第30話 帰宅

 青年はタクシーを呼び、初めのホテルに戻った。先ほどから頭痛がする。重い手足を使い、タクシーから降りるのも一苦労だった。顔を伏せたまま目だけでホテルを見上げた。夜の暗さだけではない、疲労の影が彼の顔に落ちている。目はどこを見ているわけでもなく、光を失っている。


 突然の人形の失踪。青年が恐れていた事態が起きた。心を開いていたと思っていた人の目が、軽蔑を向けている。彼は30分ほど前の映像を繰り返し、頭の中で巻き返していた。うつらうつらと歩く青年に、ホテルスタッフは心配そうに歓迎した。


 人形からの信頼を失い、何の情報も得られずに、旅行は初日で終わった。青年は深い絶望で、人形を失った直後は胸が焼けるような思いだった。そのあとに残ったのは、何もない、むなしさだけだった。青年は、何のために生きてきたのだろうと、苛んでいた。


 か細くなった神経に、一筋、光明があった。それは先に部屋帰っているのではないか、という希望だった。何の根拠もないが、あのままお別れというのも人形らしくないのではないかと、考えていた。


 エレベーターに乗り、上昇の圧を感じながら壁にもたれかかった。早く緊張から解放されたいという一心だった。ぐんぐんと重力を感じながら、心も同じように押し縮められていく。


 青年の宿泊部屋の階につくと、いよいよ胸が苦しくなった。数分もしないで、部屋につく。きっと緊張は解けるだろう。人形がいるや否かにかかわらず、青年は重荷を下ろすことになる。それが希望か、絶望かの違いだけだ。


 鍵を開けてドアに入ると、真っ暗で何も見えなかった。玄関先の照明をつけて足元を見ても、人形の靴は置かれていない。やはりいないかと、諦めがつき始めた。そのまま進んで、ベッドがある部屋の前で立ち止まった。一歩、大股に踏み出せば中の様子がわかる距離だ。一つ深呼吸を置いて、青年は大きく踏み出した。


 静寂とした空気だけが、青年を歓迎した。


 冷蔵庫などの稼働音だけがゴォンと聞こえる。それがいつまでも耳の奥で響いている。荷物を下ろし、布団に腰掛ける。それまで張りつめていた緊張の糸が、ぐしゃりと歪んだ。体が重い。呼吸をしても、肺の奥まで空気が届かないむずがゆさ。息を吐いてもはいても、残るしこりを感じる。青年は両手で顔を覆い、うつむいた。


 しばらく顔を下げていると、最後にやらねばならないことを思った。本部に連絡を入れようと、青年は考えた。同僚女性と上司と、どちらに連絡を入れたらいいだろう、どちらでも変わらないか、などとぼんやりと頭を動かし始めた。


 時刻は夕食時。青年は先に上司へ連絡を入れようと考えた。期待に応えられなかったのを伝えるのは、正直心苦しいが、あまり電話することに気落ちしてはいなかった。彼は自分のそんな状態が妙に他人事で、まったく現実味がなかった。青年は魂の抜けた後のような、生気のない人間になっていた。

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