流されたもの

群青

流されたもの

 先日、記録的な被害をもたらした大地震は、俺の期末試験とともに過ぎ去って、今日は朝から凍えるような寒さがワンルームの下宿を支配していた。


 暖房が己の使命をまっとうしようと懸命に音を立てていたが、日当たりが悪く、そのくせ外の冷気ばかりが入り込んでくるマイルームを相手に分が悪いようだった。


 大学1回生の長い長い春休みは始まったばかりだった。試験地獄から晴れて解放された俺は、これからしばらくは何もかも忘れて冬眠してやると固く決意し、今日の朝を迎えたのだった。


 しかし、この部屋の寒さは分厚い布団に守られてなお、早くもその決意を凍りつかせようとしていた。だめだ。もっと暖かい場所に行こう。ガチガチに服を着込み、最低限の手荷物とスマホを片手に、人も少なくなり始めた大学構内の図書館に向かった。


 特にやることは決めていなかった。適当に棚から抜いた本を読んでもいいし、ブースで映画でも見るのもオツかもしれない。まあ結局はスマホでネットニュースやら動画やらSNSやらを徘徊して回るだけになる気がするけど。


 自転車を漕ぐたびに顔にぶち当たる冷気に顔をしかめ、機関車みたいに白い息を吐きながら図書館へ向かう。空は曇天で、今にも雪が降って来そうだった。


 自転車を止め、駆け込むように暖かい図書館内に入る。入ったところの張り紙に、ボランティア募集の張り紙を見つけた。


『急募! 津波被害復興ボランティア!!』


 大学公式っぽい堅苦しい形式の張り紙に躍る「!」の文字が妙にアンバランスに見えた。そういえば先日起きた大地震の影響で、震源に近い地域では大規模な津波が発生し、その被災地の様子が連日テレビやネットのニュースを賑わせていた。発生が昼間だったこともあり、途方もない数の人が巻き込まれて亡くなったのだと言う。


 もっと被害を最小限にとどめることはできなかったのか。そんなことをそのうちワイドショーが槍玉に上げ、コメンテーターが偉そうに講釈を垂れ、専門家のディベート大会が始まることだろう。


 今はまだ、海から迫り来る大きな波に、家が流される衝撃映像。屋上に取り残された住人の感動救出劇。ヘリから撮影した、映画のワンシーンみたく変わり果てた街の姿などが、繰り返し流されているような段階だった。


 ポケットからスマホを取り出し、改めて検索をかけてみる。やはり例の地震被害の話がネットニュースの見出し、SNSの話題を席巻していた。


 少し考える。俺も今や大学生だ。少しはこうした社会貢献に関わる経験をしておいてもいいのかもしれない。張り紙に記載されていた日時は特に用事もない。日本全国が復旧、復興を願う声で溢れている今、その現場を見ておくというのも悪くない気がした。


 張り紙をそのまま写真に残して空いている席に座り、スマホから応募に必要な事項を入力して送信する。初めての経験に、なんとなくワクワクしている自分もいた。


 迎えたボランティア初日。その日も凍りつくような寒さだった。朝早い集合だった上に、雨までしとしと降っていた。他にもうだつの上がらない大学生らしき数名が集合場所に来ていて、俺と同様に恨めしそうに傘越しに雨を眺めていた。


 少し遅れて来た大学の関係者の指示に従い、彼らとともにバスに乗り込んだ。これから飛行機で被災地に近い空港まで向かい、そこからバスで現地に向かう。


 現地の空港に降り立つまで時間にして約4時間ほど。その間ほとんど寝るかスマホを見ながら過ごした。画面内のコンテンツは相変わらず災害の映像や情報が溢れていて、これからここに向かうのか、と少し感慨に耽ってみたりもした。


 空港から現地に降り立った瞬間、強烈な冬風が俺を襲った。こちらの天気も曇天で、雪も少しちらついていた。来なきゃよかったかなと思うほどの寒さだった。


 空港からしばらくバスが進んでいく内に、景色の色合いに、黄土色、灰色の割合が徐々に増え始めた。交通整備士が行き来し、機能していない信号機も増えてきた。重機と瓦礫の山もちらほら目に映るようになり、それと反比例して、町であるはずなのに原型を留める建物の数は減っていった。


 俺は「あれはあの番組で映ってたところか」とか「あそこが上から撮られていた場所かな」とかなんとなくバスの窓の外一面に広がる海の方を見て考えながら、そんな景色の移り変わりをぼんやりと眺めていた。


 被災地をしばらく走った後、バスが止まる。津波にもろに巻き込まれた中で、原型をとどめていた高校の校舎。そこが今回ボランティアを行う場所だった。内容は、重機で掻き出した後も残っている校舎内の土砂を外に運び出す、というもの。ただただ肉体労働だった。


 確かこの校舎もテレビで見たことがある。屋上から生徒たちが、ヘリから降りる自衛隊に助けられていたっけ。そんなことを考えながら支給されたスコップを使い、土砂をひたすら猫車に積み上げていった。


 作業は昼頃からスタートして、15時頃に一度休憩に入った。全体に暖かいお茶が支給されたが、力仕事ですっかり身体が温まっていた俺は、むしろ冷たい飲み物の方が恋しかった。休憩の最中、再びスマホを見る。生々しい誰かの叫び声、家屋がいとも簡単に流される瞬間。これら全てが今俺が立つここで起こっていたことなのだ。なんだか信じられなかった。


 お茶を飲み干し再び作業に戻る。今まで通り泥をすくいあげようとして、俺は土砂とは違う何かの感触に気付く。怪訝に思いながらその正体をよく見た。泥に塗れてぼろぼろになっていたが、どうやら何かの冊子のようだ。なんとなく気になって、少しだけ泥を落とす。内容も水や泥に掠れて見にくくなってはいたが、間違いない。



 それはエロ本だった。



 この場所の担当は俺一人だったので、一人まじまじと女優が艶かしい姿を見せている表紙を見つめる。じわじわと言いようのない感情が胸に溢れてきた。何かに急かされるように一度廊下に出て、教室前のプレートを見る。そこには掠れた文字で「職員室」と書かれてあった。俺は早足になって戻り、がらんとして今や泥とゴミしかない室内にパサリと置かれたエロ本の前に戻る。


 寒さなどとうに頭から消えていたのに、震えが体の底から這い出てきておさまらなかった。急に目頭が熱くなってきた。


 目の前のこれを見て初めて実感した。ここにかつて"自分とさして変わらない人の生活"があったことを。


 この本はここに通う不良学生から先生が無理やり没収したものだろうか。生徒に説教してから返すためにここに保管していたのだろうか。または教室のどこかでこっそり回し読みされていたものが、ここまで流れ着いたんだろうか。ひょっとしたら教師の一人がこっそり持ってきて読んでいたものなのかもしれない。


 じゃあ、そんな日常を過ごしながらここであの日を迎えた人たちは、今一体どうなっているのか。俺は一人で馬鹿みたいに焦りながら、枠だけになった窓から教室の外を見る。グラウンドが見える。その向こうには瓦礫の山が点在する、かつて町だった廃墟が見える。そしてその向こうには、地平線いっぱいに広がる海が、曇天を映したような灰色をたたえて広がっていた。不気味な波の音がここまで聞こえるんじゃないかと思うほど、周囲は静かだった。


 作業が終わり、帰路に着く間も、あの光景が忘れられなかった。救いを求めるようにスマホに逃げ込む。変わり映えしない災害に関する映像たちが、文字たちが、SNSやニュース記事を彩っている。今の俺にはそれらがひどく薄っぺらく見えた。


 こんなものをいくら見せられたところで、エロ本を見つけたあの時の風景を上書きできるはずもなかった。この画面に流れる映像の先では、かつて確かに人の生活があって、それらがあの日、なんの前触れもなく流されたのだ。自分とそう歳の離れていない人たちが、その生活とともに、灰色の波に飲まれたのだ。映画のようなショッキングな映像を見るだけでは、そんなこと考えもしなかった。


 スマホを見る。SNSを開く。Youtubeを開く。ネットニュースを開く。情報は相変わらず各メディアから絶え間なく流される。それら全てが上辺だけの茶番に見えた。


 かつてそれらを見て、すべてを知ったような気になっていた俺の浅はかな傲慢は、この日脆くも洗い流された。

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