第18話 こころ震わせてⅡ

 手足をばたつかせ、がむしゃらに追いかける。次第に雲に隠れ、青年は肺が破裂しそうなほど走った。ピンクの怪鳥は形さえ残さずいなくなり、走行を緩めた。胸はバクバクと痛がっているのに、新しい空気が肺をめぐり、体の中が広げられる感覚がたまらなく気持ちがいい。激しくむせるが、なおも懸命に口を動かした。

 乾期にもかかわらずそこはみずみずしかった。外輪山の南東側には雲がかかることが多い。インド洋の湿った風が当たって雲ができるからだ。気付けば深い森の中にいた。いつの間に山の中にいたのだろう?と不思議に思い、クレーターの麓へ下った。


「懐かしい匂いだ、おかしいな、初めてくるはずなんだけど。けどこの匂い、好きだな」


 斜面にも草木が生い茂っていた。その葉先に水がたまり、ゆさゆさと滴り落ちたがっているように見えた。一滴、ポトリと土に還った時、彼はこの世界が好きだと思った。感情が奥深くから脈打ち、外にでたがっている音を聞いた。

 しかし、青年の生きる場所は社会の中にあった。このまま、ここから帰りたくない。現実がたまらなく嫌だった。


「コガタフラミンゴはどこ行った?さっきまですぐ上を飛んでいたのに……それにこれ、石灰岩か?どうしてこんなところに」


 現実の生活を見ないために、目をつむりつむり、息を整えていた。ふと、そこが草原ではないことに気づいた。

 青年が手に取った岩はそこら中に落ちていた。意識が遠のくほどに、どこまでも下に続いて転がっていた。


「見たことがある……あの絶壁の白い岩山、ドロミーティか?

 そうだよ、ドロミーティだよ!綺麗だな~、ハハハ!」


 ドロミーティ。イタリア北部のアルプス山脈にそれはある。標高3000m超えの、ドロマイト(苦灰岩。メガロドンという貝の化石を核に構成されている)によってできた白い山々。ドロマイトがあるということは、そこがかつて海の底であったことを意味している。神が大きな刃物で表面を削ったかのような絶壁。その峰に彼はいた。


「へぇ~、麓は思ったよりも自然豊かだな。それにきれいな水だな~。あっちのみどり色の湖は写真で見たことあるな」


 本来、3000m超えの頂から麓をつぶさに観察することは不可能である。しかし青年には、くっきりと見えているようだった。もみの木一本一本のとんがり帽子のような形や、日に当たって黄緑色ところも。その木に囲まれた砂よりも細かい岩くず(シルト)が湖に流れ込み、みどり色に見せていることも。彼にはすべてを見て取れた。


 鋭利な岩肌に風が当たり、甲高い音がした。ピューとあたりを吹き抜け、風の流れ着いた先を、誘われるがままに視線を送った。


「デジャブっていうのかな、今度も聞き覚えがある」


 風の音を、どこかで聞いた。それがなんであるかは、もうわかっていた。かすかに、人形の声が聞こえてくるからだ。視線の先にはまた一つ、大きな白山があった。周りに比べれば山の形を残している。絶壁であることに変わりはないのだが、山の中心はくぼんでいた。地元の人はそのくぼみの大きさから、『神の玉座』と呼び、親しまれている。山の名は『ペルモ』という。


 その玉座に一人の少女がいた。


「……人形ちゃん?!おーい!君も来てたんだ~」


 服装とシルエットからすぐに人形だと気づき、笑みがこぼれた。銀世界と緑の絶景を共有したくて声をかけた。気持ちに反して、風はさらに強さを増していった。しかし、人形の声はだんだんと聞こえるようになってきた。


「……さま。……きてくだ……」


 まだ声ははっきりとしない。先に玉座上の少女の表情が脳裏に飛び込んできた。

 満面の笑みで、青年に手を振っている。彼女も嬉しいことがあったのだろう。青年はそう感じて、思いっきり手を振り返し、からだを突き出すようにして声を張り上げた。


「このまま!一緒に旅をしようよ!社会のことなんて忘れてさ!」


 喉から血の味がした。それほどまでに叫んでも、届いていない様子だった。先ほどから、風がどんどん強まっていく。


 人形に届いているかはわからないが、依然として嬉しそうであった。口をパクパクと開いている。何か伝えたいのか、笑顔のままつま先で地面をけり、跳ねている。


 岩肌からそっと手を離した。聞きもらさないように、遠くの玉座へ向けて、体を押し付けるように近づける。すると、下から吹き上げる風に体勢を崩した。峰から少女のいる山の方へ放り出された。届きそうもない。


 この落ちる感覚も懐かしいと思いながら、人形の声がする風に身を任せた。落ちながらからだを起こし、背中で風を受け止めた。目をつむり、少女のいた場所へそっと儚げに手を伸ばした。


『きっと僕は、そこには行けないんだ』


 ◆

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