように聞こえるんだよね。セネカを読んだって言ったよね?セネカはね、そういった消極的な時間の過ごし方は絶対にしてはいけないと言っているんだよ。「怠惰だ」ってね。」
少年もうなずく。
「うん。僕もね、エピクロスには大半は賛成なんだけど、そこに違和感を感じていたんだよ。でも「怠惰」ってどういうこと?」
平田は続ける。
「セネカは「人間は時間を湯水のように使ってしまうから人生を短く感じるんだ」と言っているんだ。「もっと有意義なことに使いなさい」ってね。セネカをはじめとするストア派の哲学者はいろんな文化を取り入れて、政治にも介入していったんだよ。セネカも皇帝の教育者をしていたしね。」
「じゃあ、政治とかそういったことに時間をつかうべきだって?」
「いや、そうでもないんだ。セネカは仕事のし過ぎに対してはものすごく批判しているんだよ」
「じゃあ、何に時間を使えばいいの?」
「セネカは「哲学的思索に時間をつかえ」って。」
二人は黙り込む。30秒の沈黙。
「うーん。頭がこんがらがってきたな。ねえ、甘いものをもっと食べない?」
「いいね。ちょっと難しいことを考えすぎたな。」少年は笑いながら言う。
平田はキッチンにいって、紅茶とクッキーのお代わりを用意しながら、セネカとエピクロスの考え方を照らし合わせてみる。「少年が以前いっていた本を収集する行為って、非自然なものなんじゃないかな…そのために時間をつかうことっていいことなんだろうか。」もちろんそんなことを平田は口に出さない。正しいとか正しくないにかかわらず、人間関係のために言ってはいけないことがあるというのを平田はわかっていたし、そもそも人の批判をするために哲学をつかうのは卑怯だとおもったのだ。それよりも自分の行動を内省するべきだ。それでもふと思ってしまった考えが頭から離れなくなってしまう。
平田は紅茶とクッキーのお代わりを少年のもとに運びながら言う。
「ねえ、ちょっと疲れたし、ボードゲームでもして遊ばない?」
「グッドアイディア!」
外は氷点下になっていた。それでも家は暖かい。
二人は、天井と玄関と暖炉のおかげで、外のことなど気にせずに時間を過ごす。
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