第28話 貧すれば鈍する
青年はあたりに人がいないことを確かめた。一人として姿を見せる気配はなく、風が落ち葉をさらう音だけが耳に届いた。
「人形ちゃんの超能力について聞きたいんだけど、あれはどうやっているの?」
これまで空を飛んだり、姿を消したり、不思議なことがあった。
「やまとさま。それについては私の方から、しかるべき時が来たら申し上げると言ったはずですが」
人形は首をかしげ、念を押すように言った。警戒の念はこめられていないようだった。
「まあそうなんだけどさ、やっぱり気になるからさ。それに頑なに言わない理由もわからないし」
青年は努めて警戒されないように、言葉を選んだ。いつもなら念を押された時点で引き下がっている。しかし今はそうもいかない。これは仕事で、上司からも圧力をかけられている。ここで何の情報も得られなかったら、青年は社会的弱者だったころに戻ることになる。
「やまとさまらしくありませんわね。そうですわね、言わない理由なら申し上げますわ
わたくしはまだ社会を信頼していないの。わたくしをさんざん利用してきた挙句、振り返って労わることもしない社会を、どうしようか考えている最中でございますの」
ベンチに並んで座っている人形は、正面をみたまま、きつい表情で言った。少女はつらそうに顔をゆがめていた。
「人形ちゃんは一年前にパリに現れてから、何か悪いことに利用されたの?それで読書にふったの?」
社会に利用される。そんな話は聞いたことがなかった。青年はまくしたてるように質問した。
「いいえ、パリでは皆様怯えてしまって、何か悪いことをされた、ということはありませんの。むしろ良くしてくれたと存じます。
わたくしはもっと昔から生きているのです。人間が生まれる前からおりますのよ。いつの頃だったか、イギリスで建物から黒煙が吹き荒れるようになってからですわ。あなたたち人間は、わたくしのことより、あなたたちの発展を望むようになった。
別に否定するつもりはありません。より良い暮らしをするというのが、人の根源にある欲求なのでしょう」
ゆっくりと、一言を押し出すようにして話す。横から見ても、人形の眼が強い光を帯びているのがわかる。悲しみから憤りへ、憤りをなだめるようにまた、悲しむ。その輪から逃れたいような、強い意志があった。
青年は人形が重い荷を背負っていることに気づいた。それでいながら、どうしたら会社に力を貸してくれるかを考えていた。青年は確かにやさしい心と強い好奇心を持った好青年である。そんな彼でさえ、元の生活に戻った時の恐怖が目を誤らせた。企業に就かずに自分の好きなことをする。それが周りからさげすまれるとわかっていた。実際に味わってみると、涙と一緒にご飯を食べることになった。
ある種の社会的道徳が生んだ同調圧力。今の青年は目に見えない力に支配されていた。
「そうだよ、人はいい生活を望まずにはいられない。一度現代の生活を経験してしまったならば、それ以前の生活は無理だよ」
青年は思い切り拳を握った。
「人形ちゃんの超能力は……明らかに現代のレベルを超越しているんだよ。それを人類に役立ててくれないか?情報だけでもいい。原理さえわかれば、きっと学者が何とか応用できるようにしてくれる。それに対価として、人形ちゃんの望みもかなえてくれるよ」
青年は個人が自由に空を飛ぶ絵を描いた。いいことだけではないかもしれない。それでも、また一つ人類の可能性が広がる。その一助に自分が携えるという興奮が体中を巡った。
「では、人類の発展をやめてほしいというのが、わたくしの望みだったとしたら?」
「それは、ないんじゃないか。君自身、発展を否定するつもりはないと言っている。望みはきっと別にある。それは、おそらくだが発展した先の人類に向けてのものだろう」
「えぇ、そうですわね。あなたたちが初めてだったんです。わたくしから離れていった命は」
青年はなんとなく人形の正体に気づいていた。しかし、あまりに超自然的な考えで、自分でもあり得ないと思っていた。つまりは全ての母、目の前の少女は地球が何らかの形で具現化した存在なのではないかという考えだ。それも人形本人から聞くしか、知るすべはないのだろうと、青年は直感していた。
不意に人形が立ち上がった。夕日が沈みかけているのか、最後の赤い閃光で世界を照らしている。その中に人形は立った。それまで身近に感じていた人形が、今は神々しいものに見えた。
「そんなにわたくしの力が欲しい?」
「……はい」
青年はややためらいながら目を伏せ、言った。自分の周りを鎖でつながれているような不自由さを感じていた。
「やまとさま。背筋を伸ばしたまま、目を伏せてくださる?」
人形は声を震えさせながら、悲しそうに笑顔を作った。青年は言われた通り背筋を伸ばした。伏せていた目を上げた時、胸が詰まった。人形の口が、ほほが、瞳が、細部から諦めのような悲壮感が伝わった。
青年は道を間違えたかと、喉の詰まりを受け止めた。青年もまた、絶望を目に宿し、まぶたを閉じた。ただ仕事だけは、好きになれない上司と、みじめな自分のためにやり遂げようと思った。
「そのまま。目を閉じてくださいませ」
座っている青年の顔に、人形は近づいた。両手で顔を軽く持ち上げる。青年は眉間にしわを寄せた。人形の顔が青年と拳一つの距離まで近づいたとき、被ってあったマリアベールが垂れた。二人の顔はベールに隠され、よく見えなかった。拳一つの距離がなくなるまで人形が近付けると、ピクリと青年の肩が動いた。
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