夕日の続きを 【悲しい現代ドラマです】

「ねえ、あなた。プロポーズしてくれた日の事を覚えてる?」


 おおよそ病室とは思えない小綺麗な一階の個室で、ベットに身を預けたままの妻は声で呟いた。


「忘れもしないさ。あの日、海岸線に沈む夕日はとても美しかった」

 僕の言葉に妻は『ふふっ』と、力無く微笑むと、病室の窓から朝日が照らす煉瓦レンガの壁を眺めて言った。

「もう一度、あなたと一緒に、沈む夕日を見たかったわ」

 その言葉に、僕は『また一緒に見よう』という言葉を飲み込んだ。

 それが、叶わぬ願いだと理解わかっていたから。


 妻は結婚してすぐに白血病と診断された。

その時既に遅く、彼女の病状は手の施しようの無い状態になっていた。

「本当に至らない妻でごめんなさい。あなたを幸せにする事が出来なくて……」

 妻の言葉に僕は笑顔で首を横に振る。

「そんな事を言わないでくれ。僕は君と過ごす日々が、なによりも幸せだ」

 その言葉に、妻は諦めに似た笑みを浮かべると、投薬の効果で寝息を立て始めた。

 

 医者が僕に告げた、『奥様は、あと二、三日でしょう』という言葉が脳裏を掠める。

 僕は、妻の最後になるであろう願いを叶えるため、自宅に急いで帰るとパソコンを立ち上げた。


 再び病院に戻ると、僕は何枚もの紙を手に抱えながら妻の病室の裏手に回った。

 窓の外から見えるのは、妻の弱々しく眠る姿。

「あの日見た夕日を、もう一度二人で見よう」僕は、そう呟くと、窓一面に紙を貼り付けていった。

 

 次に妻が目を覚ましたのは夕方だった。

「やあ、目が覚めたかい?」

僕の声に微笑む妻は美しく、間も無く訪れる別れが嘘ではないかと錯覚させる。


「ええ、あなた。ずっと此処に居てくれたの?」


「いいや、君の想い出を探しに、少しここを離れていた」

 そう言って僕は視線を窓に向ける。

それにならって外に目を向けた妻は、手で口を覆い、「あなた、あの日の夕日ね……」と、瞳を潤ませた。

「ああ、あの日、二人で見た光景だよ」

窓には何枚もの繋ぎ合わされた写真が、ひとつの光景を映し出していた。


 ––– 海岸線に沈む夕日。


 途端に妻が、「やっぱり死にたくない…あなたと別れたくない……」と、泣き始めたのは、今まで押し殺していた感情が爆発した為だったのだろう。

 僕は、彼女と別れるその日まで笑顔で居ようと決めた。溢れる感情を抑え込み、笑顔のまま彼女の手をそっと握り締めて言った。

『……ああ、一緒だよ』、と。



 ––– 彼女がこの世を去ったのは、それから数日も経たない夕暮れ時だった。

 心の中が暗く寒く沈む中で、僕は妻から最後に渡された手紙を開いた。

『私が死ぬまで読んじゃ駄目よ』と、言っていた妻の声が今にも聞こえて来そうな錯覚に、僕はまだ現実が受け入れられずにいるようだった。


 –––– 開いた手紙にはこう書かれていた。



––– 最愛のあなたへ。

 今まで本当にありがとうございました。

そして、迷惑ばかり掛けてごめんなさい。

 こんな事になってしまったけど、私はあなたと出逢えて幸せでした。

 どうか、いい人を見つけて早く幸せになってください。


 そんな妻の言葉に、どんどん視界がぼやけてゆく。その後も、今までの思い出や感謝の意が綴られていた。


 そして、文末にはこう綴られていた。


–––– 最後にワガママいいですか?

 この先、あなたが幸せになる事を願っています。でも、出来れば私のこと忘れないで欲しいです。あなたの心で生きていたいから。


 僕は、その先を読む事が出来なかった。


 もう、いいかな。

 もう、いいよな。

 もう、いいだろ。


 留めていた涙がせきを切ったように溢れ出し、手紙に雨を降らし始めたから。

「僕こそ!君にっ!何もッ……」


 止まらぬ嗚咽の中、僕は自分を恥じた。

生前に妻と交わした言葉。


、一緒だよ』


 それは、愛する妻の後を追おうとしていたから。

 だけど、手紙には『私を忘れないで』と、書かれていた。

 僕まで死んでしまえば、君を思い出すことすら出来なくなる。


「僕は……馬鹿だ!」

真っ暗な世界に囚われていた僕の心に、妻の残した手紙が優しい小波をたてる。そして次第に大きく、力強く波打っていった。


 夕日が沈んだ水平線からは、日が昇る事はない。だから、僕は後ろを振り返って待つことを決めた。


 –––– 君と生きた想い出を胸に。

 あの日見た、夕日の続きが朝日となるその日まで。

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