第19話 頑張れでは惹かれない
頭の中にガクンとぶたれたような衝撃が伝わった。
「やまとさま。起きてくださいませ」
ぼやける視界に目をこすり、動かした右手は鉛のように重かった。首も肩も、筋一本動かせばきしむような音を出した。
「お許しあそばせ。ソファでご休息になられては、お体に障りますので」
右の脇あたりから声が聞こえると、しびれる脳内はそれでも一定の働きをみせ、声の主の方へ体を傾かせた。寝起きの気だるさがよく表れているまぶたを三度、手のひらでこすった。
「人形ちゃん??なんだか雰囲気変わったね。後ろ髪、そんなに長かったんだ」
バスタオル一枚をまとっただけの人形は、青年の傍らでひざを折って見上げていた。心配そうに眉を下げており、寝るなら布団にしましょうと、青年の二の腕をつかんで軽く揺らした。
「わたくしが原因ではあるのでしょうが、お疲れのようですわね。せめてお布団の上でお体をいたわる方がよろしいと存じます」
「ごめん、ちょっと景色を見てる隙に寝てたみたいだね。僕もシャワーを浴びてくるよ。大丈夫だから、着替えておいで」
青年の言葉は空中を漂うような覇気のないものとなって発せられた。人形がシャワーを浴びていたことも、布一枚で胸元や膨れた太ももをさらけ出していることにも、気に留めていない。
手の届く位置にある柔らかそうな唇。下唇の厚みが
『夢か……僕なんかが見るには、ちょうどいい物語だったな』
自嘲気味に夢の結末を思い返した。自然の中で生きたいのに、社会でしか食べる方法を知らない。唯一、社会だけが稼ぐ方法を提示しているのに、尽くしきれない決まりの悪さ。青年の心はただ自然に還ることを望んでいた。実家の家族と少ない友人にできるだけの幸せを届けて、あとは風に吹かれていろんな世界を堪能したかった。
心に従うことは社会に何の生産性も与えないことを意味していた。彼が仕事をするのは生活を安定させる理由もあるが、一番は家族や友人に対する愛情からであった。
心と愛情が動かすからだは、完全に
その悩みも現在の仕事につけたことで多少改善されていた。フリーの状態ではあるがISEの研究に参加できたことで、社会に対して自分の存在を還元できると喜んだ。
一年ほど前、今回の人形の研究ついでに旅行をする計画が挙げられ、ガイド役の通達がボロアパートのポストに入っていた時は一人で何度も読み返した。
ISEから二駅離れたユネスコ協会日本支部で(当時ISEは建設中であった)面接をし、難なく採用された。二人の役員の一人が履歴書を見ながら、品定めするようにじろじろと青年を見物していた。ガタイは大きいが、大部分が
帰りの電車で夕焼けを放心状態で眺め、がたつくドアノブを回して部屋に戻った。一段高くなっている玄関先で、大事な契約書が入っているバッグをぎゅっと抱きしめて腰を下ろした。靴元の土やほこりが乗っている四角いタイルを見つめているうちに実感が込み上げてきた。
定職に就かず、ごみのように見られる周りの視線から解放される。ガタガタと歯と歯がぶつかり、目と鼻からとめどなくこぼれるものをそのままに、声を潜めて嗚咽した。
偶然ではあるが、手に入れた自分だけの社会の居場所を守りたい。京都に来るまでハチャメチャな思いをして、それが青年自身、夢に見た大自然へはせる思いと同じものだった。人形とずっと一緒にいたいの本音であったが、それは押し殺すことにした。
『あの夢は警告だ。僕の役割は人形の研究観察であって、社会貢献だ。自分の価値を認めてくれた会社に、恩返しするんだ!』
両親にはユネスコで働くことになったと伝えており、人形のことは守秘義務とされていた。事務的な仕事に携わると偽っていたが、両親は泣いて喜んでくれた。
仕事をしっかりこなせば、次期にユネスコ内で正式な職に就けるかもしれない。
『ここでがんばれ。何もかも心のままに、自然のままというわけにはいかない。自分なりの得意な分野で生きていくんだ。せめて、お母さんとお父さんが生きている間は、親が安心して過ごせるように、がんばるんだ!』
いつの間にか、うたた寝のだるさも取れていた。ソファのひじ掛けに手を置き、迷いを払うように勢いよく立ち上がった。浴室がある玄関側へからだを向けると、人形はホテルで用意された寝間着を身につけていた。白に青いボタン止めの上着と白いズボンであった。
「それじゃあ僕はシャワーを浴びてくるよ、飲み物は冷蔵庫に入れてあるから」
軽く笑いながら、いつも通りに声をかけた。
「ありがとう。頂きますわ。ねぇ、お上がりになられたら一緒にホテルを歩いて回りたいのですけど。よろしいかしら?」
「え?あんまり目立たせたくないんだけ……どうしても?」
「はい」
「そうか、分かった。美来さんにレポートを出した後で軽く散歩しに行こうか」
人形は新しい装いで軽くお辞儀をした。くるくるした毛先のロングヘアーが肩口から垂れた。
「髪、巻いてたんだね。かわいいよ」
「まあ。嬉しいですわ」
お互いが形式的に言葉を交わした。手をかざし浴室に入る青年に、人形も片手をあげて返した。若い妻のように見送るが、目鼻や口元にはあどけない活発とした幼さが残っていた。
青年がいなくなった虚空を見つめながら、胸にかかった髪を、あげた手の指先でいじった。
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