今日も明日も愛してる
織島かのこ
今日も明日も愛してる
「さくらいせんぱあーい! 愛してますー!」
朝練を終えて教室に向かおうとしたところで、甲高い周囲に響き渡った。声の主は満面の笑みでぶんぶん手を振っており、俺の口からは「げっ」という声が漏れる。
他人のフリをしようと思っても、野球部に
「おい。また来てるぞ、おまえの彼女」
「……だから、彼女じゃねーよ」
「あ、ストーカーだっけ?」
チームメイトの軽口には答えず、俺は小さく肩を竦めた。その場でぴょんぴょん飛び跳ねている女の子の隣を、足早に素通りしようとする。しかし敵は意外とすばしっこく、俊敏な動きで俺の前に回り込んできた。
「桜井先輩! おはようございます!」
「……おはよう……
「全然飽きませんね! 今日の先輩は昨日の先輩とはまた違う魅力がありますから! 今朝は頭の後ろに寝癖がついててとってもカワイかったです!」
言われて、俺は反射的に後頭部に手をやった。朝起きたときにぴょこんと跳ねていた髪は、さっきまでかぶっていた帽子のおかげでまっすぐになっている。キラキラと目を輝かせながら「帽子かぶれば直るだろうっていうズボラさも素敵です」と言われて、俺はげんなりした。
「……うわあ、よく見てんね……」
げんなりを隠そうともしない俺に、彼女は得意げにふふんと鼻を鳴らす。
「好きな人のことなら、なんでも知りたいって思いますから! 今日も大好きです! 明日もきっと大好きです先輩!」
空にさんさんと輝く太陽よりも熱烈な告白を、俺は「あ、そう」といつものように軽く受け流した。
「桜井
俺が彼女に初めて告白されたのは、高校二年生に進級して一週間ほどが経った頃だった。下駄箱のラブレターという、古の少女漫画のような手法で校舎裏に呼び出されたのだ。
正直、女の子に告白されること自体は珍しいことではなかった。自分の容姿がそこそこ整っている自覚はあったし、弱小校とはいえ野球部のピッチャーである。電車の中でラインのIDを手渡されたり、練習試合で他校の女子に声をかけられることだってあった。
「わたし、入学したときからずっと、桜井先輩のことすっごく素敵だなって思ってて」
両の拳を胸の前でぎゅっと握りしめながら言った彼女は、小柄で色が白くて、やや茶色がかったショートの髪がふわふわしていて、まるで砂糖菓子のように可憐な女の子だった。しかし俺は、どんなに可愛い子に告白されたとしても、誰とも付き合うつもりはなかった。
一年生の夏休みに入る少し前に、生まれて初めての彼女ができた。
相手は入学当時からちょっと可愛いなと思っていた女の子で、俺から告白してあっさりOKの返事をもらえた。一緒に帰ったりデートをしたり、それなりに恋人らしいことをして楽しく過ごしていたけれど、そんな幸せな日々はあっさりと終わりを告げた。
――ヒロくん、別れよう。やっぱり、彼氏としてはなんか違うの。好きになれるかと思ったけど、無理だった。
――好きになれなかった、ってなんだよ。俺のこと、好きじゃなかったってこと?
――そうだよ。最初から、ヒロくんのことなんて好きじゃなかった。
何の前触れもなくそう切り出されて、俺はたったの三週間でフラれてしまった。浮かれていたのは俺だけで、彼女は俺のことなんて好きでもなんでもなかったのだ。最初から最後まで、俺の一人相撲だった。
そんなこんなで純情な男心を踏み躙られた俺は、「もう二度と恋人なんて作るものか」と決意した。いつ変わるともしれない相手の気持ちになんて、向き合うだけ時間の無駄だ。
「……気持ちは嬉しいけど、ごめん」
なるべく余計な期待を抱かせないように、冷たい声で端的にそう答える。しかし彼女は怯んだ様子もなく、「どうしてですか!?」と食い下がってくる。
「わたしと付き合えないのはわかりましたけど、納得いきません! もう少し具体的に、前向きな改善点を教えてもらえませんか!」
少しの曇りもないきれいな瞳にまっすぐ見つめられて、俺はハッとした。俺のしていることは、よくわからないフワフワした理由で俺を振った元カノと同じではないか。俺は真正面から彼女に向き合うと、ぽつぽつと話し始める。
「……去年、付き合ってた人がいたんだけどさ。三週間ぐらいで、結構こっぴどくフラれて」
「それは見る目のない方ですね。遺憾です」
「だから俺さ、もう恋愛すんのとかうんざりなんだよ。だから君に限らず、誰とも付き合うつもりない」
吐き捨てるように言った俺に、彼女は真面目くさった顔で「なるほど」と頷いた。そのまま一歩ぶんだけ、距離を詰められる。膝が隠れるくらいの丈のスカートが、風を含んでふわりと揺れた。
「と、いうことは。わたし自身に問題があって、フラれたわけじゃないってことですよね?」
「……それは……そうだけど」
「そういう事情は置いておいて、わたしのこと好きになれそうだと思いますか? ぶっちゃけ何%ですか? 消費税分ぐらいは可能性ありますか?」
ぐいぐいと迫りくる彼女の瞳は、可憐な見た目に似つかわしくなく、ぎらぎらと光っている。その勢いに気圧された俺は、思わず答えていた。
「…………さ、三割ぐらい?」
「よしっ!」
俺の返事に、彼女は天高く拳を掲げてガッツポーズをした。ぽかんとしている俺に向かって、熱っぽく語りかけてくる。
「三割あれば充分です! プロ野球選手だって、シーズンで三割打てれば褒められるじゃないですか! 三打席に一回はヒット打つんですよ!」
「まあ、そう言われると……そうか?」
「わたし絶対、逆転サヨナラホームラン打ってみせます!」
そんな台詞とともに、彼女はその場でバッティングの構えをした。女子にしては結構きれいな、本格的な構えだ。もしかすると彼女は野球経験者なのだろうか、と場違いなことをぼんやりと考える。
「わたし、一年三組の藤峰
そう言ってにっこり笑った彼女の本気を、そのときの俺はまったくわかっていなかった。どうせ口だけですぐ飽きるだろう、と侮っていたのだ。己の認識の甘さを突きつけられるのに、一週間もかからなかった。
藤峰絵麻の朝は早い。毎朝フェンスに齧り付くようにしながら、グラウンドで朝練をしている俺を見つめている。
朝練が終わると挨拶とともにに「今日も愛してます」と繰り返し、チョロチョロまとわりついてくる。一年と二年は校舎が別々なので、毎回まるで今生の別れのように悲しげに見送られる。
教室まで押しかけてくることはほとんどないが、移動教室の際はほぼ確実にすれ違って、嬉しそうに手を振ってくる。おそらく俺の時間割を把握しているのだろう。昼休みに学食に行くと、待ち構えていたかのように彼女もいる。
放課後になると再びフェンスに齧り付いて、俺の部活動を飽きもせずに見守っている。多少気にならないこともないが、邪魔をすることはない。部活が終われば最後に俺に向かって「今日も大好きでした!」と叫んで、ご機嫌な様子で帰っていく。さすがに家までついてきたりはしない。
最初こそ戸惑ったしドン引きしたものの、一ヶ月もすると俺も慣れた。大安売りされる「愛してる」も、もはや風のざわめきのようなものだ。俺の行くところにちょろちょろと現れては駆け寄ってくる姿も、通学路に繋がれている柴犬だと思えば可愛いものである。
「桜井せんぱあい! 昨日、家でクッキー作ったんです! よかったら食べませんか!?」
部活を終えて帰ろうとしたところで、藤峰さんに呼び止められた。薄情なチームメイトたちは「死ね」「爆発しろ」と舌打ちをしながら、俺に一発ずつ蹴りを入れていく。
「わたしのクッキー、すっごくおいしいので食べてください!」
「すげえ自信……こういうのって、ふつう〝おいしくできたかわからないけど……〟って謙遜するもんなんじゃないの?」
「
ニコニコ笑顔とともに差し出されたクッキーの包みを、俺は「ありがとう」と素直に受け取った。きつい練習の後で空腹は最高潮で、コンビニで買い食いでもしようと思っていたところだ。きつね色の美味しそうな手作りクッキーの誘惑に勝てるはずもない。
家に帰るまで我慢できるはずもなく、俺はクッキーを持ったままベンチのある中庭へと移動した。ふと飲み物がないことに気づき、自動販売機の前まで来て、百円玉を二枚入れる。ちょこちょこと俺の後ろについてきていた彼女に向かって言った。
「藤峰さん。何がいい?」
「えっ!? 奢ってくれるんですか!?」
「一応、クッキーのお礼ってことで」
「やったー! じゃあわたしアイスストレートティーがいいです!」
ご要望の通り、アイスストレートティーのボタンを押す。琥珀色のボトルを手渡すと、藤峰さんは嬉しそうに両手でそれを受け取った。
「うわあ嬉しい! 一生の家宝にします! 神棚に飾らなきゃ!」
「いやいや、アイスティーもそんなの荷が重すぎるでしょ……今すぐ飲んで」
「うーん、先輩がそう言うなら仕方ないですね。いただきます!」
藤峰さんはペットボトルのキャップを開くと、ごくごくと二口ほど飲んだ。自分のぶんはスポーツドリンクを購入して、二人並んでベンチに腰掛ける。
いつのまにか日は傾き始めていて、東の空から少しずつ闇が押し寄せてくる。校内には完全下校十分前を知らせる音楽が流れていたが、鳴り終わるまでには食べ終わるだろう。
透明のラップフィルムに結ばれたリボンを、右手でするりと解いた。隣からの期待に満ちた視線を感じながら、市松模様の四角いクッキーをひとつ口に運ぶ。さくさくとした歯応えに手作り特有の優しい甘さが広がって、ココアの風味が美味かった。
「……美味い」
「やったー! あーよかったぁ」
あんなに自信満々だったくせに、藤峰さんはほっとしたように胸を撫で下ろした。「深夜二時まで作ってたので寝不足です」とはにかんだように笑う。
次に、チョコチップの入った丸いクッキーを食べる。さっきのものよりも少し甘い。喉が渇いていたためスポーツドリンクを選んだのだが、このクッキーにはきっと紅茶の方が合うだろう。
「……あー、飲み物失敗したな。俺もアイスティーにしたらよかった」
藤峰さんが持っているアイスティーのペットボトルを指差して「それ、一口ちょうだい」と言ったところ、彼女の顔がみるみるうちに真っ赤になった。
「えっ、そ、そ、それは無理です! そんなの、か、か、か、間接キスじゃないですかあ! 恥ずかしい!」
「藤峰さんにも恥ずかしいっていう感情あったんだ……」
「ありますよお!」
俺にしてみれば、毎日愛してると大声で叫ぶ方がよほど恥ずかしいと思うのだが。
押し問答の末、結局アイスティーを一口だけ飲ませてもらった。彼女はペットボトルの飲み口をじっと見つめながら「なんとかして保存しなきゃ……」と呟いている。後でちゃんと捨てておかなければ。
腹が減っていたこともあり、俺はあっというまにクッキーを平らげてしまった。「ごちそうさまでした」と両手を合わせると、藤峰さんはわくわくと身を乗り出してくる。
「どうですどうです? 結構ポイント稼げました? 何点加点?」
「ポイント稼ぎが露骨だから減点」
「えーっ、そんなあ! 健気って言ってくださいよ!」
口ではそう言ったものの、彼女の手作りクッキーは本当に美味かったので、俺は心の中でこっそり十点加点した。とはいえ、日頃のストーカー行為のおかげで現状の持ち点はマイナスである。
俺が立ち上がると、藤峰さんは小走りに後ろをついてくる。夕陽を背にすると、二つ並んだ影が長く伸びる。一緒に帰ろうとは言われなかったし、俺も口には出さないまま、校門で別れた。
「先輩さよーならー! 今日も大好きでした!」
「もー、いいから早く帰んな! 気をつけろよ!」
しっしと片手で追い払う仕草をすると、彼女はにっこり笑って「明日も絶対大好きです!」と叫んだ。
「桜井先輩! 写真撮らせてください!」
「ええ……なんで」
移動教室で音楽室に向かう途中、藤峰さんとエンカウントした。まるで獲物を狙う山賊のように俺を捕まえた彼女は、真新しいスマートフォンを持っている。俺が先日買い替えたものと同じ、最新の機種だった。彼女は至極ご機嫌な様子で、俺の周りをぴょんぴょんと飛び回っている。
「昨日機種変したんです! 先輩とオソロですよ! カメラの画質良すぎて感動したので、これは先輩を撮るしかないと思いまして!」
「撮ってどうすんの?」
「ロック画面にして、毎日舐めるように眺めます!」
「やめて!」
いくら自分の外見にそこそこ自信があるとはいえ、他人のスマホのロック画面になるのはごめんだ。知らない奴が見たら、絶対「これ誰?」ってなるやつじゃん。
咄嗟に顔を隠した俺に、藤峰さんはじりじりとカメラを向けてくる。
「いいじゃないですかー! 普段、先輩の日常を隠し撮りたいのを必死で我慢してるんですよ! わたしの理性を褒めてください!」
「そんなの人間として当然のマナーだろ!」
「お願いします! 一瞬だけ! ちょっと目線くれるだけでいいから!」
相変わらず諦めの悪い彼女に、俺は渋々折れた。ここで押し問答を続けていては、音楽の授業に遅れてしまう。音楽担当の
無表情のまま視線を向けた俺に向かって、カシャッという音と共にシャッターを押した藤峰さんは、スマホ画面をうっとりと眺めて「ふおおおおお……ハイスペック四千万画素の桜井大翔……」と興奮していた。ちょっと映りが気になったが、見せてと言うのも癪である。
「ありがとうございますありがとうございます! このお礼は必ず!」
藤峰さんは俺の両手をがしりと掴んで、ぶんぶんと振り回してきた。すれ違う生徒たちは苦笑混じりに俺たちを見ていたが、もはやこうして注目されるのにも慣れてしまった。毎日飽きもせず愛を叫ぶ藤峰絵麻の姿は、我が校の名物になりつつある。
「……まあ、別にいいけど……」
「お礼何がいいですか!? 肩でもお揉みしましょうか!? またクッキー作ってきましょうか!」
「いいから、とりあえず離してくんない!? 授業遅刻する!」
俺の言葉に、藤峰さんは「失礼しました」とぱっと両手を離した。俺は「藤峰さんも遅刻すんなよ!」と声をかけて、足早に音楽室へと向かう。チャイムの音と同時に飛び込んだ俺は、牧原先生にちょっと睨まれてしまった。
部活を終え、いつものように藤峰さんの「今日も大好きでしたー!」を聞き流して下校した俺は、自室のベッドでゴロゴロしながらスマホゲームをしていた。ふと、画面上部にメッセージアプリの通知が表示され、手を止める。
送り主は藤峰さんだった。告白されたときに、どうしてもと懇願され連絡先を交換したが、彼女から連絡がきたのは初めてのことだ。
メッセージ画面を開くと、「おつかれさまです!」の一言ののち、ポン、と画像が表示される。開いてみると、仏頂面をしている自分の写真だったので、思わず吹き出す。間違いなく、今日撮った写真だろう。
――かっこよく撮れたので、シェアしますね!
――いや、ほんとにいらない。
――ロック画面にしました! これで、おはようからおやすみまで眺められますね♡
本当にやめてほしい。俺が冷や汗をかいていると、続いて画像が送られてくる。制服姿の藤峰さんが、決め顔でポーズを撮っている写真だった。アプリで多少加工しているのか、目がいつもより大きい。何だこれ、と思っているうちに、追加のメッセージが届く。
――今日のお礼です! 可愛く撮れたので、保存してもいいですよ!
――ふつう、可愛いって自分で言う?
――わたしが桜井先輩に、可愛くない写真を送るわけないじゃないですか! 死ぬほど撮り直しましたよ!
……まあ、それもそうか。スマホと睨めっこしながら、何度も自撮りをする藤峰さんの姿を思い浮かべて、俺はこっそり笑みを零した。
――どうです? 思わず、ロック画面にしたくなるくらいに可愛いでしょう。
彼女の言葉に、俺はまじまじと画像を見つめる。液晶の向こうで微笑んでいる美少女が、こちらを見つめ返してきた。
この写真だけを見るならば、まったくもって文句のつけようのない容姿をしている。アイドルグループの一員だ、と言えば信じる奴もいるかもしれない。黙っていれば可憐なのだ、あの子は。
俺は画像を保存すると、ロック画面に設定する。そのまま画面をスクショすると、藤峰さんに送りつけてやった。数分ののち、返事が返ってきた。
――いくら映りが良くても、渾身の自撮りをロック画面にされるのは恥ずかしいものがありますね。やっぱりやめてください。
俺はベッドの上で、声を立てずに笑った。ざまあみろ、少しはこちらの気持ちがわかったか。
少し悩んだけれど、俺はロック画面を変えずにそのままにしておいた。見た目だけなら目の保養だし、画像は喋らないからだ。
六月も後半にさしかかり、梅雨入り宣言がされて一週間が経った。ここ数日は雨続きでじめじめしていたのだが、今日の空はすがすがしく晴れ渡っている。昼休みの中庭には弁当を食べる生徒たちで賑わっており、俺は屋上からそれを見下ろしていた。
俺は普段友人たちと教室で昼飯を食うことが多いが、今日はなんとなく一人になりたい気分だったのだ。野球部の先輩から受け継いだ屋上の鍵は、元カノと付き合っていた当時に何度か使った。なんだかマンガみたいだねえ、とはしゃぐ彼女の顔を思い出して、俺の胸はズキリと痛む。
――あ。
パンを齧りながら見下ろした中庭には、まさに今しがた思い出していた元カノ――
……ああ、やっぱり女なんてものは信用できない。
「せーんぱい。こんなところにいたんですね」
背後から響いた声に、俺は首を回して振り向いた。屋上の扉から顔だけ出した藤峰さんが、悪戯っ子のような笑みを浮かべてこちらを見ている。いつもと変わらない笑顔に、俺は何故だかホッとした。
「やべ、鍵かけんの忘れてた……藤峰さん、早く扉閉めて」
「はあい」
藤峰さんは後ろ手で扉を閉めると、がちゃんと鍵をかける。手摺りに寄りかかっている俺の隣に小走りに駆け寄ってくると、「わあ、いい気持ち」と呟いた。ふわふわのショートヘアが風に揺れて、なんだか甘い香りが漂ってくる。
「桜井先輩、屋上の鍵なんて持ってたんですね! ずるいです!」
「誰にも言うなよ。先生にバレたら絶対取り上げられるからな」
「ふふふ、それは先輩の出方次第ですね」
「ちっ。……はい、口止め料」
不適に笑った藤峰さんに、俺はポケットに入っていたいちごミルクの飴をひとつ渡した。彼女はまるで宝石でも扱うかのように、大事にそれを両手で受け取る。
「じゃあ、先輩とわたしだけの秘密にしときます」
藤峰さんはそう言って、小さな八重歯を見せて笑った。この場所のことなら元カノも知ってるけど、とは口には出せなかった。いまさらのように、元カノにここを教えたことが悔やまれた。
中庭には、未だ男と昼飯を食べている元カノの姿がある。俺は強引に視線を剥がすと、藤峰さんに向かって話しかけた。
「……なあ。藤峰さんは、俺のどこが好きなの」
俺の唐突な質問に、藤峰さんは目を丸く見開いた後、恥ずかしそうに頬を染めた。
「改めて聞かれると、ちょっと照れますね」
「だって、告白されるまで何の接点もなかったし」
「ぶっちゃけ、きっかけは顔ですね」
「ええ……もうちょっとマシな理由かと思ってた」
実は小さい頃に出逢っていたとか、昔助けられたことがあるだとか、ドラマチックな理由を期待していたわけではないが、まさか顔だとは。顔……顔かあ……と密かに落ち込んでいると、藤峰さんはひょいとこちらを覗き込んできた。
「でもね先輩。わたし、何で好きになったかより、どんな風に好きかの方が大事だと思うんです」
「……どんな風に?」
「わたし、桜井先輩のこと好きです。わたしが挨拶しても絶対に無視しないところとか、なんだかんだ面倒見がいいところとか、監督が見てない練習でも手を抜かないところとか、ごはん食べるときに好きなおかずから食べるところとか、照れたときに右手でほっぺたを触るところとか」
藤峰さんは幸せそうに目を細めて、ひとつひとつ俺の好きなところを挙げていく。俺自身ですら気付いていなかった一面を大切に拾い上げて、宝箱の中に大事にしまうみたいに。
「……そんなの、今だけかもしれないだろ」
ひねくれた俺の言葉にも、彼女は気を悪くした様子もなく「そうですかねえ」と首をかしげる。
「それならわたしは、わたしの気持ちを信じてもらえるまで何度も言います。桜井先輩が好きです。今日も明日も明後日も、わたしが死ぬまでずーっと大好きです!」
色素の薄い茶色の髪が、太陽に照らされて茶色に輝いている。長い睫毛が白い頬に影を作る。黒々とした瞳は水面のように澄み切っていて、戸惑いに揺れる俺の姿を映している。
彼女の熱烈な告白を聞きながら、いつのまにか右手で頬に触れていることに気がついて、慌てて手をひっこめた。
「藤峰さん。それ、自分で言ってて恥ずかしくねえの」
「……後からもっと伝えておけばよかったって、後悔したくないんです」
なんだか含みのあるその口調が気になったけれど、俺はそれ以上深追いはしなかった。「えへへー」と笑った彼女が、こてんと肩に寄りかかってくる。俺はそれを振り払うこともせず、されるがままになっていた。
「うわっ。桜井のロック画面、藤峰さんじゃん!」
朝練が終わり、部室で練習着から制服に着替えていると、チームメイトの
「おい、勝手に見んなよ」
「いや、見られたくないならこんなとこに放置すんなよ! 見せびらかしたいのかと思った!」
「別に、そういうわけじゃ……無理やり写真、送りつけられただけで。ロック画面にしたくなるくらい可愛いでしょ、とか言われて」
しどろもどろになりながら言い訳をしていると、瀬那はニヤニヤしながら、俺の肩に腕を回してきた。
「桜井はさあ、藤峰さんと付き合わねーの?」
「付き合わない」
「なんでだよー! 藤峰さん、可愛いし良い子じゃん! せっかくあんなに好き好き言ってくれてるのにさあ」
にべもない俺の返答に、瀬那は不服そうに唇を尖らせる。コミュ力オバケである瀬那は、野球部員がみんな腫れ物扱いしている藤峰さんにも臆せず話しかけており、ときおり俺の情報を横流ししているようだ。
「俺、誰とも付き合うつもりないし。それに、あんなこと言ってるのも絶対今だけだって」
投げやりな口調でそう言うと、瀬那はぱちぱちと瞬きをして、まっすぐに澄んだ目でこちらを見てきた。
「桜井、
……瀬那は明るくて単純な気の良い奴だが、ちょっと無神経なところがある。みんな気を遣って元カノの話題は避けてくれるのだが、瀬那はそういうことに遠慮がない。
「オレだってさあ、桜井のこと気の毒だと思うよ。そりゃトラウマにもなるよな。オレがもし
「……おまえ、なにげに失礼なこと言ってない?」
「でもさ、藤峰さんと田村さんは違うじゃん。一緒くたにしたら、藤峰さんがかわいそうだろ!」
「……それは、そうだけど……」
瀬那は俺の手の中にあるスマホを顎でしゃくると、どこか俺を責めるような、諭すような口調で言った。
「少なくともオレは、なんとも思ってない女の子のこと、スマホのロック画面にはしねーよ」
……そんなの、俺だってそうだよ。
たぶん俺の中でもう答えは出ていて、あとはもう認めるだけだってことくらいわかっている。それでも生ぬるくも心地良い現状から抜け出すのが怖くて、俺は首を縦に振れずにいるのだ。
制服に着替えて部室の外に出ると、藤峰さんが立っているフェンスのあたりに視線をやるのが癖になっていた。俺が出てくるとぱっと明るい笑顔を浮かべて、ぶんぶんと大きく手を振ってくるのが常だ。
しかし、今日は少し様子が違った。朝練のときから彼女の姿はなく、俺は何度もそちらばかり気にしてしまって、監督にどやされてしまった。
移動教室のときも、昼休みも放課後も、彼女はいっこうに俺の前に姿を出さず、ついにはそのまま下校時刻になってしまった。彼女に告白されてから、彼女の顔を見ない日はなかったというのに。
もしかすると風邪でもひいて休んでいるのかもしれない。明日会ったら、「昨日も愛してました! 今日も愛してます!」だなんて明るい笑顔を向けてくれるに違いない。仕方ないから、見舞いの言葉のひとつでもかけてやろう。
しかし、その日を境に――藤峰絵麻の存在は、俺の生活からぱたりと姿を消した。
翌日もその次の日も、藤峰さんは俺の前に現れなかった。最初のうちは「おまえのストーカー、どこ行ったの?」と周りから聞かれたが、一週間もすると誰も気にしなくなった。
平穏な生活が取り戻せて、喜ばしいはずなのに――俺の心にはぽっかりと大きな空洞ができていて、冷たい風がそのあいだを吹き抜けている。
ここ数日、俺は彼女のことが気になって眠れなかった。怒りとも悲しみともつかない感情で胸が締めつけられて、苦しかった。思い出したくもないのに何度も反芻しては、吐きそうになっていた。
――あいつが勝手に俺のことを好きになっただけなのに、なんで俺がこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。
そんな夜、俺はつい未練がましく、スマホに残った彼女の写真を眺めてしまう。消そうと思ってはいるのだが、どうにも踏ん切りがつかないのだ。
「……俺のこと、好きなんじゃなかったの……」
そんな風に問いかけてみても、ディスプレイの向こうにいる彼女が答えてくれるはずもない。
もともと学年も違う俺たちに接点はなく、彼女の気持ちひとつでいつでも終わる関係だったのだ。きっと、俺に飽きてしまったのだろう。人の気持ちなんて簡単に変わるものだと、わかっていたはずではないか。
――それならわたしは、わたしの気持ちを信じてもらえるまで何度も言います。桜井先輩が好きです。今日も明日も明後日も、わたしが死ぬまでずーっと大好きです!
もうしばらく聞いていない彼女の声が、頭の中でわんわくと響く。ぎゅっと胸が締めつけられるように苦しくなって、嘘つき、と心の中で毒づいた。
久しぶりに足を踏み入れる一年生の校舎の空気は、なんだか妙に落ち着かない。上履きのラインの色が違うので、よくよく見れば先輩だと気付かれるのだろうが、周囲はそこまで俺に注目していなかった。それでも、なんとなく居心地の悪さを感じる。
藤峰さんがいなくなってから、どうにもモヤモヤした気持ちを抱えていた俺だったが、瀬那に「そんなに気になるなら、本人に聞けば?」と言われたこともあり、ここまでやって来た。彼女はしょっちゅう俺に会いに来ていたが、俺の方から彼女に会いに行くのは初めての経験だった。
もしかしたら俺は、藤峰さんにフラれるのかもしれない。一方的に好かれていたはずの相手からフラれるのもおかしな話だが――「もう飽きたんです」と言われたとしても、この中途半端な状態よりはいくらかマシな気分になるだろう。
藤峰さんが在籍している、一年三組の教室を覗き込む。窓際で机を囲んでいる子たちの中にも、大声で笑っているギャルの集団の中にも、彼女の姿は見当たらなかった。廊下側に座っていた女子二人組に向かって、「あのさ」と声をかける。
「あ。桜井先輩だ」
どうやら俺のことを知っていたらしく、女子はこちらを見て目を丸くした。俺がたじろぐと、「絵麻から話聞いてましたから」と、女子同士で顔を見合わせてくすくす笑みを溢す。どうやら、藤峰さんの友達だったらしい。
「えーと。藤峰さん、いる?」
俺の問いに、彼女たちは揃ってさっと目を伏せた。その反応に、胸にさっと黒い予感がよぎる。ざわざわと胸に迫り来る不安に、喉が詰まるような感覚がした。
「……絵麻、今入院してるんです」
「……え?」
「あの子もともと、心臓の病気があって……今週末手術受けるみたいだから、そのための入院です」
十七年間健康体で生きてきた俺にとって、入院も手術も縁のない単語だった。俺の前で明るく笑っていた藤峰絵麻とも、おおよそ結びつかない言葉である。
「……そんなにひどいの?」
「私たちも、あんまりよく知らないんですけど……絵麻は、今すぐ死ぬような病気じゃないよ、って言ってました」
「……全然……知らなかった」
「絵麻、たぶん先輩に心配かけたくなかったんだと思いますよ」
そんなフォローの言葉も耳に入らず、俺は呆然とその場に立ち尽くしていた。死ぬまで好きです、と言った記憶の中の彼女に向かって、縁起でもないことを言うなと怒鳴りつけたくなる。
――後からもっと伝えておけばよかったって、後悔したくないんです。
……もしもう二度と彼女に会えなくなったとして、俺は果たして後悔せずにいられるだろうか。彼女はいつだってまっすぐ気持ちをぶつけてくれたのに、俺は適当に誤魔化して逃げてばかりで。彼女が惜しみなく注いでくれる愛情に、何も返すことができなかった。
ぐっと拳を握りしめると、俺は二人に向かって「藤峰さんが入院してる病院って、どこ?」と尋ねた。
*
幼少期の大半を過ごした、病院の匂いが苦手だった。ツンと鼻をつく薬の匂いと一緒になって、痛くて苦しくて辛かった記憶が蘇ってくる。
中学に入ってからは、ずいぶんと病状が安定した。このまま普通の女の子に戻れるのかな、だなんて淡い期待もしたけれど、やっぱりそううまくはいかなかった。明日に控えた手術はそれなりに大きなもので、わたしはきっと夏休みが始まるまでには高校に戻れないだろう。
病室の窓から見える空は、もう夏の色をしている。キラキラと輝く太陽の下で汗を拭う、大好きな人の姿を思い出す。会いたいなあ、なんてことを考えて、迂闊にも目尻に涙が浮かんだ。
桜井先輩を好きになって、彼のことを追いかけていると、なんだか普通の女の子になれたみたいで嬉しかった。彼はときおり迷惑そうにしていたけれど、わたしを冷たく突き放したりはしなかった。
思えばずいぶんと、自分勝手に気持ちをぶつけていたものだと思う。念願叶って彼と付き合えたとしても、わたしはきっとまともにデートもできない。海に行って泳ぐことも、人混みの中花火大会に行くことも。将来結婚したって、子どもを産めるかどうかもわからない。わたしと付き合ったところで、彼に余計な我慢を強いるだけなのかもしれない。
それでも、好きだと伝えずにはいられなかった。わたしがもしいなくなったとしても、彼の記憶にちょっとでも残れたらいい。人の気持ちなんて信じられないと言った彼のことを、死ぬほど好きだった女の子がいたことを、どうか忘れないでいて欲しい。
「……死ぬまで好きです、桜井先輩」
囁くように吐き出したセリフは、彼の耳にはきっと届かない。これは彼に忘れられたくない浅ましい女の、ただの呪いの言葉だ。
「勝手なことばっか言ってんなよ」
幻聴だと思った。弾かれるように顔を上げて病室の扉に視線を向けて、そこに立っている人の顔を見たときも、わたしはまだ幻だと思っていた。
「せ、んぱい……?」
やけにリアルな幻は、ズカズカと中に入ってきて、ベッド脇にあるパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。わたしの顔を覗き込んで「意外と元気そうじゃん」と肩を竦める。
わたしはその端正な顔立ちをまじまじと見つめて、頰に手を伸ばすとぎゅっとつねりあげた。病室には相応しくない大声で「イテェ!」と叫ぶ。もしかするとこれは、幻では、ない。
「せ、先輩!? な、なんでこんなところにいるんですかあ!?」
「それはこっちのセリフだよ! いきなりいなくなったと思ったら、入院なんかしてんなよ!」
「ご、ごめんなさい……」
たしかに先輩には何も伝えていなかったので、余計な心配をかけてしまったかもしれない。わざわざお見舞いに来てくれるなんて、やっぱり桜井先輩は優しい人だ。
……でも本当は、知られたくなんかなかった。画像アプリで加工された完璧な写真のまま、彼の記憶に残っていたかった。
みっともなく痩せこけた頰や青白い顔を見られたくなくて、わたしは俯いて下唇を噛み締めた。
「……明日、手術するんだって?」
「え? ああ、その、そうなんです。でもそんなに大袈裟なやつじゃなくて、わたしにとっては朝飯前っていうか、アハハ」
彼の問いに笑って誤魔化したけれど、先輩は怖い顔でじっとこちらを睨んでいた。
「……俺さあ。元カノにこっぴどくフラれたの、めちゃくちゃトラウマなんだよ」
「え? ああ、はい……し、知ってます……」
知ってるけど、今この状況ではあんまり聞きたくない話だ。渋い顔をしたわたしに構うことなく、先輩は真剣な表情のまま続ける。
「だからさ、今度また好きな女の子に裏切られたら、もう絶対立ち直れないと思う。たぶん世界を呪って、飛び降り自殺とかしかねない」
「ひえっ、そ、それは困ります!」
桜井先輩のような素敵な人がこの世からいなくなってしまうなんて、世界の多大なる損害だ。青ざめたわたしの手を、彼はぎゅっと強く握りしめてきた。豆だらけの大きな手は、わたしのそれよりも温度が高くてあたたかい。
「……だからさ、勝手に俺の前からいなくなったりすんなよ。藤峰さん、俺のことこれからもずっと好き、って言っただろ」
「い、言いました」
「俺、信じるからな。俺を不安にさせないように、明日も明後日も馬鹿の一つ覚えみたいに愛してるって言ってよ」
大好きな人の声帯から繰り出される言葉を、わたしはどこか他人事のような気持ちで聞いている。いったい彼は何を言っているんだろう。そんな、これは、まさか……。
「さ、桜井先輩。なんだかそれ、わたしのことす、好きって言ってるみたいに聞こえます……」
「……そうだよ!」
「えっ、ええええええええ!!」
絶叫したわたしに、桜井先輩は「しっ! 病院だぞ!」と人差し指を唇に当てた。わたしはバクバクとうるさい心臓を押さえながら、慌てて声のボリュームを落とす。
「そ、そんなのいきなり言われても……も、もうちょっと事前に小出しにしておいてください!」
「仕方ないだろ! 俺もう、後悔するの嫌だと思ったんだよ!」
「そ、そんなあ……こ、困ります……」
「なんで困るんだよ、喜べよ。藤峰さん、俺のこと好きなんだろ」
「愛してます……」
観念したように答えたわたしに、先輩は「ほらみろ」と嬉しそうに笑った。そんな笑顔が可愛くて、わたしの胸はきゅんと高鳴ってしまう。ああ、手術の前に心臓止まっちゃいそう。
椅子から立ち上がった彼が、こつんと額を額にぶつけてくる。間近で見る先輩の顔はやっぱりきれいだ。死ぬ前に見る景色はこれがいい、だなんて口に出したら、彼に怒られてしまうだろうか。
「……退院したら、デートしようか。藤峰さんの行きたいとこ行こう」
「ええっ、そんな……どうしよう……」
「だから、何で困るんだよ」
「し、幸せすぎて……困る」
先輩はわたしの頰に右手で触れると、「そりゃよかった」と唇の端を釣り上げる。なんだか夢見心地で、頭の中がふわふわしている。好きだと繰り返される声の甘さに、なんだか酔っ払ってしまいそう。
「……寝て起きたら、全部夢だったりしませんよね?」
「……それじゃあ、明日も言ってやるよ」
「えーっ! そんなの、絶対死ねなくなっちゃったじゃないですか!」
逞しい胸にぎゅっとしがみつくと、同じ力で抱きしめ返してくれる。「明日も好きだよ」と囁かれる言葉は、きっとわたしをこの世に繋ぎ止めるための呪いの言葉だ。
そんな優しい呪いにかけられたわたしは、きっと明日も明後日も死ぬまでずっと、彼のことを愛している。
終
今日も明日も愛してる 織島かのこ @kanoco
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