第29話 やまとさま。ごきげんよう。

 人形はからだを起こした。二人にかぶさっていたベールが人形の元に戻ると、青年は目を丸くしていた。人形が顔を近づけると、頭の中に冷たい風が流れ込んだ感覚があった。


「人形ちゃん、いまのはいったい」


「やまとさまも同じなのですね。思いやるのは社会のことばっかり。少しはわたくしのことを、気にしてくれているものと存じておりましたの」


 もう落ちかけている夕日は二人の半身を弱々しく照らしている。人形の顔半分に、暗い影が落ちていた。その中で鈍い光だけが淡々と青年を見つめている。


「そんなに上司に報告したいのですか?わたくしといる時間を楽しむよりも、社会に役立てるほうが大事なのですね」


「何言っているの、僕にはどっちも大事なことだよ。人形ちゃんと楽しく過ごしたい。でもこれは仕事なんだ。ある程度は社会に貢献できる何かを生まなきゃいけない。だから、少し聞きたかっただけなんだ」


「わたくしはやまとさまの心の中をみました」


 青年は心臓が跳ねる音を聞いた。これはパリからの報告でもあったが、人形はその人にしかわからないことを知ることができる。


「……本当にみたの?」


「はい」


「どんなだった?」


 青年はほほを紅潮させて聞いた。場違いな好奇心に、思わず人形の顔も柔らかくなる。


「社会のため、自身が路頭に迷わないたくない、わたくしの力で文明がもっと豊かに発展するように。そんな考えがやまとさまの中で渦巻いていますの。

 わたくしに対しては特に……」


 人形は顔を下げて、両手に握られた本を見つめた。人形の言葉に青年も顔を下げて考えていた。僕は何をやっているんだろうと、今までの行いを反省していた。そしてみじめな生活を思い返したとき、からだがかすかに震えた。自分のしたことは正しかったと思った。


「世の中に愛されるのは、難しいと存じます。社会で構成された世の中では人の発展が第一。わたくしを思いやってくれる余裕はないのでしょう。けれど、個人で見たらまた違ってくると、信じていましたの

 ただ愛されたかっただけなのよ。そうしてくれたら、嬉しいというだけですの」


 人形は青年から4,5歩、距離をとった。


「やまとさま。わたくしは先に帰りますわ」


 人形は肩越しに片目だけよこしていった。すると、人形を囲むように黒い靄が漂っていく。ISEでやったのと同じことをやろうとしている。


「待って!どこ行くの」


「やまとさま。ごきげんよう」


 赤黒い光とともに、爆音が市街に響く。人形は青年の前から姿を消した。


 青年は人形も仕事も、すべてを失ったような喪失感に、心が落ちていくようだった。まだホテルに帰っただけかもしれない。一途の望みに、浅くなった息を整えて、手のひらに爪が食い込むほどこぶしを握った。

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