耳鳴りとサイレント(仮)

狐照

第1話

『羊飼い―あの日滅んでしまえばよかったのに』


襟巻きが冷たいビル風に煽られあらぬ方向へ棚引いた。

良い場面で、またか。


手摺に背を預け直し溜息をひとつ、白い息が夜闇に細く流れた。

風がふつり途切れ襟巻きが読んでいた文庫に枝垂れ掛かかる。

ふたたび息をひとつ、襟巻きを毟り取りたい衝動に駆られたが、頬を刺すような寒気に押し止められる。

忌々しい、邪険に振り払う。


高層マンションの屋上は静かだが、風が強いのが難点だ。

それにいたく寒い。

錆びついた指の関節を無理に動かし、頁を厚く捲り過ぎた。

苛々が乾いた唇に溜まる。

深く長くひとつ息を、もう白くない。


薄く濁った空に浮かぶ三日月を呆然と見つめ、冷えた空気を受け入れる。

澄み切った暗いそれらで肺を満たす。

やれ、羊飼いの悲痛な告白の続きをと。


耳に微かな痛み耳鳴り。

それを感じ横を見やれば、


「おお滅べやけんそー」


狐面のような面構えの”耳鳴り“が、手摺にしゃがみ微笑んでいた。

その登場はいつも突然で急だ。

会いたくないことはない。

むしろ傍にいて欲しい相手だ。

ただ、と、息をひとつ襟巻きの中に零す。


「耳鳴りはそう思うのよ」


同意を求めてくるが今は興味が持てない。

無言で字面を追おうと、目線を落とす。


「ぎょわんぎょわん五月蝿いのよ」


強烈な耳鳴りに不快感を覚えた。

目の端で紅い着物の袖がはためく。

落ち着きのない神様だ。

呆れて息を吐き字面を追うことに集中。

その先でしつこい耳鳴りの歌が聞こえた。

周囲に響くはた迷惑な静寂への蹂躙。


「これはもう征服なのよ」


精悍さを装い、”耳鳴り“が真面目な声を発する。

辺り一変、軽やかな耳鳴りに包まれたが無視し、身の破滅しか残らない物語の結末へと。


「耳鳴りが全部全部征服なのよ」


神の戯言、聞き流すが得策。

怒濤の結末が小さい本から活字から溢れ出る。


「全部よ全部なのよ。歌も空気も音も世界もなにもかもなのよ」


耳鳴りで世界征服宣言。

できないこともないだろう。

けれど戯言。

頁を慎重に捲る。

引き込まれる、寒さによって悲劇の中に。


「    で    のよっ   が  」


めくらになった世にも呪われた生まれの王が、嘆く。

「  よっ」


巨大な悲しみ、嘆く。

「 !」


嘆く。


「な なのよ本当なのよ も征服しちゃうのよっ」


義理の弟に導かれ、かつて王だったものが去って行く。

かつて栄光にまみれていた王が、己で始めたことで悲劇に。

いや、もはや決められていた運命に。

神によって定められた悲劇に。

浸り蝕まれ滅ぶ。

娘たちを奪われた哀れな王に、責めるでもなく慰めるでもない民たちの斉唱、完。

読了感に鋭い風が頬を叩く。

古い紙の匂いが、そこに柚子のようなお香の香りが。


「ほっ本当にしちゃうのよっ征服しちゃうのよぅ」


耳鳴りと悲痛な声が鼓膜に響き、喉を絞められるような感覚で我に返る。

忘れていた。

すっかり忘れていた。

耳鳴りを司る神”耳鳴り“が、来て居たことを。


「し、支配しちゃうのよ、良いのね?征服しちゃうのよっ」


文庫を閉じ視界にそれをようやく入れる。

“耳鳴り”が悔しげな表情を浮かべ、俺の襟巻きの両端を手にしていた。

どおりで息苦しいわけだ。

それに耳鳴りがやたらと聞こえる。

気付かぬ所で相当喚かれていたようだ。


「嫌なのよね、そうなのよね、どうなのよ、サイレント」


そうして慌てた様子で俺の真正面に。

頭ひとつ分低い背、鼻先は赤く息を切らす威厳も威光もないお姿。

神様のくせに無様。

あまりの必死な様に口元を緩ませると、


「どっちなのよ、サイレントっ」


背伸びをして求められた。

応えたかったが、一体どんな問いだったか。

征服の件が云々かんぬん。


「サイレントっ」


耳鳴りがする、けれど”耳鳴り“の声が耳に優しく濁らず聞こえる。

それが神の御力かそれとも、なのか。

なんとはなしに首を傾げると、”耳鳴り“が口元を歪めた。

今にも泣きそうだ。

応えになってしまったようだ。


「うーサイレント…酷いのね酷いのよ。最近ずうっと無視なのよ寂しいのよ耳鳴りは寂しいのよ」


それに関しては思う所がある。

好きで無視をしていたわけではない。

”耳鳴り“を嫌っているわけでもない。

だがこちらは静かな場所を選んで、読書を楽しんでいるのだ。

そこに現れる神が悪い。

俺はそう思う、と見つめ直す。

”耳鳴り“が嫌々と首を振る。

伝わっているのに拒絶され、もはや癖の溜息が零れた。

「でもね、でもね、サイレント」


“耳鳴り”が、俺へのあだ名、沈黙無言無視で読書ばかりなサイレント、を小声で連呼しぐずり出す。

襟巻きを遠慮なく振り回しながら。

中々苦しい。

俺は困るしかなかった。


確かにいつもなら読書中二言三言上の空で返事をし、読了してから相手をする、というのがつねだった。

ただここ数週間、劇物語に熱中しほぼ毎夜無視していた。

そのツケが今、回ってきているようだ。

気にはしていたが、こうなってしまうとは。


あまりの耳鳴りに、五月蝿いと一蹴したくなる。

あまりの悲痛な呼び声に、溜飲する。

なにかしらの不満を腹にぶちまけられ、襟巻きを振り回わされ、鳩羽色の髪とへそ曲がりな位置の旋毛の螺旋を眺めた。

話すきっかけが、話すべき言葉が分からない。

散々本を読み散らかしておいて、大切な人を目の前に、掛ける言葉が見当たらないとは。

無残なほど愚か。

戸惑い焦り、何もできず沈黙を意味なく死守。

手摺の先で小さな光が煌々燃え消え青い闇。

重たい実体感のある沈黙。

そんな最中、”耳鳴り“が喚いて嘆いて弱々しい耳鳴りをばら撒き続けた。

ただの人間がサイレントを押し広げる。

虎落笛がもげらもげら唸り声を。

夜の帳の奥底で獣より性質悪く喧騒が遠吠えを。

ひたすら沈黙その後耳鳴り。

ふいに“耳鳴り”が、がくり肩を落とした。

襟巻きからもだらり手を離す。

ゆっくり頭が動き、


「サイレント…」


泣きそうな顔で見上げるそのお姿。

心の、奥の方の琴線に触れてくる。

胸の奥の方から、言葉が何かが。

熱い衝動が。

恐る恐る俺の脇へと手を伸ばし、背にしがみつかれ、


「好きよ、サイレント好きなのよ…」


ゆっくり耳鳴りが背伸びをし、頤に口付けを。

さっと胸に顔をうずめられ。

手から滑った文庫が、乱暴な音を立て地面へ落ちる。

喉元に言葉が、言わずにいられない。

爆ぜた、としか言いようがない。

これはもう、ああ、駄目だな。

俺は抑えるために息を吐き、恐れ多いであろうその体を、”耳鳴り“を抱きしめた。

心地よさがあっという間に全身を駆け抜けた。

この良さは寝入りの寝所を上回る。

もっと早くにこうしておけば、後悔が愛おしさと共に滲む。

さらに力を込めると、温もりが伝わり鼓動が聞こえ始める。

耳鳴りの動悸が早くなっているのが分かる。

微かに震えているのは、どちらかが寒さでか。

耐え切れず堪えるよう、俺はその唇を求めるように囁いた。


「…耳鳴り、愛してる」


心の底から湧き出た本音。

口にするには勇気が必要な言葉。

けれど迷いなく告げられる。

簡単には言えないけれど。

ただ最近は無視しすぎた。

両思いと、分かっていて甘えた。

冷たくしずぎた。

反省する。

嫌われては元も子もない。

嫌われたくない“耳鳴り”に。

そんな意味を込めもう一度同じように囁くと、月明かりでも分かるほど、耳鳴りのうなじが赤く染まった。

その一言が嬉しかったのか、その言葉に喜んでくれたのか。

背に回された控えめな手に力が篭り、顔をぐりぐりと胸に撫で付けられる。

猫のように甘えるは耳鳴りの神。

八百万の神の、なにかしらの緩さに思わず苦笑。

それでも愛おしさが溢れ出て、想いの熱を込めるよう小さな頭を撫でた。

耳鳴りの足元でひしゃげた文庫が睨め付てくるが、無視。

たまらないお香の香りに吸い寄せられ、俺は赤い首筋に唇を落とす。

かさついた唇で申し訳ないと思うほど、柔らかい。

嬉しそうに”耳鳴り“が胸元で、サイレント好きなのよ。

首筋に愛撫を続けると、身を捩られさらに深く甘えられる。

幼稚な逢瀬に酔いしれ合う。

耳鳴りが甘く耳朶を撫でる。

突然、けたたましい車のクラクション耳につき、俺は”耳鳴り“の代わりに首元で呟いた。


「おお、滅べや、喧騒」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

耳鳴りとサイレント(仮) 狐照 @foxteria

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ