アダムの林檎

灰崎千尋

アップルパイ

 秀次郎さんは、とても寝相が良い。

 枕の真ん中にその頭をすっぽりとおさめて、多少の寝返りは打つけれどその芯がぶれることはない。ほっそりした体は布団の上で綺麗な線になり、ぐにゃぐにゃと丸まったりもしない。久しぶりに見ても惚れ惚れするほど、彼の寝姿は整っていた。

 朝はいつも、寝穢いぎたない私を秀次郎さんが優しく起こしてくれるのだけれど、今日は珍しく私の方が先に目が覚めた。遮光カーテンをぴっちりと閉めていても、窓の外が明るいのがわかる。頭はぼんやりしていたけれど、二度寝するほどの眠気はなくて、折角だから傍らに眠る秀次郎さんを観察していた。

 細面ほそおもての肌は少し乾いていて、その皺の数は出会った二年前と変わっていない、と思う。寝間着だと、昼間にはシャツの襟やネクタイに隠れがちな首元がよく見えた。静かに上下する喉仏が思っていたよりも大きくて、思わず目が引き付けられる。

 そういえば喉仏って、英語では「Adam's appleアダムの林檎」と言うんだっけ。

 知恵の実を食べたのを神様に見咎められて、驚いたアダムの喉に詰まってしまった林檎の欠片。失楽園の残り香。


「おや……おはようございます、美緒さん」


 目をしぱしぱと瞬かせる秀次郎さんと、目が合った。


「おはようございます、秀次郎さん」


 私はとびきりの笑顔をつくる。

 今日は日曜日。降水確率は低めのはず。デート日和だ。


「ねぇ秀次郎さん、私、アップルパイが食べたいです」






「しかし、珍しいですね。美緒さんがお菓子を食べたがるなんて」


 クラリネットの低音のような、温かく丸みのあるテノール。それが心なしか、弾んでいるように聞こえる。秀次郎さんは甘いものに目がないから。


「秀次郎さんの喉仏を見ていたら、食べたくなっちゃったんです」


 私がそう言うと、秀次郎さんは銀縁眼鏡の奥の目を伏せて、そっと自らの喉仏に触れた。少し恥ずかしそうに、赤い林檎のように頬を染めて。


「ほら、“アダムの林檎”って言うんでしょう? それを思い出したら、なんだかすっかり林檎の気分になって。丸かじりも良いけれど、アップルパイなら秀次郎さんが美味しいところに連れて行ってくれそうだから」


 秀次郎さんは灰色の髭が少しのびた顎に手を当てて、ふむ、としばし考えこんだ後、ふっと顔を上げて微笑んだ。やはり、心当たりがあるようだ。


「それじゃあ今日は、神田に行きましょうか」

「やった! 朝ごはん食べたら、すぐ支度しますね」

「急がなくてもアップルパイは逃げませんよ」


 私がトーストをがっつこうとするのを優しくたしなめるように、秀次郎さんが言った。

 秀次郎さんはわかってくれているだろうか。アップルパイも楽しみだけれど、秀次郎さんと出かけることが何より嬉しいのだと。


 私は想像する。

 これから二人で買いに行くアップルパイを。それはシナモンのきいたタイプだろうか。林檎のしゃくりとした食感の残っているものだろうか。バターがしっかり香ると良い。

 私は想像する。

 それを愛おしそうに食べる秀次郎さんを。ナイフとフォークで丁寧に一口大に切って、ゆっくりとパイを口に含むのを。口元の笑みが、じんわりと顔いっぱいに広がるのを。

 私は想像する。

 私が秀次郎さんの喉元にかぶりつくのを。彼を食べるような気持ちで咀嚼するアップルパイを。血をすするようにフィリングの汁をじゅるりと舐めるのを。

 嗚呼、私はなんて幸せ者なんだろう。




「それにしても、美緒さんの発想にはいつも驚かされます。喉仏からアップルパイとは」

「あ、変な子だって、思ってます?」

「いいえ、あなたといると刺激的で楽しい、という意味ですよ」


 今度は私が頬を染める番だった。

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